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美酒(ビシュ)

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ビシュ

 あくる日までに、何らかの変化がなかったら、あがりらしい。この大きな甕に自分が充たされる事の恐怖は、三年目の今も、変わることなく心にある。『自信』それが揺らぐのはたやすい。何せこの酒が、人の口に運ばれて、なおかつ悪心を誘わず、心地よい享楽を生む。その景色を目の当たりにする事が出来ないのだ。この『念じ』三年目のビトの中。疑問の抜け出た空白に、落ち着きがある。落ち着き、それがなければ、その空白に、また他の何かが流れ込むのだ。一体この『念』を入れたのは誰なのだ? 国王が言う。誰もそれを知らせない。言ったところで、殺されるわけではないのに、誰も言わない。代々誰も言わないのだ。ビトはここで疑問に思う。「もしやこの酒。彼らをどこかに導いてはいないか?」その答えを探す為に、国を歩く事は難しい。何故? いけないじゃん。行けないんだよ。

「こちらですか?」と、女が言う。
 頭を下げる男がいる。
「良いんですかね?」と、女が言う。ひどくよそよそしい言葉の奥に、またひどくウキウキした悦びがある。
 皿のようにした目の奥に、ビトの姿が染み込む。山の奥。湧き水で身体を洗うビトのそれは、輪郭を失い、そのエネルギーだけが意識に伝わるような気がした。
「あの、これからなんですよね?」女が言う。
「今日は終わりですよ。これね、『念じ』ね、一晩 置いたほうがいいのです。なぜかね、酒というのは、少々の『人肌、匂い』が入った方が好まれるのですよ。純。いいです。濁りのない。いいです。しかしながらね、やはり人肌。人の匂いが必要なのです。彼。一晩 漬け込みます」
「口に運ばれる。そのものに、心を入れることの恐ろしさを、潔白をもって証明したまえ」そう語る先輩がいる。ビトは眠りに入る。天井にそれを浮かべながら、右耳で、女性の「くすくす」をこそばゆく聞き流す。「潔白を証明したまえ」ですか? ビトはその男の酒を呑んだことなどないのだけれど、美味さの狭間にある、雑な心。「悪意」にも似たものを感じていたし、その色は透明な酒を台無しにする、あいつの「黄色いあの液体」みたいに見えたから。白い意思の小さな粒のそれぞれが、つながりたいと火の子を放ち、口にする人の舌を心地よく刺激する様。酒は心をどこに運ぶ? せっかちな思考は、一足飛びに答えを求める子供のように。どこに運ぶかは誰にも分らないのだけれど、どうにか自分の求める所に導きたいと思うこの心情は、酒に『念』を入れる者の一興。いたずらに恋心を唄う。失敗を思い描いても、赤すぎる感情を想像しても、なおかつ心臓に心地よい針を刺す。そんな、万能感を有して目を閉じる。次第に自分自身の『心』が、「どうかあなたのお口に合いますように」と、どこかの誰かに恋文を送る。

 ビトが目を覚ます前に、女の匂いが部屋を満たすから、しかめっ面の大人がその行方を考える。思考の中に、ありとあらゆる淫らな事と、やさしさに溢れた母性が浮かび、それを吟味するように転がしては、不安がないか考えている。もちろん疑念などがあっても、口になどしないのだけれど、考える事でどれだけの『邪』が払えたかで、この人は満足なのかもしれない。
「ビト。良い? 良いの?」それくらいを訊くに留めるくらいである。心の動き方一つで魂の味が変わる。その因果をどうやって理解しよう? どうやって? ひとつ間違いを犯したほうが、美味しい魂になるやも知れない。

