鼠の奇跡
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鼠の奇跡
鼠の奇跡
これは本当にあった話である。まだ戦争の傷跡の癒えぬ昭和二十年代初期のことであった。
世相は混沌としていた。敗戦により価値観が崩壊し、人々はその衝撃に打ち沈んでいた。食べるものもなく家もない。街を行けば孤児達がうろつき戦場から帰って来た男達があてもなく彷徨っている。夫を亡くした女達の中には身を売る者達もいる。胸を張っているのは占領に来た肌の色の違う男達とそれに媚を売る者達ばかりであった。人々ははただその日をどうするか、そして生きることのみを考えていた。三合飲んだだけで死んでしまう酒や三号出しただけで潰れる雑誌が巷に出回っていた。頽廃に善を見出そうとする者達もいた。自ら命を絶つことも珍しくはなかった。混沌として、そして夢も希望もない時代であった。
そんな時代だった。眠ろうにも眠れはしない。絶望と頽廃、そして屈辱に心を支配されている。どうして眠ることができようか。人々は酒に溺れその中に眠ることが多かった。だがそれは真の眠りではない。それでも飲まずにはいられなかったのだ。
この男梶原義直もそうであった。彼は戦場から帰ってきたばかりであった。今は粗末なバラックに一人で住んでいる。
「ヘッ」
彼は今その粗末なバラックの中で一人酒を飲んでいた。進駐軍の酒の残りを適当に混ぜ合わせただけの何だかよくわからない酒である。味はお世辞にもいいとは言えない。
「何だ、この酒は」
その酒に対して不平を言う。
「ワインの味もしやがるしウイスキーの味もしやがる。ビールまで入ってるじゃねえか」
そういう酒であった。そんなものだから少し飲んだだけで酔う。しかも悪酔いだ。だが今の彼にとってはその悪酔いこそが相応しかった。彼自身がそう思っていた。
彼は今まで満州にいた。そこで兵士として赴いていたのだ。
満州は少なくとも南方や本土よりは安全な筈であった。空襲もなければ戦争もない。実際に彼は戦争が終わる直前までは気楽に過ごしていた。あの日が来るまでは。
八月九日。長崎に原爆が落ちた日である。だが彼にとっては別の意味で悪夢の日であった。
国境から突如としてソ連軍が侵攻してきたのだ。それはまさに鉄の嵐であった。関東軍は為す術もなく崩壊した。そしてそこにいた日本人達はソ連軍の獣達の餌食となった。その光景は酸鼻を極めるものであった。
彼はその中を必死に南に向かっていた。彼のいた部隊は全滅し崩壊していた。従って彼は着のみ着ままの状態で逃げるしかなかった。誰も彼を守ってはくれなかった。守ってくれるのは自分だけであった。
その時のことはよく覚えていない。ただ人々の泣き叫ぶ声と逃げ惑う顔だけが脳裏に焼きついていた。気がついた時には彼は福岡の港にいた。
それから電車に乗った。一日中立ったままで箱詰めの中にいた。そして東京に辿り着くとそこは一面の荒野だった。まさに何もかもなくなってしまっていた。
妻も子もなかった。妻子は空襲で死んだという。見れば彼が妻子と暮らしていた葛飾の家は完全になくなっていた。妻も子も川で浮かんでいたという。その姿はまるで消し炭のようだったと言われた。
「消し炭か」
彼はそれを聞いた時思わずそう呟いた。呟いても何も出なかった。ただ絶望だけが口から出た。それ以外には何も出なかった。
それから彼はそこら辺にあった木やらトタンやらを集めてバラックを作った。そしてそこに一人住むようになった。あてのない中年男の家である。彼の他には誰もいない。人は誰もいない寂しい家であった。
そこで気が向いたら物をくすねてそれを売って暮らした。生きていく為には仕方のないことだとは思わなかった。どうせ何もないのならこうして罪を犯しても構わなかった。どうせ一人だ。誰にも迷惑はかけない。そう思っていたからこそできることだった。捕まったならばそれで好都合だった。刑務所ならば雨露は凌げるし食べるものもある。今ここにいるより遥かにまともな生活ができる。今の彼にとっては刑務所の方が天国に感じられていた。
