八百比丘尼
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1部分:第一章
第一章
八百比丘尼
あれはもう何年前になるだろうか。その時私は岩手の遠野にいた。
ここは柳田邦夫が遠野物語を書いたことで知られている。雪が深く、冬はいつも厚い雪に覆われている。一つ美味いものを出してくれる宿を知っていてそこに止まった。そしてそこの美味いものと花巻の温泉が目当てでここまで来たのである。花巻はいい温泉があり、個人的にお気に入りの場所だったのだ。今まで何度も通っている。
その厚い雪を踏みしめながら温泉巡りをしていた。寒い街なので温泉が実に有り難い。私は酒と温泉を楽しみながらこの街に滞在していた。
雪が止んでいた日のことであった。私は道標に衣川とあったのを見つけた。
「衣川というと」
私はそれを見てふと思い出した。源義経が死んだあの場所である。今まで何度も小説やドラマになっており義経と弁慶が死ぬ場面も何度も見てきた。
だが実際の衣川を見たことはなかった。それを見て私は興味を抱いた。是非実際に見てみたいと。
すぐに辺りを見回しタクシーを探した。運のいいことにそれはすぐにやって来た。私はそれを見つけて手を挙げた。
「どちらまでですか?」
運転手は恰幅のいい初老の男性であった。私がタクシーの後部座席に乗るとすぐに声をかけてきた。
「衣川までお願いします」
私はコートを脱ぎながらこう言った。
「衣川ですか」
「はい。この大湊に来て目に入りまして」
「成程」
「行ってみようと思いましてね」
「そういうお客さんが多いんですよ」
運転手さんは私の話を聞いてこう笑った。後部座席からだと横顔が少ししか見えないがそれでも笑っているのはわかった。見れば屈託のないいい笑顔であった。
「そうなんですか」
「人気がありますからね、義経公は」
「はい」
「何度もドラマになってますし。私も見ましたよ」
「僕もですよ」
私もそれに応じて返した。
「やっぱりね。けれどここから衣川まで距離はありますよ」
「そんなにありますか?けれど同じ県内ですよね」
「同じ県にあってもですよ」
運転手さんは答えてくれた。
「岩手ってのは広くて」
「はあ」
今気付いたがこの運転手さんには東北訛りは少なかった。話している言葉は標準語に近い。だがやはりアクセントは独特のものがあったが。
「この花巻からは離れてますよ?それでもいいんですか?」
「そうですね」
私はそれを聞いてまずは腕時計を見た。まだ朝になって少ししか経ってはいない。日帰りで行くこともできるのでは、と思った。
「時間がかかりますか?」
「普通に行けば」
運転手さんは言った。
「普通に、ですか」
「近道を知ってますよ。そこを飛ばせばすぐです」
笑みが変わっていた。ニヤリと面白そうに笑っていた。
「それで行きますか?」
「はい」
私もそれでいいと思った。ここはそれに乗ることにした。
「わかりました。それじゃあ行きますよ」
運転手さんはそのニヤリとした笑みのままアクセルを踏んだ。そして派手に飛ばしはじめた。
「後ろにシートベルトがありますからね」
「ええ」
見れば腰のすぐ側にあった。
「それ着けておいて下さい。とにかく飛ばしますんで」
「わかりました」
私は言われるがままシートベルトを着けた。そして車中の人になった。
タクシーは山道を進んでいた。やたらと曲がった山道を進んでいく。山の木々も道も雪で真っ白だったが車はそんな雪をものともせず進んでいた。そしてどんどん先に進んでいた。
「こんな雪の中よく飛ばせますね」
「地元ですからね」
運転手さんはその訛りのある標準語で応えてくれた。
「慣れてますから」
「慣れですか」
「お客さんは何処の人ですか?」
「大阪です」
私は素直に答えた。
「大阪の住吉の方です」
「ああ、神社のある」
「ええ」
住吉大社のことである。住吉のことを出すといつもこう言われる。
