蛭子
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第六章
第六章
「どうでしょうか」
「仰る通りです」
だがキヨに問われると答えるしかなかった。彼はもう嘘をつくことはできなかった。
「本当に。何もできないです」
「食べることも寝ることも」
キヨはそれを受けて呟いた。
「一人ではできないのですから。それでどうしろというのでしょうか」
「どうにもできないです」
また素直に答えた。
「本当に。何も」
「そうですよね」
「はい」
彼は頷いた。
「お嬢様は。ここでずっと暮らしていくしかありません」
「それは私が一番よくわかっています。本当に」
「けれど。一度でいいから外を御覧になられたいと思いませんか」
「いえ」
しかしその言葉には首を横に振った。それを願ってもいけないことは他ならぬキヨが最もよくわかっていることであった。彼女はそうした意味であまりにも分別があり過ぎた。
「願ったら。貴方に御迷惑がかかります」
「しかし」
ここまで言えばもう引き返すことはできなかった。
「私はおぶるだけですから。ほんの些細なことです」
「外が気に入れば。ここにはいたくなくなりますね」
「けれど」
「そうなったらいつも外にいたくなります。そうすれば御父様や御母様にも御迷惑が。貴方だけでなく」
「そうですか」
それを聞いて肩の力を落としてしまった。彼はもうキヨを説得することはできないのだとわかってしまった。こうなってはもう諦めるしかなかった。
「ではいいです。馬鹿なことを言ってすいません」
「いえ、いいです」
だがキヨはそんな彼を許した。
「結局。私の場所はここしかないのですから」
「はあ」
彼は申し訳なさそうに頷いた。キヨはそんな彼を見ながら言葉を続けた。
「それに」
「それに」
彼は彼女の言葉を反芻した。
「私は寂しくはないですし」
「けどここにいつも一人じゃ」
「物心ついた時から御父様も御母様も来て下さいましたから。それに今は貴方がいますし」
「またそんな」
そんな言葉を言われると恥ずかしくなった。手足がないとはいえ年頃の、しかも美しい娘に言われたのである。恥ずかしくならないのが不思議だった。
「私はただ。ここにいるだけですから」
そしてこう言い訳をした。これは言い訳であった。
「お金を貰って。それで来てるだけですよ」
「来て下さるだけで充分です」
キヨはにこりと笑ってこう返した。
「それだけで。私は寂しくはないですから」
「そうですか」
「ええ、それだけで。人が側にいるだけで」
そう語る目の色が優しいものになった。
「私は充分です。貴方がここに来て下さるだけで」
「お嬢様」
この時だったであろうか。彼の心がはじめて動いたのは。
「私なぞで宜しいのでしょうか」
「はい」
彼女はその優しい、にこりとした顔のまま頷いた。
「それで。他には何もいりません」
「有り難うございます」
有り難い言葉であった。今まで自分のことだけ、金のことだけを考えて生きてきた彼にとってははじめて聞くような言葉であった。それが何よりも心に染み入るのであった。
「これからもお願いしますね」
「はい」
彼はまた頷いた。
「こちらこそ。宜しくお願いします」
「ええ」
キヨもまた頷いた。
「本当に。ずっといて下さい」
「はい」
この時から彼は金の為ではなく純粋にキヨの為に働くことになった。それまでの義務的なものから使命的なものに変わった。彼はただキヨの為に働くようになった。
服を替える時の身体や髪を拭いたり洗ったりすることもこれまでよりずっと真剣になった。そうすれば見えるようになったのだ。キヨのさらなる美しさが。
その日の光を知らぬ身体は何処までも白かった。白い肌に対比するように髪は黒い。まるで夜の闇のように黒い。その対比が生み出すこの世のものとは思われぬ美しさにも心を奪われるようになった。そしてキヨも彼を慕うようになってきていた。ここに何かが生まれぬ筈もない話であった。