そんな彼が今酔い潰れて寝ていた。真夏である。熱気がトタンに残り何時までも暑かった。
「何で暑さなんだ」
満州にいた彼にとってこの暑さはたまらなかった。
「夜でもまるで蒸し風呂じゃねえか」
まさにそうであった。汗がとめどなく流れ床を塗らす。それでも汗が流れる。中々寝付けなかった。
それでも無理に寝ようとする。だができない。彼は次第に苛立ちはじめていた。
そんな時であった。ふと目の前を何かが通り掛かった。
「ん!?」
見ればそれは一匹の鼠だった。ちょろちょろと目の前を通り過ぎていった。
「鼠か」
この時は別に何とも思わなかった。これだけ汚ければ鼠もいるだろうと思った。彼の周りは半ば朽ち果てた家と空の酒瓶だけであった。他には食べ残しがあるだけであった。ゴミ箱と言っても過言ではない状況であった。
「そりゃ出るわな」
自分でもそう呟いた。呟くと妙におかしかった。久し振りに笑いたくなった。
だが止めた。笑っても何にもならないからだ。今の彼にとって笑いは何にもならないものであった。それこそ無駄なものであった。
その日はそのまま寝た。朝起きるとまた目の前を鼠が通り過ぎた。今度は二匹であった。
「増えたのかよ」
それでどうも思うわけでもない。猫を飼おうにも自分がまず生きなければならない。自分の食い扶持ですらどうにもならないのだ。それで今鼠を捕る為だけに猫を飼って何になるのか。何にもならない。むしろ鼠を食べた方がいいが生憎鼠は日本へ逃げる時に何度か食べて好きになれなかった。小さくて骨が多い。それだけで嫌いになった。
「鼠がいようと俺には関係ないな」
そう思いながら起き上がった。そしてその日はどういうわけか闇市に出掛ける気になった。とりあえず行って何かを手に入れてそれで金を手に入れようと思った。金がなければ米でもいい。この時米と金は同じ価値があったのである。これも戦後の混乱故であった。
「残飯シチューいるかい?」
「すいとん美味いよお」
あちこちでそんな声がする。だが梶原はそれを一切無視した。
「そんなもんで腹が満腹になるかよ」
彼は残飯シチューやすいとんといった汁物をこういったところでは食べなかった。薄いだし汁に申し訳程度に団子や残飯が浮かんでいるだけである。そんなものを食べるよりは水を飲んだ方がましだと思っていた。水なら川に行けば幾らでもある。どれだけ汚かろうが飲めればそれでよかった。たとえそこが妻や子が死んだ川であっても。
「くそっ」
彼はまた忌々しげに吐き捨てた。いつも悪態をつかずにはいられない、そんな毎日であった。
「何かねえのかよ」
その何かが何なのかまでは頭の中になかった。ただ辺りを見回すだけであった。
しかし何も見つからない。そもそも何を探しているのかさえ決まっていないのだから当然であった。とにかく目に入るものが気に入ればそれでよかった。本当にそうであった。
見回す。しかし何もない。活気のある場所でも欲しいもの、興味のあるものは中々見つかりはしない。これはどんな状況においても同じなのかと思った。
「あの時もそうだったな」
ふと昔のことを思い出した。その頃は戦争もなく平和だった。梶原も妻や子を連れてデパートへ行ったものだった。そしてそこで何か買おうとして迷っていた。結局その時は妻に言われてデパートから家に帰った。無駄に時間を潰しても仕方のないことだからだ。それよりも家で子供の相手をする方が重要だったのだ。今からはとても想像できない時間であった。懐かしいと同時に苛立たしい時間であった。
「こんなの思い出しても何にもならねえのにな」
苛立ちの原因はこれであった。
「今更昔のことを言って何になるってんだ。今もこれからも真っ暗だってのによ」
「おい兄さん」
そこで後ろから呼び止める声がした。中年の男の声だった。
