Shangri-La...
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第一部 学園都市篇
断章 アカシャ年代記《Akashick-record》
??.----・error:『Nyarlathotep』
水滴。雨の上がった宵の空から最後に一滴、ポタリと。学ランに袖を通し、右腕を抱き抱えるようにした亜麻色の髪に蜂蜜色の瞳を持つ少年へと。
「クソッタレ……ああ、痛ェ」
漸くメゾンに帰り着いた頃には、既に星空。黄金の月より降り注ぐ、純銀の月影。
それだけの時間を、警戒に警戒を重ねて遠回りして来た為に費やした。そしてその時間は、それだけ頭を冷やす時間となり――――また、現状を認識して、無茶な事をした『反動』が来るには十分過ぎた。
「ッ――――!?」
体温を奪い尽くすように凍える右腕の骨の髄、その奥から震えが沸き上がる。ほんの僅か、指先を震わせるだけでも気の遠くなる激痛。頬の血は止まっているが、代わりに酷く意識が霞んでいる。
額に触れてみれば、成る程、よくここまでスクーターを運転出来たほどの低体温だった。
「事故りそうになったのも、事故らなかったのも、腕の痛みのお陰ッてか……」
皮肉げに笑い、心配をかけるだけの今の格好で大家に出会さない事を願いながら、階段を登り――――
「嚆矢くん……? お帰りなさ……」
「あ――――撫子さん」
しかし、嘲笑する神の巡り合わせか。そういう時に限って、鉢合わせてしまう。
「あら……あらあら、大変! 直ぐに救急箱を……ううん、温まるのが先ね。お湯は湧いてるから」
初めは、にこやかだった顔がみるみる青ざめる。慌てて肩を貸してくるせいで、藤色の着物や美しい黒髪がびしょ濡れになってしまっていた。
「だ、大丈夫ですから、撫子さん」
「駄目よ。大人しくしてなさい」
断ろうと口を開くもいつにない強い語勢と、力を込めるも振り払うどころか揺るがす事すらも叶わない。
そこまで衰弱しているのだ、今の彼は。
――いや、だから……
だから、その芳しさに箍が外れそうになる。艶やかな黒髪に映える、白く透き通る項。香水だろうか、仄かに甘い麝香の香り。
ゴクリと、喉が鳴る。あの絹のような皮膚の下には、紅い血潮が駆け巡っている。
それを啜ればこの苦痛と倦怠から逃れられると、否、今まで得た事もない法悦が手に入ると本能が騒いでいた。
「嚆矢くん?」
ふと、此方を見る黒曜石の瞳。吸い込まれそうな程に深い、黒の瞳が――――心配そうに。
『――――ではな、カインの末裔』
思い出したのは、ほんの少し前。高圧的に、断言しきったレインコートの男……ティトゥス=クロウの、聞き捨てならない言葉の一つ。
「ッ――――本当に大丈夫です、撫子さん! 風呂なら一人で入れますから!」
それに辛うじて、踏み留まる。震える紫色の唇で、カチカチと歯を鳴らしながら……必死に、あんどさせようと笑い掛ける。不思議な事に、ごく自然と。
無論、そんな顔色で完全に安心などさせられる訳がない。撫子は、変わらず不安そうな表情だったが。
「……そう? 無理しちゃ駄目よ、後で温かいもの、持っていくから」
「ありがとうございます、ご迷惑をお掛けしてすみません」
「いいのよ。後、少しずつ温めるのよ? いきなりは体に毒なんだからね」
頭を下げ、風呂を借りる。着替えは、撫子の好意で設置されている各借り主用の自分のロッカーから取り出す。
それだけで、酷く疲労した。だが、湯船から立ち上る湯気が僅かに活力を取り戻してくれた。