 それぞれ、部屋に一人きり。長い間、自分を染み込ませた壁を見つめて、そこにある時計を眺めていた。頬白んだ記憶は、次第に形を変え、各人の中に独特な紋様を描き出していた。ビト。最初の記憶から間もなく、悲鳴を聞く。階段を何段も飛ばして、心、大人になる。ある酒飲みの死。窮屈な反省を迫られる。卑屈な観念を仕事に込めようじゃない。そう思う。そのうち、身体のコンプレックスを克服しなければ、『念じ』など出来ないよね? などと言って、先輩を馬鹿にしたりした。「愛しあいたいね」と、想いを送りながら、時を経る。どうにか酒に、愛だけを染み込ませ、納得したかった。逃げたかったのだ。
「おい! ビト! お前の味にキレイな恋が混じっているぜ? どうした恋心忘れさせてどうする?」
『酒飲みの死』この時間にみんなで酒を飲み、階下の者が、堕ちてくる邪念をチェックする。ビト、十三歳。恋よりも先に、愛を求めた早熟な『念じ手』
始めのうちは、下階にいて、天から堕ちてくる力を感じなさい「勉強せい」と言われ、阿呆のように待っていれば、こんなものかと安心して。また、ひどくキレイな心、堕ちてくると「これは素晴らしい」と、驚嘆したり。「アホか! 酒飲んでキレイが堕ちてどうする? 汚いが堕ちなあかんだろ! アホ!」と言う言葉に「なるほど」とうなずいて、「今までの先輩、結構おいしい感情を堕としやがる」とにが笑う。一つ階を上がれば、上から堕ちてくる酒のおいしさ。これにはまた、良き心が含まれていて、「悪酔いですか?」と笑えば、黙っている先輩がいる。「これが分れば、どうにか漏らさず、善意だけを残して、心地よい酒を提供できるだろう」などと、言うのである。「分ればいいのですか?」と老人に訊くと、「分らないままでどうして酒を美味くできる?」と返される。「しかしながら、分る人とできる人は違うでしょう?」とまた返せば、「分る人に任せた方がいいよ。責任を押し付けられるから」と笑っていた。誰も、自分の心が心地よいかどうかなど知らないし、もしそれが本当ならばうれしいだろう。  
ビトはふと思う。これは、『酒を作る』、『念を入れる』以上にこの仕事に携わる人間の器量、気質を自慢し、世の中を上手く渡ってゆく処世術なのだ。それ以上を求めてはいけないし、なおかつ自分を誰にでも通じる人間であると信じた時点で負けなのだという感覚を植えつける。自分がすべてであるという感覚は総じて自分の生き方を難しくするし、世界のすべてに責任を負わなければならないという恐怖心を招く。「そう、処世術だよ」と老人は言う。「責任を負える人は素晴らしい。しかしながら、責任を負う人が、本来責任をまっとうすべき人であるかは、誰に分る」
 ビトの目の前に安楽がある。責任を負うというカッコいい姿を思い描いた結果の安楽だ。それは現実に責任を負うことのない人間の心地よさ。責任が針のように刺さる人の気持ちを考えれば、苦笑が漏れる。「良い酒を作る。恋の生まれるような奴だ」

