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喫茶店

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第四章


第四章

 次の日も喫茶店に出る。相変わらず人々の顔は暗く、何もない。そして道もあちこちが荒野のままであった。その風景は何時までも変わらないのかとさえ思える程であった。
「蜜柑水いらないよ」
「ではコーヒーですか?」
 文子が客の相手をしていた。その客は若い男であった。戦地から帰って来たらしくボロボロの軍服を身に纏っていた。階級は上等兵であった。
「いや、蜜柑をくれよ」
「そのままですか?」
「ええ。駄目かな」
「いえ、いいですよ」
 千賀子がそれに応える。にこやかに笑っていた。
「ただ、お値段はお水よりしますけど。いいですか?」
「ああ、構わないよ」
 男はにこりと笑ってそれに応えた。
「ずっと蜜柑が食べたかったんだよ、日本の蜜柑が」
 彼はそう言いながら金を出す。そして文子に手渡す。
 それと代わって蜜柑を受け取った。早速その場で皮を剥いて食べはじめた。
「美味い」
 屈託のない、素直な笑顔であった。
「美味いよなあ、この蜜柑」
「そんなにですか?」
「俺満州にいたんだよ」
「満州に」
「ああ。そっから命賭けで帰って来て。それでやっと日本まで来て」
「そうだったんですか」
「アカの奴等に何度も殺されそうになったさ。けど何とかここまで逃げ延びてきたんだ」
「それはまた」
「やはりな」
 北条はその話を聞いて顔を顰めさせた。ソ連軍のことはよくわかっていた。だからこそ顔を顰めさせたのだ。
「その間碌なモン食ってなかったんだ。蜜柑みたいに甘いのなんか全然食べられなかったんだよ」
「その蜜柑、美味しいですか?」
「ああ」
 屈託のない笑みのまま言う。汚れだらけの顔だがその笑みだけで白く見えた。歯も何か汚れていたがそれでも真っ白に見えた。不思議な笑みだった。
「元気が出て来たよ」
「まあ、大袈裟な」
「いや、大袈裟じゃないさ」
 彼は笑みをそのままに述べた。
「やっぱりさ、美味いもの食べると違うよ」
「むっ」
 北条はその言葉を聞いて思うものを見出した。
「やろうって気が出て来るんだ」
「そうですか」
「ああ、何かね。今はこうして何もないけれど」
 男は辺りを見回しながら言った。
「すぐに何とかしてやろうってね。そう思うよ」
「励みになったみたいですね」
「ああ」
 また屈託のない笑顔になっていた。
「有り難うな、この蜜柑」
「いえいえ」
「また寄らせてもらうよ。その時またな」
「はい」
 男は立ち去った。また別の客が来た。北条はさっきの男が立ち去るのを眺めながら千賀子に対して言った。
「美味いものを口にするとやる気になるのだな」
「それはそうですよ」
 千賀子の言葉は何を今更、といったものであった。
「今は食べられるだけでも有り難いですし」
「うむ」
「その中で美味しいものを食べられると。やっぱり元気が出ますよ」
「それはわしが入れるコーヒーもだな」
「はい」
 夫のその言葉にこくりと頷く。
「そうか」
「ですから。頑張って下さいね」
「わしが美味いコーヒーを入れればそれだけ人が元気になるのか」
 彼は今それがわかってきていた。
「わしのコーヒーで」
「そうですね。そして頑張ってくれます」
「そして皆が頑張れば日本も」
 話が繋がってきた。北条はそこに自分の進むべきものを見出そうとしていた。
「なあ」
「はい」
 夫婦は顔を見合わせあった。
「二人で、いや三人で日本一の喫茶店を作るか」
「日本一のですか」
「そうでなければ世界一のだ」
 彼は大きく出た。
「世界一ですか」
「わしのコーヒーで人が元気になればそれだけ日本が早くよくなる」
「そうですね」
 元気になりどんどん働いてくれれば。そうでなくとも明るくなれば。それだけで日本がよくなっていくのだ。少なくとも今のドン底はなくなる。
「だから。わしは入れるぞ」
「コーヒーを」
「そうだ、そして日本一のマスターになる」
「それが。あなたの新たに進まれる道なんですね」
「そうしたい」
 妻の言葉に強い返事で応える。
「そして日本がよくなれば」
「長い道のりでしょうけれどね」
「まずは明るくならないとな」
「ええ」
 まだ道行く人々の顔は暗い。敗戦で茫然自失となっている。それは北条も同じであった。何をしていいのかわからなかったのである。
 だが今それを見出した。ならば迷うことはなかった。
「やるぞ」
「はい」
 二人は頷き合った。
「この店を日本一の店にしてやる」
「はい、絶対に」
 まだ焼け跡が残る時代の話であった。敗戦の後の焼け跡での二人の誓いであった。
 
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