「あ!?」
梶原はそれを受けて振り向いた。するとそこにはひょろりとした頭の禿た男がいた。
「何をそんなにぶつくさ言ってるんだ?」
「何でもねえよ」
梶原はぶっきらぼうにそう答えた。
「少なくともあんたには関係ねえよ」
「そうかい。ならいいさ」
「ああ。じゃあな」
「いや、待ちな」
別れるところでまた呼び止められた。
「何だよ、また」
「いや、何な」
その禿た男はまた言った。
「あんた、今暇かい?」
「へっ!?」
「いやね、忙しいのならいいけれどね」
「今俺が忙しく見えるか」
彼は自嘲を交えてそう応えた。
「見えねえだろ」
「確かにね。じゃあ言い易いや」
「何をだよ」
「いや、ちょっとね」
梶原はそれを聞きながらもどかしい奴だと思っていた。だが口には出さなかった。
「俺さ、今ここで店開いてるんだけど」
「ああ」
「よかったら一緒にやらないか?今一人でやっていて大変なんだよ」
「仕事か」
「まあな。どうだい、あんたにとっても悪い話じゃないだろう」
「そうだな」
その通りであった。何か働くことができれば少なくとも今よりましな生活は送れるだろう。このままその日暮らしで酒に溺れていても何にもならない。それはわかっていた。
「いいね。引き受けさせてもらうよ」
「お、悪いね」
「いや、俺も暇だったしな。それでだ」
「ああ」
「何の仕事をしてるんだい?」
「簡単な仕事さ」
彼は笑ってそう言った。
「靴を売るんだよ」
「靴をか」
「進駐軍や兵隊さんのおさがりをな。どうだ、これなら幾らでもあるだろう」
「そうだな」
彼もアメリカ軍の豊かさはよく知っていた。彼がその日食うや食わずやのすぐ側で派手な女達を引き連れガムをくちゃくちゃさせている。ポケットには飴やチョコレートがある。正直羨ましくて仕方がなかった。
「どっさり持ってるからよ。どうだ、これを売るのを手伝ってくれないか」
「わかった」
彼は快くそれを引き受けた。こうして彼の靴屋での仕事がはじまった。
仕事は思ったより楽だった。靴は進駐軍から幾らでも手に入る。そしてそれを適当な値段で売ればよかった。金ではなくても米や食べ物が手に入る場合があった。何足か売ればそれだけの彼のその日の食べ物が手に入る。実入りのいい商売であった。
「ほい、あんたの取り分」
「おい、半分もくれるのかよ」
彼はそれを見て驚きの声をあげた。一週間は楽に暮らせるだけの金であった。
「一日働いただけで」
「共同経営者だからな」
禿た男は笑ってそう答えた。
「半分が当然だろう。違うのかい」
「いや、まあ」
言われてみればその通りだ。ここは頷くことにした。
「言われてみればな。そうか」
「そういうことさ。それに俺は実はサツに睨まれちまっていてな」
「進駐軍相手にやってるからか」
「まあな。やっぱりそうしたことはサツからはよく思われねえんだ」
「別に法には触れちゃいねえんだろ?」
「馬鹿いっちゃいけねえよ」
だが男はそれを聞いて笑いだした。
「そんなこと言ったらここはどうなるんだよ」
「あっ」
梶原もそれを聞いてハッとした。
「そうだったな」
「そういうことさ。わかっただろ」
「ああ」
ここは闇市である。言うならばその存在自体が違法であった。ここで店を開くこと自体が本来ならしょっぴかれる原因となる。誰もがわかっていることだがそれをおおっぴらに言う者がいないだけである。
「しょっぴこうと思えば簡単にできるんだな」
「そういうもんさ。俺達が決まりごとってやつを無視したり抜け道を見つけるのと同じさ。あちらさんもその裏をかいてくるんだ。それが世の中さ」
「わかりやすいな」
「だからあんたを雇ったんだ。頼むぜ」
「俺は囮かよ」
「そうじゃない、見張りだよ」
男はまた笑った。そして笑いながらそう述べた。
「サツを見つけたらな。教えてくれよ」
「それも仕事か」
「一人でいるより二人でいた方がみつけやすいじゃないか。だからさ」