「ビト。始めるぜぇ」
「いいの? いいよいつでも」
「軽くいこうや」
「ヘラヘラ笑ったらダメか?」
「死ぬぞ」
「酒に入るわ」
 清廉な川に入るには、何故か汚くあるべき。汚くあるべきとは、この流れに相対して、「決して勝とうと思うなよ。あほんだら」という事である。
 兄さんは、タバコを吸い、煙を吐く。その一吸い毎に、ビトに良いインスピレーションを与えると言い張る。しかしながら、ビトの心の中に、忍耐がわずかに滲む。「それは当たり前だぜ?」と、言う兄貴に少しばかりの諦めと切なさを感じるけれど、これに耐えるビトに心を注ぐまいとしているのが若いじゃないか。『根性』これ『愛だよ』とか言う人に、「疲れますね、愛というのは」と返したら、「僕、愛も恋愛も忘れそうです」と心に浮かんだまま口を歪めて付け足し笑う。
「順々に使ってゆくぜぇ。ボケ。行けコラ」
 ビトは腕立て伏せから、腹筋運動、屈伸運動、喫煙、コーヒー、ヌードグラビア観賞、と続け「つぎ何?」なんて訊くから、「アホ。頑張りすぎ」なんて言葉が返ってくる。
「チンチンいじるなよ」
「うん、臭うからねぇ」
「洗ったんじゃねぇの?」
「これをキレイだと言えるほどの不感症はいらないよね」
「酒に、入れろや」
「そやね。ピュっとね」
 ビトは想う。「これ、酒、美味くなるの? 美味くなったらスゲェな」笑う。
「俺、タバコ吸っていい?」
「アホ。未成年じゃ」
「その違反具合がかなりスリリング」
「チョコレートにしておけや」
「コーヒー飲んで来るわ」
「女、見て勃起するか?」
「そうだよ」
 ビトは部屋の一人がけのソファーに置いた、小さな酒樽を想い、そこに本当の自分が現れるのを信じている。
 コーヒーの味は、自分の魂の味らしい。彼らは黒い液体に引き込まれるように、「俺を溶かして隠し切ってくれ」そう言う。俺は疲れた魂を、砂糖とミルクでなだめて、コクコク飲めば、大人の責任をまっとうしたと言えるよね。ビトはそれを飲みながら、酒が自分の本質から遠い、雑念までを含む風味を備える事を期待する。いや、雑念と呼ぶことはやめて、遠い親戚と呼ぶ。
 高くはない梁を見やって、その黒さに、「月日は過ぎ去りし」と言葉をかけ、壁の鉄赤に、火星の、燃え尽きた、生命への希求を見て涙を浮かべる。木製の椅子を眺めて、その紋様を捉えるとき、「生命の美しさは、コツコツやらなければ手に入れられない」という事を知り。「俺の若さが、なぜ美味さになる?」と疑問を呈し、さらには年老いた人間のすえた匂いに、鼻を曲げる酒飲みを思う。
「己が美味い?」喰われる事を前提にして言っているのなら、あえてここで、酒に加担する。
「己が美味いなどと思うなよ、アホンだら。そう思ったら、次の瞬間喰われるだけの人生だ。自分を守りたけりゃ、美味さを酒に閉じ込めろ。そしたら、悪いヤツ皆、酒を喰らって満足するだろ? 『お前の心は美味いのか?』そう訊かれることもあるだろう。そしたら、自分『もう引退しました』って言って逃げろ。うまい喰いもん作れる奴ら、愛がいっぱいって追いかけられる。うっとおしいから、うまい喰いもん作るんだ。それを餌にして全力で逃げろ。うまい人間の常等手段だ。分るか? アッホ」
「兄さんスゲェね。それも酒に入るの?」
「それって何だ? 俺の心か? 『念』か? 実はよ、それを聞いたお前。ビトの動揺が入るいのよ。動揺ってなんだ?」
 ビトは考えながら、その精神を胸の中心に戻そうとした。そうしなければ自分の小さい器量が味に出てしまいそうだったから。
「アホ。動揺が味に出て不味けりゃ、失格だ。俺の読むところ、その酒を飲む人間に深い洞察を与えると思うぜ。違う? 『この女、行っていいのかな?』 ってさ」
 ビトは意識的に心の深いところを眺めた。そこから目線を離さないように試みていた。これをあえて言うなら、若さから来る、大人への渇望なのだが、ビトの場合、それを極力排除した、純粋な潜水と言って欲しかった。ビトはそう言って欲しかったと共に、「俺はちゃんと、子供である事を自覚しているし、大人になる試みもしている。しかしながら、その手ごたえがないことにも気が付き、これは行き場のない若さというものを感じているのかもしれないとも思う」そう、空に言葉をうち付けた。
 この味を知るものは少ない。少ないと言うのは見栄を張っているばかりの強がりで、「欲しいです」とさばけてしまえばカッコいいのに、何故かその行為は恥ずかしすぎるし、本当に若いから「知らなくていいよ」という気持ちが目力を強くする。想像ですが前頭葉があたたかい。
