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あげは

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2部分:第二話


第二話

 だがここで三吉は煙管から口を離した。そして咳き込みはじめた。
「どうしたい」
「いえ、ちょっと」
 ちょっととは言うがその咳は妙に長かった。
「風邪かい?用心しろよ」
「あい」
 三吉は十郎の言葉にこくりと頷いた。
「只でさえこの吉原にいると命が減っちまうからな」
 花魁の命は短い。花の命が短いのと同じである。瘡毒、つまり梅毒に白粉の鉛、酒、そして労咳、すなわち結核に。花魁はその年季までにこうしたことで死んでいく者が多かった。艶やかな夢幻の裏には惨い現実がある。吉原はそうした二つの世界が共に棲んでいたのであった。
「少し気付けに」
「おう」
 三吉は酒を飲んだ。
「これで大丈夫でありんす」
「ここの店は酒もいいからな」
「あい」
 三吉はそれにも頷いた。
「上方から。特別に運んだものでありんすから」
「そうだな。酒はやっぱり上方のが美味い」
 十郎もその酒を飲みながら言った。三吉に赤い大杯に酒を並々と注がせてそれを飲む。甘い味が口の中に漂う。
「本当にな」
「まだ飲むでありんすか?」
「ああ、もう一杯くれ」
 誘いに乗って杯を出す。三吉はそれにまた注ぐ。それを飲み干した後で十郎は彼女を抱き寄せた。そして耳元で囁いた。
「この前話したことだがな」
「あい」
 三吉は十郎を見上げた。その目は酒のせいか潤んでいた。それが十郎の心を突くのであった。
「兄上も義姉上もよいと言っておられる」
「まことでありんすか?」
「うむ。わしの婿入り先もな。そなたを貰い受けることはいいそうじゃ」
「嬉しいことでありんす」
 三吉はそれを聞いて素直に喜んだ。
「わちきなんかの為に」
「そなただからじゃ」
 十郎の声が優しくなった。
「わしはそなただから貰い受けるのじゃ」
 優しいだけではなかった。いとおしげでもあった。
「よいな。もうすぐじゃ」
 また言う。
「待っておれよ。よいな」
「はい」
 そして二人でまた飲んだ。三吉は酒が好きだった。その時も溺れる程飲んだ。酒に溺れているのか恋に溺れているのかはわからない。だが彼女は確かに溺れていたのであった。
「それにしてもだ」
 十郎は三吉を見て言った。
「いつものことながらよく飲むな」
 三吉は杯を手放さなかった。そして浴びる様に飲んでいた。
「好きでありんすから」
「いや、それでもだ」
 だが十郎は強くは止めなかった。彼もいける口である。そして他人が飲むのを見るのも好きであったのだ。
「これを飲むと。楽しいんでありんすよ」
「それはわかるがな」
 だがいささか限度を越していると思った。
「わちき等は何時死ぬかわかりゃしない身でありんす」
 その通りではある。花魁の命は短い。そして死ねば無縁仏に葬られる運命である。これが吉原の陰であった。
「だから飲める時に飲むでありんすよ」
「さよか」
「あい。それに飲めば見えますし」
「何がだ?」
 これは十郎にもわかりはしなかった。
「夢が」
「夢なら寝れば見れるだろうに」
「それが違うでありんすよ」
 三吉はにこりと笑ってこう言った。白粉の下の顔がほんのりと赤くなっていた。そのせいで顔がうっすらと赤く見えた。
「お酒が。わちきに夢を見させてくれるんでありんすよ」
「夢をか」
 思えば妙な話である。ここにはその夢を見に来ているのだ。それでこうしたことを言われるとは。不思議な感じがしたが自分も見てみたいものだと思った。
「ではわしももっと飲んでみるか」
 十郎はそれに頷いて言った。
「酒をな。もっと注いでくれ」
「あい」
「そして夢を見ようぞ。二人でな」
 そして二人はそれから飲みあかした。最後には酔い潰れた。そこまで飲んだのであった。
 気がつくと朝になっっていた。十郎は店を後にして吉原を出る。もう提灯の火は消えて朝日が見えようとしていた。その赤い光を背に浴び、烏の鳴き声を聞きながら吉原の大路を歩いていた。
「朝烏か」
 まだ酒は残っている。だが烏の声を聞くとその酔いも醒めてきた。
 吉原の朝を告げるのは鶏ではない。烏であった。その黒い羽根を見せつつかあかあと鳴いていた。そして門のところで十郎を出迎えていた。
 その門を見上げる。烏達は時折飛ぶ仲間を見送りながら鳴いている。十郎はそれを見て自分が狭間の世界から現実の世界に戻ろうとしていることを感じていた。
「この門を越えちまえば」
 彼は言った。門に入る。