「ふん」
その通りであった。どうもこの禿た男、飄々としているが中々味のある男であった。言葉の端々に人生において妙に味のあるものがあった。
「それでいいかな。あんたにとっても悪い話じゃないし」
「まあな」
これだけの金が手に入る。悪い話である筈がなかった。彼はこの話を引き受けることにした。
「明日も来ていいか」
「勿論だよ」
男は笑顔になった。
「金は半分でな。それでいいだろ」
「ああ。ところでだ」
「何だ」
「あんたの名前を知りたいんだが。いいか」
「俺の名前か」
「聞いてなかったからな。よかったら教えてくれ」
「わかった。俺は前部屋ってんだ」
「前部屋か」
「前部屋尚行。覚えてくれたか」
「ああ。俺は梶原だ」
「梶原」
「そうさ、梶原義直だ。覚えてくれよな」
「わかった。じゃあカジさん」
「おい、いきなり仇名かよ」
しかし言われて悪い気はしなかった。仇名は軍隊の頃からあったので抵抗がなかったからだ。
「ああ。俺のことは前さんでいいぜ」
「前さんか、わかった」
「それじゃカジさん」
「何だ、前さん」
「明日も頼むぜ」
「ああ」
こうして二人はその日の別れの挨拶をして別れた。そして梶原は自分のバラックに返った。帰ってみると何故か昨日より涼しい気がした。
「酒を飲んでねえせえかな」
彼はふとそう思った。いつもならもう飲んでいる時間だ。だが今は飲んでいない。飲まずともいい気分であるからだ。こんな気分は久し振りであった。
「まあ今日位飲まなくてもいいな。折角帰ってきたしゆっくりと休むか」
そう言って腰を降ろした。すると目の前にあの鼠達がいた。
「何だ、御前等まだいたのか」
鼠達は彼に問われても答えはしない。ただその黒い大きな目で彼を見上げているだけである。
「留守番をしてくれてたのか。まあそんなわけはないが」
やはり答えない。だがそれでも悪い気はしなかった。別に鼠に話し掛けられたいとは思ってもいないからだ。
「けれどいいさ。なあ」
「ちゅう」
鼠達は鳴いた。意外と可愛い声であった。
「ちゅうかよ」
それを聞いて妙におかしくなった。
「御前等気に入ったよ。今度餌買って来てやるからな。何がいい?」
当然のことながらそれにも答えはしない。だが見上げているだけであった。今度は鳴きもしない。
とりあえずこの日は買って来た乾パンを一欠片やった。一匹に一欠片ずつ、二欠片であった。彼は自分の分を食べた後満足して眠りに入った。そして朝起きてすぐに仕事に向かった。戦争に行く前と同じ生活であった。
そして一日働いて夕方に戻る。鼠への餌も買った。夕食を鼠達と一緒に食べた後で寝る。こうした生活が暫くの間続いた。何時しか彼はかなり安定した生活を送るようになった。ほんの少し前まで何時野垂れ死ぬかわからない生活だったというのに夢のようであった。彼自身にとっても信じられないことであった。それは前部屋もわかった。
「なあカジさん」
前部屋は仕事の合間に彼に声をかけてきた。
「どうしたい?」
「あんた変わったね」
顔を上げた梶原に対してそう言う。
「変わったか」
「ああ。何かいい顔になったよ」
「俺は元々ハンサムだぜ」
「そういうんじゃなくてな」
「違うのかい」
「そうさ。何か落ち着いた顔になったよ。満ち足りたような」
「そうかね」
そう言われてもピンとこなかった。
「俺は別にそうはおもってちゃいねえがな」
「嫁さんと上手くいきだしたのかい?」
「嫁さんね」
だがそれを聞くと急に皮肉な笑みを浮かべた。
「そんなもんもういねえがね」
「すまん、そうだったか」
「いいさ」
顔を元に戻してそう答える。
「本当のことだからな。かみさんもガキも空襲で死んだよ」
「そうだったのかい」
「アメ公に炭にされちまったらしいな。川でプカプカと浮かんでいたらしい」
「あの時の空襲だな」
