孤独な牛
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第一章
第一章
孤独な牛
「忌々しい奴だ」
生まれた時に聞いた言葉だ。覚えていない筈なのにずっと覚えている。
それは今でも同じだ。このとてつもなく広く、そして複雑な宮殿の中でずっといる今も。
彼はこの広い宮殿の中で生まれ育った。しかし彼に顔を見せる者はおらず食事は決まった部屋に決まった場所に置かれ服も風呂も気付けば用意されている。生活自体は何不自由ない。
しかし彼は孤独だった。寝ても起きても一人で広い宮殿の中でただ一人過ごしているだけだ。そしていつも考えることは決まっていた。
「自分は何なのだろうか」
だが答えは出ない。出る筈もなかった。この世で見るものは宮殿とそこにあるものに庭、その他には何も見たことはない。人というものすら。
本もまた自然に置かれていた。何故か読むことができた。だがそれでも外には出られる本に書かれていることが本当なのかわからない。彼は宮殿以外何も知らなかった。
そんな暮らしがどれだけ続いただろうか。ある日宮殿の門、これまで固く閉じられていたそこから庭と同じように強い日差しが入るようになった。しかも庭と違って先は高く厚い壁で遮られてはいなかった。先には何か晴れやかな世界が見えていたのである。
思わずそこに足を踏み入れそうになった。しかしそれは適わなかった。目の前に見たことのないものが出て来て彼を遮ったのだ。
「ここから先に行ってはなりません」
「!?」
「私はこの門の門番です」
「門番というと」
彼は本での知識を思い出した。その言葉は読んだことがあった。
「あれか。城や宮殿の入り口を護っているという」
「その通りです」
それは彼に対して答えたのだった。動いている。実は動いているものを見るのも宮殿の端を動き回る鼠や虫、庭に入る小鳥達以外に見たことはなかった。ましてや彼よりは小さいがそれでもここまで大きなものを見たのもはじめてだ。そして彼が話しているものも。それは生まれた時に聞いたそれだった。
「それは言葉だな」
「おわかりなのですね」
「覚えている」
彼はその時を思い出しつつ述べたのだった。
「それは」
「左様ですか」
「御前はあれか」
ここでは本の知識を思い出した。
「人間だな」
「そうです」
こう答えが返って来た。
「私は人間です」
「そうか。人間か」
「ダイダロスと申します」
そして今度はこう言ってきたのだった。
「それは名前というものだな」
「このことも御存知なのですね」
「本で読んだ」
「本でですか」
「けれど見たのも聞いたのもはじめてだ」
白痴めいた声であったが決して知性に乏しいわけではなかった。むしろ大柄な身体にあるその目の光ははっきりとしたものであった。
「人間も。名前も」
「では貴方の御名前は」
「ミノ・・・・・・タウロス?」
その白痴の如き言葉でまた述べた。
「そう言われていたような」
「そう、それが貴方の御名前です」
彼も言ってきた。
「それこそが」
「そうか。これが名前だったのか」
彼はここでわかったのだった。名前というものが実際にどういう意味を持つものなのかを。やはり本だけではとても実感が湧かなかったのだ。
「私の」
「左様です。そして貴方様も人間なのです」
ダイダロスは今度はこう言ってきたのだった。
「私と同じく」
「私は人間なのか?」
「世の中の者は違うと思っていますが人間です」
また語るダイダロスだった。
「貴方様は。紛れもなく」
「人間。私が」
「少し宜しいでしょうか」
ダイダロスの言葉の調子が少し変わってきた。
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