「わしは起きたということじゃ。夢からな」
 そして門をくぐった。吉原から出た。
「お三」
 三吉のことを呟きながら後ろを振り返る。
「もうじきじゃ。待っておれよ」
 そして言った。
「夢の世界からこちらの世界に出してやるからな。そしてずっと一緒じゃ」
 この時は物分りのよい兄夫婦と婿入り先に感謝した。女遊びは綺麗で程々に、それがわかってくれていた。
 彼が遊ぶのは女だけではなく男も遊んでいた。そうした店にも行く。だが貰い受けまでするのは三吉だけであった。彼女のことは夢ではなく現実であったのだ。そして兄達もそれがわかってくれた。これは十郎の普段の行いもよいからであった。
 確かに遊びもするが武道も学問もする。夜は夜、昼は昼でしっかりと分けていたのである。武士としての務めを果たしてこそ夜の夢の中に入ることが出来る。彼はそう考えていたのである。
 だからこそ婿入りも適ったのである。それも四千七百石の大きな家であった。将軍家が三河にいた頃からの家であり今でも幕府において大きな力がある。十郎の実家とも馴染みである。
 向こうも十郎のことは知っていた。それで婿入りの話が進んだ。そして今はその準備にも追われている。昨夜の三吉との遭いそめは暫しの別れの意もあった。それが済んでから貰い受けるつもりであったのだ。
「金はある」
 十郎は言った。
「あとはまたここに来るだけじゃ」
 そう言って前を向き江戸の街へと戻った。そしてそのまま現実の世界へとまた入るのであった。
 そして婿入りの用意に入った。それと仕事が忙しく吉原には足が遠のいた。だが三吉のことは一日たりとも忘れたことはなかった。そしてこれが済んだら本当に店に行き貰い受けようと決意していた。
 婿入りは無事済んだ。そして気持ちも周りも落ち着いてきた。十郎はそれでようやく時が来たと思った。金を持って三吉のいる店に向かったのである。ところが。
「何と」
 それを聞いて思わず呆然となってしまった。
「まことであろうな」
 店の主人にそう問う。
「嘘なぞ申しません」
 主人は畏まってそう答えた。
「今は。そういうわけでして」
「左様か」
 十郎は憮然としながらもそれに頷くしかなかった。
「病か」
「はい」
 主人は答えた。
「瘡毒の床か?」
 吉原では最もよくある病である。
「いえ」
「では労咳か」
「それでもないです」
「では何じゃ」
「そこまでは我等もわかりませんが」
 主人は申し訳なさそうに述べた。
「大した病ではないので。少ししんどいとかで」
「何だ、その程度か」
 十郎はそれを聞いてすっかり安心してしまった。
「はい。ニ三日もすれば治ると思いますので」
 主は言った。それを聞いて十郎は完全に安心した。
「ではその時に来ればよいな」
「はい」
「瘡毒でも労咳でもなければまずは安心じゃな。では金はその時にな」
「は。宜しくお願いします」
「邪魔したな。ではまた」
 それで店から出た。他の店にも寄らずにそのまま吉原を出る。もう彼は三吉以外の花魁には興味がなくなろうとしていたのであった。
「のう」
 車を轢く家の者に声をかけた。
「はい」
「屋敷に帰ったらな。褒美をやるぞ」
「褒美ですか?」
「そうじゃ。それを持ってここに戻るがいい」
「旦那様の奢りですか?」
「左様。折角金を持って来てもらったのに無駄になってしまったからな」 
 彼はおおやかに笑いながらこう述べた。
「弾んでやるからのう、いい女と遊んで参れ」
「有り難うございます」
「ただし、瘡毒には注意するようにな」
 彼はこう付け加えることも忘れなかった。
「あれはかかると怖いからのう」
「鼻が落ちるのですよね」
「それだけではない」
 彼はまた述べた。
「身体も腐る」
「腐る」
「そして頭に来るのじゃ」
「恐ろしい毒ですね」
「そうじゃ。じゃからそれには気をつけるようにな」
「わかりました」
 実は『頭に来る』という言葉のもとはこれであるらしい。梅毒の末期症状であり、梅毒が脳にまで達してしまった状態である。こうなるともう助かることはない。この時代では梅毒で死ぬ者も多かった。髪が抜け落ち、鼻が欠け、身体が腐っていくのだ。その前に全身に紅の発疹ができ、これが梅毒の語源となった。瘡蓋も出来るので瘡毒とも呼ばれた。江戸時代吉原ではこの病気はよく見られた。絢爛なこの夜の街の闇の部分であった。
 家の者にそんな話をしながら帰った。そしてその日は新しく夫婦となった婿入り先の妻と夜を過ごした。だがその心はまだ吉原にあった。

 
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