「選ぶ人で変わるものかな」一人で壁の前に描いたものは、確かな姿。頭蓋の中に染み込むようにして、身体ぜんたいを電気で泡立てる。
「それ、自然に出来るようになるのって、結構な才能だぜ?」
「街に出るよりきつくはないですよ」
「おお? それ、どういう意味?」
「目の前に迫った物事を想像するのは、恐怖だと知ってください」
「なるほど、チンコをしごいているのだね」
「なかなか、かしこまった口調で、ありがとうございます」
 煙を吐く兄さんは、愛おしくもなく、また、切なくもなく、漫然とした興味でビトを見ている。そこにあるものは、性交直前の緊張と、「どこにも逃げる事はできない」という覚悟のようである。
 人間一度、汚れてしまうとひどく落ち着くものである。頭の中に一かけらの疑問がよぎるのを、「とろり」とした意識が包み込んでいる。意識というものに高さがあるのなら、上空にあるものを人に任せて、ゆっくりとベッドに寝そべるということかも。指に付いた精液を、どこにも付けないように歩き、マツタケの滴に手をあてがう。身体をキレイに洗いながら、自分の身体から滲み出る醜さを、しっかり内に閉じ込めるように心を落ち着ける。
「人間。汚れを感じたほうが、実はキレイになるのではないか? 自身の汚れを感じないまま、奔放に生きることは、かなり周りに毒をまくぜ?」
 ビトは、少々攻撃的に酒の存在を想った。「すべて、吸い込みやがれ」
 まだ、温かさの残るビトより大きな人が、ビトを膝の上に乗せて、どちらが放ったかは分らないが、温かい光が三人を包んでいた。ビトは右膝に、姉は左膝に乗り、意識の中に一かけらの不安もなく世の中に存在していた。そこから一歩、外に出れば、危機感のある世界。その世界で、ビトはいつもより大きな黒目で出口を探していた。今、目を閉じて、その風景を考えれば、その時の心持より余裕がある。後ろを振り返らなくとも、すねた姉の顔が見えるようだった。あのとき見た、母親と姉とビト、三人が引き寄せた、おだやかな光の、その外の世界は、ひどく冒険心をかき立て、ビトを大人にしたけれど、そのからだの奥に「これを使い果たすまでにちゃんと道を見つけなさい」そういう啓示が含まれていたことを思うと、今、自分が美味い酒を作っている事に少々気が重くなった。ビトは、しばらく風の音を聴いていないことを思い出した。その向こうに、ひどく強い風が吹く。そんな予感など感じないことが正しいかどうかなど、分らないほど無風なのだ。その風の中で、母親は眠っていた。「今、自分はその世界を作り上げた住人として存在するのか? それとも、また新しい世界に、臆病を糧にして急ぎ足で飛び込んだだけなのか?」ビトは振り返って壁を見やり、母親があの日の温かな光の世界で生き、そこを動かないことを想像し、なおかつ、動かないままどこにも行けないことを考え、ひどく不安で、また気を重くした。
 なるべく見ないようにしていると、その存在はひどく気になるから、じっと酒樽を見つめては、口に先輩の酒を含んで味わっていた。舌に乗せると甘さの中に棘を刺すような刺激があり、緊張感の中で麻痺していることが分った。下の部屋の兄さんに、自分の灰色の魂が身体からすり抜けて、堕ちてゆくのを想像しながら、心臓に意識を集中した。そこから『トン』と意識が抜けて、「これはやりすぎだね」と思った。「俺の造る酒は、何も音を立てないで、ゆっくりとしがらみを腹に落とし込み、頭蓋の奥にやさしく大人の心持を染む。そんな風になればいいのに」
 最高の酒はどのように作ればよいか。細胞一つ一つに黒がなければ、白く。少し悪意が滲んで琥珀色に。アホの魂があれば、炭酸に。右を見れば人の
過ごす四角い箱があり、その中で人の笑い声を聞けば、心を奪われるので、手の中のカメラを握る。左を見れば、緑と黒の雑木林がひどく威圧的に迫り、その小道を行けば、緊張感でシャッターを切るタイミングを探す。この間に酒の事を考えることなくいられるのは幸せか? それとも、「ネチネチ」と「美味くなれ」と『念』を入れるのをよしとするのか。そのすべてが正解なのか? 何故そんな事を悩むのか? 
「自分の『念』が入ったこの酒で、人が傷つけば、自分のその部分、例えば、相手のことをじゅうぶん考えず、頭の中の一粒の快楽を膨らませ、独りよがりにさせた、その部分が失われる」
 ビトは「ぼおっと」宙を見つめて、「始めから失われておこう」そう、頭に浮かべてみたりしていた。

