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第二章
第二章
そうして紅茶を飲んだ後でコーヒーも飲んでみる。店員の笑顔と共に前に置かれたそれは黒大豆のあの代用コーヒーよりも色が濃い。だが味は変わらないものだと思っていた。
そう思いながらカップを持ってコーヒーを口の中に入れる。すると。
「これって」
「美味しいでしょ」
彼は驚いた顔になったエヴァゼリンに対して微笑んでみせてきた。
「コーヒーは」
「ええ、とても」
驚きを隠せないまま彼に答える。
「コーヒーってこんなに美味しいものだったのね」
「驚いた?」
「西じゃいつもこんなものを飲んでるのね」
「そうだよ」
彼はまた笑顔で答えてきた。
「普通にね。飲んでるけれど」
「そうなの。何か」
「おっと」
ここで彼はエヴァゼリンにそれ以上は言わせなかった。
「そっちのことはおおよそは知ってるから。それ以上は言わない方がいいね」
「え、ええ」
彼の言葉に頷く。東ドイツでは迂闊なことは言えなかったのだ。東ドイツは東側では共産主義の模範生と言われていた。それはソ連をも凌駕すると言われソ連にとっても最も頼りになるパートナーであったのだ。その政治形態は一説にはナチスを模倣していると言われているがナチスもソ連も同じ全体主義国家であることを考えればこれは当然のことであろう。
「わかったわ。それじゃあ」
「またこっちに来るかな」
彼は今度はそれをエヴァゼリンに尋ねてきた。
「どうかな、そこは」
「三日後ね」
エヴァゼリンは何となく彼が気に入りだしていた。その笑顔とコーヒーを御馳走してくれた好意と今の制止のしっかりしたものに。どうやら自分より年下らしいがそれでもよかった。
「三日後またこっちに来るわ」
「そう。だったら待ち合わせしよう」
「何処で?」
「この店の前で」
にこりと笑ってこう提案してきたのだった。
「それでいいかな」
「ええ、いいわよ」
エヴァゼリンもにこりと笑った。そうして彼に答える。
「それじゃあそれでね」
「うん。あと名前だけれど」
「エヴァゼリン=ブラウリッターよ」
彼女は自分の名前を教えた。
「貴方は?」
「ヴォルフガング=アーベンハイト」
彼はそう名乗った。
「これが僕の名前だよ」
「そう、ヴォルフガングっていうの」
不思議と今聞いただけでその名前を覚えることができた。
「わかったわ。じゃあまた三日後ね」
「ここで夕方に待っているからね」
「夕方にね。またコーヒーを飲みましょう」
「うん」
ヴォルフガングはまたにこりと笑って応える。これが二人の出会いでありそれから彼女が東ベルリンに行く度に会ってコーヒーを飲むのだった。会っているうちに二人はお互いのことを知るようになった。
「そう、学生さんなのね」
「年上だったんだ」
その店で向かい合って座って話をしていた。ここでそれがわかったのだ。
「私の方が三つ上だったのね」
「そうだね。まあそうじゃないかなって思ったけれど」
「年上は嫌?」
不意にという感じでこう尋ねた。よく年上が嫌だという男が多いからだ。彼女はそれを警戒したのだ。
「ううん、全然」
だが彼はそうではなかった。首を横に振って微笑んで述べてきた。
「それは全然ないよ」
「そう、よかったわ」
「けれどさ、今の言葉って」
だがヴォルフガングはここで言うのだった。
「何かしら」
「告白ってことだよね」
それに気付いていなかったエヴァゼリンに楽しげに微笑んで言ってきた。
「つまりは」
「あっ」
それを言われて本人も気付く。クールな美貌が赤く染まった。
「そ、そうね」
「そうだよ」
戸惑う彼女にまた言う。
「いいよ、僕は」
「いいのね?」
「だって。エヴァゼリンさんとても奇麗だから」
「もう、早速お世辞なんか言って」
苦笑いを浮かべるが悪い気はしていない。その証拠に顔は赤いままである。
「何も出ないわよ」
「何も出なくていいよ、そんなのいらないから」
ヴォルフガングはこうエヴァゼリンに言葉を返す。
「エヴァゼリンさんと会えるだけでね」
「それでいいのね」
「それにさ、最近」
ここで話が政治的なものになる。それはこの街にいるならば避けられないことであった。東と西に分けられているこの街ならば。
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