そしてその何かが生まれた。彼はキヨのところにいる時間がさらに長くなった。こうして月日は流れていくのであった。
ある時彼は屋敷の主に呼ばれた。そして問われた。
「キヨのことだが」
「はい」
彼は主の前に正座して座っていた。主もまた正座し、着物の中で腕を組んで彼と向かい合っていた。
「近頃妙に明るくなってきてはおらぬか」
「左様でしょうか」
「うむ。それまではそれ程口を利かなかったのだが」
主はいつものように厳しい声でこう語った。
「だが近頃は違う。よく話をするようになった」
「はい」
「これも御主のおかげじゃな。よくやってくれている」
「有り難い御言葉」
彼はそれを聞き恭しく頭を垂れた。
「お嬢様は素晴らしい方です。ただお美しいだけではありません」
「うむ」
主はそれを聞き満足そうに頷いた。
「心根も。本当によい方です」
「そうじゃのう、だからこそわしも妻もあれが可愛いのじゃ」
「はい」
「まことに。何故あのようにして生まれたのか」
「ところで御聞きしたいのですが」
「何じゃ」
主はその目を彼に向けて問うてきた。
「お嬢様がお生まれになった時ですが」
「その時がどうしたのか」
「旦那様はどう思われましたか」
「あの時か」
主はそれを聞いて遠い目をした。
「あの時はな」
「はい」
「わしもあれもそれなりに歳をとっていた。じゃからまさかまた子ができるとは思ってはいなかった」
「左様でしたか」
「じゃが生まれたのを見た時は。今見えていることが信じなれなかった」
沈痛な声でこう言った。
「何故赤子に手足がないのか。これは祟りかと真剣に思った」
この時代はまだそうした迷信が多く残っていた。だからこそこう思うのもまた当然のことであった。
「実は最初間引こうと思った」
「間引こうと」
「うむ」
主は頷いた。この当時望まぬ赤子が生まれた時にはその子を密かに殺すことがあった。口減らしであったり止むに止まれぬ事情があってのことである。遊郭においても子を堕ろすことは普通にあった。表向きは禁じられていてもどうしてもそうせざるを得ない者達もいるのである。そうしたことを専門とする医師達もいた。こういった者達のことは厠の貼り紙等に書かれていた。彼もそれは見たことがあり当然ながら知っていた。
街ではこうであった。そして村では間引きがあった。そうした望まれぬ命が消されるのはこの時代においても、いや何時でもあったのである。影の世界の話であった。
「じゃが。止めた」
「どうしてでしょうか」
「娘だからじゃ。他に理由があるか」
「いえ」
頷くしかなかった。理屈ではなかったがこれ以上にない説得力のある言葉であったからだ。
「じゃがとても外には出せなかった。それで」
「あの蔵の中へ」
「うむ」
やはり沈痛な顔で頷いた。
「不憫じゃが。そうするしかなかった」
「それで死産と届け出られたのですね」
「そうじゃ。じゃが村では噂になっておるのも知っておる」
「左様でしたか」
それを聞いてやはり、と思った。最初に村に来た時でそれはよくわかっていたことであった。あの老人の態度と言葉から容易にわかることであった。
「そして今まであそこで育ててきた。今までな」
「長い間だったのですね」
「その間。多くの者を雇ってきた。じゃが」
言葉の音色が変わった。沈痛なものから苦しい、痛そうな言葉になった。
「多くの者が。去っていってしまった」
主は苦しそうにそう述べた。
「狂ってな。無理もないことじゃ」
「はあ」
「じゃお主は違った。狂わずにいてくれた」
「いえ、それは」
たまたまだと思った。確かに最初に見た時は自分も気が狂うかと思ったしかしそうならずに済んだ。これは本当に運がよいことだと自分では思っていた。ただ、それを支えたのはやはり金の欲しさではあったのだが。それでもそのせいで狂わずに済んだのは自分でもよしとしたかった。
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