     §

「遠くで風がカタカタ鳴り、心の奥でゆっくりと砕けてゆく様子を、目を閉じて感じていた」そんなことを言いたくて、目を閉じて、酒を口に運ぶのだけれど、一向に風は吹かず。なおかつ酒の味が染み込んでこない。「やけにあっさりとした、地味な酒だな」この程度のコクで、やたら、高い金を取るな。そう考えたのだけれど、以前、あの村から買った酒に比べて、安い? いや、一時間女を楽しめる位、高かった。「俺は、まだ、若い。この、酒というやつと、語らうこともできれば、それに、文句を言うことも出来る。つまり、溺れることのない男」
 部屋を出るとき、鍵を忘れたけれど、目の前の女が結構きれいで、それの「結構」が取れるまで、少し待った。部屋に戻るとき、急げば、その向こうのキレイな女を見ることが出来ると考えて、少し焦った。二度目、部屋を出た時には、何もなかった。心の中に、恋愛の求めがあるだけだった。いつかこれが具現化して顕れる。それを、待とう。いや、それは、先ほどだったか。
 集中していれば、かなりの確率で、馬鹿な出来事から逃れる事が出来る。集中するという事は、馬鹿な出来事を、一刻も早く消化する事につながる。すべてにおいて、逃げるという事は、緩慢な意識を愛し、他人から疎んじられる結果をもたらす。
「ふぅ」と、息を吐いて、「こんなに生き急いだら、他人の分まで不幸を摘み取って、時代が進みすぎて、誰も、私が解決した問題を、思い出すことも無い」いいじゃない? 誰も知らない、グラウンドで、または、プールで。人知れず鍛え上げる事の喜びのうち、もっとも大きいのは、この、心と肉体を、人にさらす事を夢見ることができる、という事。違うと言う人も、誰かと一緒だったら、すべての鍛え上げた記憶が、その人と共にある。独りよがりは楽しいから、そこにはナルシズムがある。みんなと一緒なら、それを笑い飛ばす心を自然に手にすることを捨てるだろう。だって、もともと、みんなに気を遣うから。一人の時、ナルに入るでしょ?