三月の空襲の時であった。この時アメリカ軍はあえて一般市民のいる住宅地へ空襲を仕掛けたのだ。しかも木造の多い日本の家屋を研究したうえで焼夷弾を使って。これが戦争というものである。誰も死の刃から逃れられはできないのである。かわすことはできてもだ。
「あの時はえらいことになったな」
「知ってたのか」
「俺はその時空港にいたんだよ」
前部屋はそう語った。
「整備兵をしていてな。それでパイロットから聞いたんだ。迎撃に出たな」
「どうだったんだ?」
「酷かったってのは聞いた」
ここでその顔が暗転した。
「下は火の海だったそうだ」
「そうか」
それを聞いて梶原の表情も暗転した。
「だろうな。そうじゃなきゃ人間は炭にはなりゃしねえ」
「十万は死んだらしいからな。女も子供も関係なくな」
「ひでえ話だな、戦争だっていっても」
「俺の家族は何とか助かったけれどな。けれどあんたのところは」
「もういいさ」
彼は沈んだ声でそう答えた。
「済んだことさ。ふっきれちゃいねえがな」
「そうかい。じゃあこの話はこれで止めるか」
「すまねえな、俺がはじめた話で」
「いいさ。じゃあ商売を続けようぜ」
「ああ」
二人はこうして商売に戻った。その日も実入りがよく彼等は両手に大金を持って家に帰ることができた。
梶原は家へ向かって歩いていた。だがふと立ち止まった。
「待てよ」
最近飲んでいないことに気付いた。気付くと何だか無性に飲みたくなってくるのが人間の性というものである。しかも金があれば。彼はこの時この二つの条件を満たしていた。そして彼は酒を買った。今回は金もあるので真っ当な日本酒だ。焼酎を買おうと思ったがこれにした。久し振りに日本のまともな酒を飲んでみたくなったのだ。
「何かこれ買うのも久し振りだな」
彼は一升瓶を手にしてそう呟いた。つまみにはするめを買った。ふんぱつしたつもりだ。
「何か懐かしいな。満州では米の酒は飲まなかったからな」
コーリャンから作った老酒をよく飲んでいた。アルコールが強くあまり飲まずとも酔うことができる。だが彼はこの酒はあまり好きではなかったのだ。やはり日本酒が一番好きであった。
瓶を抱えながら家に戻った。するとやはり鼠達が待っていてくれた。
「お、留守番してくれてたのか」
「ちゅう」
鼠達は彼に答えるかのように鳴いた。
「悪いな、いつも。けれど今日は御馳走用意してきたからな」
そう言ってするめの足を数本と角のところを手で千切って彼等に与える。彼はするめはその足と角が最も好きであったがあえて彼等に与えた。謝礼の意味でだ。
「まあ食ってくれ。癖があるけれどな」
そう言いながら彼は少し欠けた湯飲みを出してきてそれに酒を入れた。そしてするめを肴に飲みはじめた。鼠達を前にして円を囲むようにして飲みはじめた。
「ふう」
一杯飲んでまずは大きく息を吐き出した。
「美味い。やっぱり日本の酒はいい」
久し振りの酒に何やら感動を覚えた。そしてまた一口飲む。五臓六腑に染み渡るような感じであった。
そのまま飲み続けた。飲み終えた時にはもうするめはなくなっていた。鼠達も食べ終えていた。
「御前達にもやるべきだったかな」
だが彼等はそれには答えない。だがするめを食べて満足しているようであった。そのまま目をとろんとさせていた。
「眠いのか」
彼自身もであった。もう夜も遅かった。そのまま寝ることにした。寝転がって眠りに入った。そしてそのまま寝てしまったのであった。
最近夢を見なくなっていた。徹底的に飲んで死んだように眠っているか、最近は働いて疲れていたので泥の様に眠っていたか。どちらにしろ夢なぞ見られる状況ではなくなっていたのであった。
だがその日は眠っていて夢らしきものを見た。ふと枕元に誰かが立っていたのであった。
「ん?誰だい?」
「俺だよ」
「俺だよって。誰なんだよ」
目を向けるとそこには二人の男が正座して座っていた。黒い服を着た出っ歯の男達であった。どういうわけか二人共そっくりの外見をしていた。痩せて小柄なところもそっくりだった。
「わからないのかい?旦那」