「あそこには一度だけ行ったことがありますけれどね」
「そうなんですか」
「はい。うちの女房と一緒にね」
運転手さんは前を向いたままこう応えた。車の運転は相変わらず派手なものであった。
「行ったことがあるんですよ」
「大きいでしょう」
「そうですね、あんな大きい神社はあまりないですね」
「それに橋に驚いたでしょう」
「ああ、あの凄い橋ですね」
「そう、太鼓橋です」
私は言った。
「あれはあの神社の名物でして」
「らしいですね」
「あそこの橋は何度も登りましたよ」
「地元の特権ってやつですね」
「まあそういうやつですね」
私は笑いながら言った。
「ここで温泉にいつも入られるのと一緒で」
「ははは、後は美味しいお酒と」
「日本酒がね、本当に美味しいですよね」
「岩手は酒の本場ですから」
運転手さんは上機嫌になってきていた。どうやらかなりの酒好きであるらしい。
「美味い酒が幾らでもありますよ」
「それと食べ物も」
「食べ物は大阪もいいですよね」
「ふふふ」
それを言われると思わず笑ってしまった。
「まあ確かに」
大阪では何と言ってもまずは食べ物である。それを誉められて悪い気はしなかった。
「大阪は特に五月蝿いんですよ」
「らしいですね」
「まずければそれで潰れますから」
それが大阪だった。あとマナーの悪い店もそうだ。噂話に尾鰭がついてとんでもない話になって客が寄り付かなくなる。そして潰れるのだ。
「シビアですね、また」
「普通そうじゃないんですか?」
「まあ大体ここも同じですけれどね」
「何処もそうでしょうね」
「けれど大阪程ではないですよ」
運転手さんは苦笑いを浮かべていた。
「あんなにシビアではないです」
「そうですか」
「そうですよ。まあ美味しい料理が多いのは何よりです」
「はい」
「大阪はうどんが特にいいですよね」
「よくそう言われますね」
東京は蕎麦、大阪はうどんと。私個人としては蕎麦も大阪のそれの方がいいと思う。東京の蕎麦を見て本当に驚いた。つゆが真っ黒なのだ。墨汁を入れているのかと思った。話には聞いていたがそれが本当だとは流石に思いはしなかった。あれは本当だったのだとその時はじめて知った。
「ここは蕎麦ですよ」
「わんこ蕎麦ですか」
私はこれを出してニヤリと笑った。
「もう召し上がられましたか」
「勿論です」
食べない筈がない。
「食べる前にわざと歩き回って腹を空かせてから」
「それはまたえらく気合の入ったことで」
「百杯いけましたよ」
「お見事」
運転手さんも素直に賞賛の言葉を述べてくれた。
「そこまでいければ凄いですよ」
岩手といえばわんこ蕎麦である。盛岡名物だがここではわりかし普通に食べられているようである。もっとも最近ではわざわざ大阪まで来てくれてやってくれているが。これは好きだ。大抵三桁にいくまで食べている。行く前に走ったり歩き回ったりして腹を空かせておくのは基本だ。
「ただ、すぐにお腹が空きますよね」
「いや、それはないですよ」
だがこれには賛同してはくれなかった。
「それだけ食べれば満足じゃないんですか?」
「いや、お蕎麦って消化にいいですから」
私はこう反論した。
「すぐにお腹がすいちゃって」
「そしてまた食べると」
「はい。そして飲む」
「何かこっちの食べ物を堪能してくれてるみたいですね」
「お菓子ももらってますよ」
「お酒を飲まれるのに?」
「僕の場合はそれでもいけるんですよ」
実は甘いものも酒も両方いけるくちだ。甘い赤ワインを飲みながらケーキやチョコレートをつまむこともある。これは中々あうと自分では思っている。
「そうなんですか」
「流石に饅頭と日本酒は無理ですけれどね」
「ははは、聞いただけで胸焼けしそうです」
そんな食べ物の話をしながら車中を過ごした。そしてすぐにその衣川に着いた。
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