不思議な味
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第四章
第四章
「スープはどんなのでしょうか」
「これがですね」
急に親父の顔が曇った。曇っただけでもなく不審なものを思い出す表情にさえなっていた。
「凄いんですよ」
「凄いんですか」
「まず醤油は仕方ないだのこういうものだと言いながらもナムプラーを使っていましたが」
タイでは醤油はこれである。魚から作った醤油だ。日本での大豆から作る醤油とはまた違う。日本でもしょっつるというものがあるにしろだ。
「だしを取るものが全然違うのです」
「全然ですか」
「何とですね」
顔を顰めさせてアッサムに述べてきた。自然と声が小声になっている。
「海草を使うんですよ」
「えっ!?」
アッサムもこれには驚いた。日本人が海のものを非常に好んで食べるとは聞いていたがそれでもまさかあんなものまで食べるとは思わなかったのだ。彼等タイ人にとってみれば海草とはまさに『あんなもの』なのである。とても食べるような代物ではないのだ。
「本当ですか!?本当にそんなものから」
「ええ。間違いありません」
親父は顔を顰めさせたまままた述べる。
「本当に海草を使っていました。昆布を」
「昆布ですか」
「あとは小魚をですね」
「小魚を」
これもまたタイ人達には縁のないものであった。話を聞いていてアッサムは何か地獄か極楽の話をはじめて聴いた時の様な気分になった。彼にとってはそこまで奇想天外な話だったのである。少なくともにわかには信じられない類の話であった。そうした意味では地獄や極楽の話よりも衝撃が大きかった。
「干物にしてそれも使います」
「豚や鶏の骨からではなく」
「はい小魚を」
「わかりました。日本人もかなり変わったものを食べるのですね」
「あの人達はそれを美味しそうに食べていましたよ」
親父は怪訝な顔をそのままにまた述べる。
「美味しいかどうかは私はわかりませんが」
「そうですか」
「あとは葱を刻んで入れたりしていましたね」
「それは普通ですね」
「ええ。とりあえず私が覚えているのはここまでです」
「わかりました。どうも有り難うございます」
ここまで聞いて親父に礼を述べて頷くのだった。丁度同時にコエチャップも食べ終えていた。
「コエチャップも御馳走様でした」
「どうも」
「しかし。本当に変わった麺ですね」
彼はあらためて日本のそのうどんやそばについて思うのだった。考えれば考える程凄い食べ物だと思わざるを得ない。彼にとっては。
「私一回でいいから食べてみたいんだけれどね」
「食べたことないんだ」
「うん」
ここでナンカの言葉に顔を向けた。
「実はそうなんだ。日本軍のおじちゃんがどうだって勧めてくれたことはあったけれどね」
「その時食べなかったんだ」
「全然」
こう答えてきた。
「何時でも食べられるかな、って思っていたけれどおじちゃん達いなくなったから」
「あれはあれで気前のいい人達でしたからね」
殴られたことがあるという親父が笑って言ってきた。
「やたら口やかましくてすぐ殴ってきましたけれどね」
「殴るのは。そうでしたね」
あまりにもそれが目立つのでアッサムもそれは承知していた。碗を親父に返しながら述べる。
「あれだけはどうにも困りましたね」
「ええ。理由もなく殴るのではなかったですけれどね」
流石にそれはしなかったのだ。
「それでも困りましたけれどね」
「ええ。とにかくこの娘は食べていないんですね、そのうどんもそばも」
「私もですよ」
親父もそうであるとのことだった。話を聞いていると。
「どんな味なのやら。さっぱり見当も」
「そうなのですか。しかし」
ここでアッサムは思った。これは僧侶としてはいささか不謹慎であったが彼もそのうどんとそばを食べてみたくなったのだ。それと同時にこの二人にも食べさせてみたくなった。己の食欲と善意が混ざり合っていた。実に人間らしい二つの感情が混ざったうえでの考えであった。
「それでしたらですね」
「はい、何か」
「一つ私が作ってみましょう」
「お坊様がですか」
「こう言っては御仏の道に外れると思いますが」
正直に今の己の心の中も述べてみせるのであった。
「私も一度そのうどんとそばというものを食べてみたくなったのです」
「それでですか」
「はい。それでどうでしょうか」
こう親父に尋ねてきた。
「この娘も。喜んでくれるでしょうし」
「私そのおうどんとおそば食べていいのね」
「勿論だよ」
にこりと笑って彼女を見下ろして答える。
「その為に作らせてもらうんだしね」
「有り難う、お坊さん」
「それではこういうことで」
親父に顔を戻して述べる。
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