「少なくともあんた達に旦那って呼ばれる記憶はねえな」
梶原は起き上がって二人に顔を向けてそう答えた。
「見たところあんた達は俺を知ってるようだな」
「ああ」
「付き合いがあるからね」
「そう、その付き合いだ」
彼はそこに突っ込んだ。
「あんた達みたいなのははじめて見るんだがな。どっかで会ったかな」
「会ってるじゃないか」
「それなりに長い付き合いだと思うぜ」
「満州でか?」
「違うよ」
二人は笑ってそれを否定した。
「満州なんかにいたら寒くて凍っちまうだろ」
「おいら達はもっと温かい場所にいるのさ」
「とするとここか」
梶原には東京しか思いつかなかった。彼は戦争に行くまで東京から出たことがなかったのである。
「そうさ」
男達はそれを認めた。
「ここさ」
「ここにずっといたんだよ」
「そうなのか」
答えながら記憶を辿る。だがどうにも思い出せない。
「本当にいたのか?」
「ああ」
「悪いがやっぱりあんた達は知らねえ。会った記憶はないな。いや」
ここでふと思った。
「言われてみればどっかで会ったかな。何処だったかなあ」
「まあそれはいいさ」
それについては男達の方から打ち切ってきた。
「わからないんならな」
「そうそう、今はとりあえずはどうでもいいことだし」
「そうなのか」
だったら最初から話をしなくてもいいだろ、と思ったがそれは口には出さないことにした。
「それでな」
「ああ」
二人の言葉に頷いた。
「あんた奥さんと子供についてはどう思ってるんだい?」
「女房と子供のことか」
「そうさ。死んだと思ってるだろう」
「死んでなきゃどうしてるっていうんだよ」
彼は口の端を歪めて笑ってそう答えた。
「二人共死んだだろ。何でもとんでもねえ空襲だったそうじゃねえか」
「まあな」
「確かにあれは酷かったな」
どうやらこの二人もあの空襲に遭っているようである。
「けれどな、おいら達は助かったぜ」
「運がよかったんだな。俺のところは駄目だったが」
「そうともばかり限らないぜ」
「二人の死体は誰だかわからなかったんじゃないのかい?炭みたいになっていたから」
「それでもわかるだろ」
彼はそう答えた。
「そっからいなくなっちまったんだからな。死んでると思うのが普通だろ?」
「まあな」
二人はそれには答えはした。
「けれど実際のところはわからないだろ?」
「わかるよ」
梶原は憮然としてそう言った。
「死んだってな。じゃあ死んでなかったらどうしてるんだよ」
「生きてるんだよ」
二人はそう答えた。
「有り難いね」
彼はそれを聞いてまた口の端を歪めて笑った。
「俺を励ましてくれてるのかい?もしかしたら生きてるって。有り難いけれどな」
「いや、そうじゃないよ」
しかし二人はそれを否定した。
「おいら達だって伊達にこうしてあんたと話をしてるわけじゃないしな」
「ちゃんと用事があって来たんだ」
「その用事が俺を励ますことじゃないのか?」
「だから違うって」
彼等はそれを否定した。
「どうしてそうとらえるんだよ。もっと素直にとらえてくれよ」
「そんなんだと何にも見えないぜ」
「もう見えなくたっていいさ」
彼は酒に酔った顔でそう答えた。
「どうせ今の俺は金だけだしな。それさえあればいいのさ」
「嘘つけ」
だが二人はその言葉にくってかかった。
「そんなこと全然思っちゃいないだろうが」
「拗ねて何になるっていうんだ」
「じゃあ聞くけどな」
梶原もむきになってきた。
「女房や子供が生きているのかよ。生きていたら会ってみたいもんだな」
「会いたいのかい?」
「そりゃ」
彼は戸惑いながらも答えた。
「会いたくない筈がないだろ。生きているんならな」
「わかったよ」
二人はそれを聞いて頷いた。
「それじゃあね」
「ああ」
「明日東京駅の方へ行ってみたらいいよ」
「東京駅か」
「場所は知ってるよね」
「おい、馬鹿にするなよ」
そう言葉を返して笑った。