「…………早く寝たい」
ふらつく体と霞む意識で思ったのは、ただそれだけだった。
………………
…………
……
水滴。切妻屋根の庇から最後に一滴、ポタリと。ベランダの椅子に座り、ガウン姿で夕涼みをしていた褐色肌白髪のサングラスの巨漢へと。
安ホテルの一室、一番最上階のこの部屋は、ある意味ではこのホテルのスイートルームか。部屋の中では、ベッドの上で暇そうに銃の手入れをしている翡翠髪白金瞳の娘。
「――――遅かったじゃねぇか。で、首尾よく運んだのか?」
ピチャリ、と。雫の滴る音。それに、白髪の巨漢は半笑いで問い掛けた。全てを知りながら。
「……話が違う。ただの吸血鬼だとしか聞いていなかったのに、具現階位等と」
それに、何処からともなく現れた――――頭から爪先までびしょ濡れの、赤褐色の髪の美青年……米国海兵の迷彩服と軍靴、紺のTシャツで筋肉質な体を覆い、首に下げたドッグタグを揺らしたティトゥス=クロウは、ペイズリーの瞳を怒りに染めながら。
「お前が逃した魚は、随分な大物だぞ――――なぁ、『セラ』?」
「うっ……べ、別にボクが兄貴に頼んだ訳じゃないじゃんか! 伯父貴が『兄貴に任せとけ』って言うから、仕方なくそうしたんだい! じゃなきゃ、こんなとこでうだうだやってないっつの!」
睨み付けられて一瞬たじろいだ娘だったが、直ぐに鋭い牙を剥いて反論する。それは目の前の青年に対して、というよりは、今も薄ら笑う壮年の男に対しての意味合いが強いだろう。
「何だ、放蕩娘。俺の采配が悪いってのか?」
「少なくとも、良くはないじゃんさ!」
それに異論はないのか、ティトゥスも口は挟まない。元々、無口な性質というのもあるが。
「ああ、ウルセェなあ……折角、黄金の国で休暇だったっつーのに、何が悲しくて糞餓鬼共の面倒を見なきゃいけねぇってんだ」
それを尻目に大瓶のビールを喇叭飲みしながら、男性は実に鬱陶しげに呟いた。
「言われた事しか出来ねぇ頭ん中まで空っ風吹いてる莫迦と、テメェの腕を過信した上に敵を過小評価して負け帰ってきた莫迦。揃って、協力し合う事もやりゃあしねぇ莫迦共。こりゃあ、いよいよ『協同協会』も終めぇだな――――」
グシャリ、と『瓶』が握り潰され、砕けた。『缶』ではない、『瓶』が、である。更にその拳を押し込むと、飴細工のように鋼鉄のテーブルがひしゃげた。
「『具現』まで済ませてるなら、次は『顕在』だ。もしそれを許せば、更に厄介な事になる。この世の終わりが、目前になる」
その背中に満ちる怒気に、気圧された二人は――――どちらも、呼吸すら儘ならない。
「俺達の役目は、情けを掛けてやる事でも言い訳をする事でもねぇんだよ、木瓜茄子共! 俺達がやらなきゃいけねぇのは、『黒い神』の目的を何としても挫く事だ! 『カルネテルの使者』に見せ付けてやらなきゃいけねぇんだ、この世界は――――」
大気を軋ませるように声を張り上げ、天を衝くかのような大男が立ち上がる。
ガウンから覗く肌は、歴戦の刃金。切創に刺創、擦過創に裂創、熱瘡に凍瘡、刀創、銃創。傷の無い場所こそが、見当たらない。それは正に、この男が歩んできた人生の記録。
「――――人のものだ。絶対に……憐れな話だとは思うが、双子のどちらか一方だろうと目覚めさせる訳にはいかねぇんだ!」
地鳴りか雷鳴の如き宣言は、虚空を揺らす。それは、今此処には居ない誰かに向けた者であり――――……
『――――やれやれ』
その『誰か』は、今も、今も。何処とも知れぬ『闇』に包まれて、静かに冷笑を浮かべている――――――――……