「一人のとき、この酒? それとも、人ごみの中で?」大事にしていると何だか、もう、期限切れみたい。一気に飲むと…馬鹿…馬鹿ですよね。以前、見たから。あれ、酒を飲むという行為が恥ずかしいんだって。分らないけど。タバコを吸い始めた中学生みたいな、目つきで周りを見て、「どんな、反応をするかしら?」と、笑っていた。「こいつ、気があるな」と、声が聴こえた。とても、気持ちが悪いから、「これはいかんね」と、あからさまに言った。人間って、複雑。言葉を先に言ってしまうアホ。一体、誰がそんなにこの人の心を削ったんだろ? 善人か悪人か、分らないじゃない。削った部分に、誰がいたかなんて、分らないし、正直言って、いつも自分でいたいじゃない。忘れた人に想い出は吸い付かないし、想い出の濃さなんて、自分で何とかなる。色もね。
 この部屋は、バールとか言ってるけど、かなり狭い通路。金色のビールが出る金色のサーバー。黒光りしているテーブルは、なでると、いやらしく感じるから、爪で「カツカツ」叩くくらい。この高い照明で、光っているのかしら? 私の髪。眼の奥が乾いている気がした。それとも生気がないだけかも。生気がなかったら、渇きなんて感じないか。目の前のバーテンがストライプのシャツを着ているだけの、細い男。何の決まりも無く、服装も自由。下は見えなかったが、ああ、細身の、柔らかい生地を使ったシャツなんだ。
 私の後ろで、一人客の中年男性が、米神に人差し指をあてて「ボォッ」と、店の中を眺めていた。「少しばかり、今日は楽しめるかな?」と思ったのに、かなり気持ちが入ったから、びっくりして緊張した。その中年男性と見合ったら、視線の強さを感じるかと思ったが、ほんのつかの間の後、自分の視線と混じりあった。「逃げるべきよね?」一瞬で思いついた言葉に、自分が無いことを悟って、手元の『ビシュ』を口に含んだ。「どういう具合に恋がはじまったか、分らないじゃない。この酒? この男? それとも、酒が私を、ここに呼んで、私が、この男をここに呼んで、さらに、外は……雨じゃないよね」
 一面のガラス張りの、細かく立てに仕切られた窓から、誰かがのぞいていた。そこにあるものを見ていたから、女もその視線を追った。ぼんやり何かが見えた気がした。恐らく寝そべる女であったから、「気がした」程度で済ました。たまにあるのだ。特別な人が見たものが、それほど特別ではない人間にも見えるという事。女は目を閉じて、硬くなった意識を、柔らかくして、やさしさみたいなものに変えた。ゆっくりと『美酒』の、あたたかさを、右にいるかもしれないものに送った。それは、とても自然に、ずいぶん向こうの遠い景色に心が吸い込まれるみたいに。ため息をついた後、ずいぶん疲れていることに気が付いた。「疲れる」ということを忘れていた。まだ若いようだ。

 心の隙間はどこにあるのか? なんて問題を出すのは、隙間を狙っているからで、何だか答えるのも目つきが悪くなる。ひどく疲れて、気分がよくなり、友達を誘って、店に行けば、「美酒」がある。「今度の良いの?」って訊くけど、かなり奔放な友達だから、心を許して話すことが出来ない。声がずいぶん高くて乾いていた。 
「ドアノブの冷たい日は、何だかあいつが来ているような気がしてさ」
「そいつより、じっと背中を見ている人が、誰かを確認するまで、我慢するのがヤバイ」
「気にしないで。彼だから」
「誰が?」
「彼だから」
「そう」
「いったい誰だと思う?」
「誰か、分らないの?」
「何だか、自分も変わっているし」
 唐木は考える。自分って、こんな人だったかな? 顔、こんなの? おっぱい、こんなに元気なかった? 肌の色、これ? この状況でこの台詞? 唐木は、ずれていることを感じて、不機嫌を出す。もともとこの女友達が嫌いなのだ。この女が嫌いなことが、少しずつ私を変えているのだと思うけれど、変えられた後の私が、不意に好もしい姿だと思い描ける。
 逃げるように『美人(ビト)』という名前をしげしげと見つめる。何も思い浮かばないけれど、「男だよね?」と訊いた。
「何?」
「男だよね? 美人って」唐木が言った。
「ビト? 男? うん」
『男』だよね。その言葉がひどく胸を打った。壁の方が胸を打たれた。『びじんを美人』そう言うセンスにテーブルが泣いている。『すべての変化に、便宜上の好もしさ』を感じておこうとする意思に、グラスが恥ずかしがる。
 
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