「俺は東京生まれの東京育ちだぜ。それも代々の江戸っ子だ」
「そうだったの」
「ここのことなら何でも知ってるんだよ。東京駅か。そんなのすぐにでも行けらあ」
「じゃあ安心だね」
「東京のことならおめえさん達に言われるまでもねえんだよ。わかったか」
「うん、わかった」
「明日だよ。時間はいいね」
「ああ、わかった」
彼は頷いた。
「明日だな。ちょっと行ってくる」
「うん」
ここで夢は終わった。目が覚めた時には誰もいなかった。どうやら酔い潰れてそのまま寝てしまったようである。だが不思議と酔いは残ってはいなかった。
「いい酒だったのか?」
今時珍しいことであった。最近巷に出回っている酒はアルコールだけが入っているようなとんでもない酒ばかりだった。安いどぶろくならまだいい方で色々な酒を混ぜ合わせたものや酷いものになるとメタノールまで入れたものもある。所謂メチレンというものである。これを飲むと下手をすると死んでしまう。失明の危険すらあるのだ。
だがそれならばよかった。二日酔いは今はしたくはなかった。覚えている夢のことが本当なら。彼はすぐに起き上がった。そして前部屋に誤魔化しを入れて東京駅に向かった。彼はそれを聞いて面白そうに笑っていた。
「誰か迎えに行くのかい?」
「ちょっとな」
そう答えただけであった。詳しく話すつもりはなかった。
「用事があってな。悪いが今日はこれで失礼させてもらうぜ」
「ええいいぜ。じゃあな」
「おう」
今日の稼ぎはなしだ。だがそれでもよかった。彼は金よりもずっと大事なものを手に入れに行くのだから。彼にとっては金は最も大事なものではなかったのである。今それを悟っていた。
行く時に家の側を通り掛かった。ここでふと思った。
「こんなところでも三人暮らせるかな」
と。まだ会ってもいないのに図々しいことだと思ってはいたが。だがそれでも思わずにはいられなかったのである。それが夢ならば尚更であった。
そんな彼を鼠達は屋根の上から見守っていた。だが梶原に彼等の姿は見えなかった。見えなかったというよりは気付かなかったのである。彼はそれ程心ここに在らずだったのである。
鼠達はにこやかに笑っていた。だが梶原はやはり気付かない。鼠達はそれでもよかった。何故ならこれからのことがわかっていたからであった。彼等の笑顔がそう言っていた。
梶原はそのまま歩いていかずに自転車を買った。それで悪路を進んでいった。歩いて東京駅まで行くには遠い。それで買ったのであった。どのみち近いうちに買うつもりではあった。
「おっとと」
自転車のバランスを必死にとる。やはり道が悪くバランスをとるのにも一苦労であった。
「こりゃ辛いな。瓦礫に気をつけねえとな」
見れば道に普通にガラスの破片等が落ちている。空襲の後も残っているがそれ以上にゴミが落ちていた。彼はそれに気をつけながら先を進んだ。行く先はもう決まっていた。
やがて東京駅に着いた。そこは人で一杯であった。何処に誰がいるのか全く見当がつきそうにもなかった。
「困ったな」
この人の多さまでは頭に入れていなかった。ただ来ただけであった。思えばここは彼が帰って来た時もそうであった。ならばこんなことは最初からわかっていた筈であった。迂闊といえば迂闊であった。
辺りを見回す。とてもわかりそうにない。こんなので見つけることができるのだろうかと思った。しかしそう思った丁度その時であった。
「あの」
彼に声をかける女の人の声があった。
「はい?」
それに応えて声の方に顔を向ける。その時であった。
「あんた」
「御前」
そこに彼女がいた。死んだと思っていた彼女がそこに立っていたのである。髪は白いものが混じり、肌も荒れていたが彼女に間違いなかった。黒くて大きな目と赤く小さい口が何よりの証拠であった。そして彼女の手にはもう一人の手が握られていた。
「どうしてここに」
「御前こそ」
それはこっちが聞きたいことであった。梶原にとっては。だが妻にとってみればこっちが聞きたいことであっただろう。