………………
…………
……
水滴。無窮の虚空から霊質の一滴が、ポタリと。それに目を醒ました、天魔色の髪に蜂蜜酒の瞳を持つ少年が見たのは――――海岸。
「此所は……」
金色の塵が舞う、菫色の霧。夜明けの青に煌めく銀燐。星の煌めきだと気付いたのは、僅かに遅れて。
明瞭となりゆく意識がまず認めたのは、白く香しいロトスの花。そして紅いカメロテが、星を鏤めたかのように咲き乱れた海岸だった。
「あぁ――――やっと目を醒ましたのね」
「あぁ――――ついに目を醒ましたんだ」
声が降る。煌めく花と星の砂の褥横たわる彼の、背後から。全く同じ声色、しかし正反対のイントネーションで。
目を向けた先、混沌が渦を巻く宇宙の天元。宇宙を満たす霊質の波が押し寄せる、『揺り籠』で。
「驚いたわ。ここまで来てくれたのは、貴方が初めてなの。他の皆は、お外で震えてるだけなのよ?」
歓喜に、期待に満ちるソプラノの声は――――黄金の少女。燃え立つ燐光を放つような黄金の髪に、暗黒物質を溶かしたような漆黒のドレスを纏う、薄紅色の星虹の瞳。
「驚いたよ、ここまで来たのは君くらいだ。他の皆みたく、外で震えてればそれで良かったのにさ」
落胆に、諦観に満ちるソプラノの声は――――純銀の少女。凍てつく燐光を放つような純銀の髪に、鏡像物質を溶かしたような純白のドレスを纏う、薄蒼色の星虹の瞳。
「ねえ、お願い。わたし、貴方のお話を聞きたいわ。お外のお話を、良いでしょう?」
人懐こく、満面の笑顔で『右手』を取る黄金の少女。その温かい右掌は、まるで日輪。
連想したのは、好奇心旺盛な仔犬か。尻尾が有れば振っているだろうと、容易に想像できる。見た目よりも幼く見えるそんな仕草に、知らず口許が綻ぶ。
「ねえ、お願い。早く帰ってよ。ワタシ、君になんて何の用もないんだ。何も、何も」
突き放す、仏頂面にて『右手』を押してくる純銀の少女。その冷たい右掌は、まるで月輪。
連想したのは、警戒心剥き出しの仔猫か。尻尾が有れば逆立てているだろうと、容易に想像できる。見た目よりも確りしたそんな仕草に、知らず口許が綻ぶ。
「ああ、そうか……」
覚えがある。この感覚には、覚えがある。そう、この感覚は――――
「あの、悪夢か」
そう、夢だ。あの、悪意に満ちた混沌の玉座と同じ。痴れ狂う天上の神々、痴れ狂う地下の神々。その讃えるモノと同じ、狂気の戸口の内と外。
這いずるように、この肩に手を置いた――――あの『代行者』と同じ。
――夢だって判ったから、こういう風に改変したのか? 全く、俺も大概だな……。
呆れながら、しかし悪い気はしないので、楽しみながら。少女達を見やる。
「ゆめ? 夢って、何の夢? 貴方も、夢を見るの?」
「ゆめ? あぁ、夢だね。君がそれでいいのなら、さ」
興味深げに、興味なさげに。二人の少女はそれぞれ引き、押す。相反する二つは、しかし拮抗し、最終的に『何も』為さない。
そんな在り方に、何故だろうか。憐れみとは違う、愛しさとも違う。まるで――――まるで、恐れにも似た感情が胸を占めて。
『駄目だ、このままじゃ。どちらかの手を、俺は選ばないと――――』
思い至ったのは、そんな事。まるで、誰かにそう囁かれたように。己の、耳許で忍び笑う『影』にも気付かずに。
そして、その掌は……速やかに。焦燥にも似た強迫観念で迫った、『彼』の意志を体現する。耳許で嘲る、『影』の声なき哄笑を浴びながら。
「――――まあまあ。先ずは、自己紹介からかな。俺は……」
にこりと、いつも通りに。彼の誓約、『女の子に優しくする』のままに――――どちらの『少女』に対しても。