「死んだんじゃなかったのか」
「いえ」
妻はその問いに対して首を横に振った。
「まさか。疎開してたのよ」
「何処にだ」
「千葉の田舎の方にね。あたしの実家に」
「そうだったのか」
彼の妻は東京生まれではない。千葉の田舎の方に生まれている。実家はそこで百姓をしているのである。そして彼女は東京に出稼ぎに来ていたのだ。そこで梶原と出会い結婚した。恋愛結婚であり梶原はこれはハイカラだといささか時代遅れな言葉を使って自慢していたのだ。
「あの空襲のちょっと前にね。運がよかったわ」
「それじゃああの話は間違いだったのか」
「あの話って?」
「あ、いや」
彼はそれを誤魔化しにかかった。
「何でもねえ。気にしないでくれ」
「そう。ところで家は」
「ねえよ」
彼はそう答えた。
「空襲でな。燃えちまった。今はバラックだよ」
「そうなの。けれど家があるだけまだいいわね」
「あるだけって。ここに住むつもりかよ」
「そうだけど。何か悪い?」
「悪いってな」
それを聞いて困った顔を作った。
「狭い家だぞ。クソ暑いしな。それでもいいのか」
「あたしは別に構わないわよ」
それに対してそう答えた。
「一緒に暮らせるんだから。そうは思わないの?」
「そりゃ」
そう言われて逆に口ごもってしまった。
「俺だって一緒に暮らしたいさ」
だからこそわざわざここまで来たのである。その気持ちに偽りはなかった。
「けれどな」
「何かあるの?」
「何もねえよ。ただな、本当にバラックでもいいのか。ガキは大丈夫なのかよ」
「心配しないで」
妻はそれにはにこやかに笑って答えた。
「あたしとあんたの子供だよ。しっかりしてるよ」
「いや、俺はしっかりなんかしてねえけれどな」
つい最近までこれといって働きもせず飲んでばかりだった。そんな自分がしっかりしているとは自分でも到底思えなかったのである。彼は少なくとも自分に対して嘘はつかなかった。
「まあ御前に似てたらしっかりしてるかな。それでいいか」
「そうさ。じゃあ行くよ」
「家までか?」
「勿論だよ。歩いて行くんでしょ、家まで」
「馬鹿行っちゃいけねえよ」
それには苦笑してみせた。
「こっから家まで大分あるぜ。俺は自転車でここまで来たんだ」
「じゃあそれで行こうよ」
「生憎一人乗りなんだよ。それじゃあどうしようもねえだろ」
「いや、あるよ」
しかし彼女はそれに対しても楽天的にそう返した。
「だから安心してくれよ」
「安心たってなあ」
どうするのかかえって興味がわいてきたのは内緒であった。
「一体どうするつもりなんだよ」
「あれ使えばいいじゃない」
そう言って指差したのはゴミ捨て場に落ちているリアカーであった。
「あれで帰りましょ」
「そうか、あれはいいな」
「そうでしょ。三人でね」
「ああ。じゃあ俺が自転車で引くわ」
「お願いするわね。この子は私が抱いてるから」
「頼むぜ」
「ええ」
こうして三人は家に向かった。夫の自転車でゆっくりと。家に着いた時にはもう夜になっていた。
そんな三人を鼠達は物陰から見ていた。だが三人が家に入ると何処かに姿を消してしまった。梶原はそれっきりその二匹の鼠を見ることはなかった。だが何時の間にかそんなことは忘れてしまい家族との生活に入っていった。そして気がついた頃には靴屋として成功し新しい家を建てられるようになっていた。前部屋と共同経営者として会社にまでなった。戦後の有名な成功者の一人とさえされるまでになった。
だが全ては鼠のおかげであったのであろう。しかしそれを知っているのはあの鼠達だけであった。梶原ですらそれには気付いてはいない。不思議な鼠達であった。だがこれは本当にあった話なのである。戦争で傷付いた人を救った些細な話であった。
鼠の奇跡 完
2005・7・5
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