多少の好意を見せてくれる飾利にも、自分を嫌う黒子にも、同じように笑うように。へらへらと、軽口を叩いた。
『――――――――やれやれ』
呆れたように、楽しむように。何処へともなく消えた『影』に、気付く事もなく。
「俺は、嚆矢だ。宜しくな」
重ねられた二つの『右手』と、握手する。それに、二人は揃って不思議そうに。
「……名前。そう、名前」
「名前。ああ、名前……」
黄金の少女は、歓喜するように。握り返す掌は、煌めくように。
純銀の少女は、不貞腐るように。突き放す掌は、煌めくように。
「わたしはね、『二十六文字の賢者の石』って言うのよ。御父様が、そう仰ってたの」
応え、にこりと笑う少女。無邪気な笑顔で、『無垢』そのものの彼女――――『二十六文字の賢者の石』と名乗った『彼女』と。
「ワタシはね、君なんて要らない。君も、私なんて要らないでしょう? どうせ最期は全てワタシに還るんだから、名前なんてモノは意味がない。御父様が、そう仰ってたもの」
応えず、つんとそっぽを向いた少女。不貞た仏頂面のままで、『無垢』そのものの彼女――――まだ名も知らぬ『彼女』は、相反しながら、だからこそ調律していた。
『そこまでだよ、宿木 嚆矢――――』
響く声。それは、誰の声だろうか。此処には、三人しかいないのだ。
では、その声は?
「ああ……ゴメン。どうも――――そろそろ、お別れみたいだ」
囁く声。それは、二人に向けて。残念そうに嚆矢は呟く。もう、目覚める時間だと。誰かに言われた気がして。
「もう、帰ってしまうの? まだ、貴方のお話を聞いていないわ」
「やっと、帰ってくれるの。もう、君に聞くべき事なんてないよ」
残念そうに、黄金の少女は右手を引く。辟易したと、純銀の少女は右手を押す。
それらの全てを見ていた――――
『さあ、また始まるよ。あの遊び場で、君の『クルーシュチャ方程式』が。また、終わりの時までさようならだ』
――月が、笑っている。姿の見えない、新月が。『黒い神』が、狂い果てた■■を嘲笑って――――――――
「また、来てね? 約束よ、こうじ? 次は、貴方の『物語』を聞かせてね。だってわたし、いつも――――」
「もう、来ないで。約束よ、コウジ。ここは、貴方の『物語』に記さないで。だってワタシ、結局は――――」
二人は、全く同じように。全く違う事を口にして。揃って――――
「「一人だから、寂しいもの」」
己の傍らに立っている筈のもう一人を知らぬかのように。『寂しい』と、まるで――――窮極の宇宙の中心で、混沌と退屈に悶えるように。劫初の地球の中心で、泥濘と耐えず蠢くように。
重ねていた、常に触れ合おうとしていた右手を離した。だから――――
「ああ――――また、来るよ。今度こそ、楽しい『物語』を持って来る」
半ば、意地で。黒に染まる意識に、大好きな群青菫を思い描いて。
「だから――――」
閉ざされる。あの戸口は、もう開かない。その時までは、絶対に。
笑っている。声もなく、姿もなく。音もなく、光もなく、混沌のただ中で。もう、届く筈もない。もう、もう――――
「だから、俺は――――」
右手。人のままの。温もりと冷たさ、その二つが残った右手を――――
『今晩は、我が聖餐よ』
掴み、掠れた声で呼び、目の前で狂い笑う黒い道化師。闇に彷徨う深紅の三つ目、蝙蝠の如き翅の造化の神々。
それに付き従い、愚者を嘲るように呪われたフルートをか細く鳴らし、くぐもった太鼓を下劣に連打して躍り狂う蕃神達より――――…………
ページ上へ戻る