ロスタイムメモリー
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五話
伸太郎は、今日もどこか退屈そうに歩いていた。夕焼けが山の端に沈もうとしていた。まだ五時半だっていうのに、冬の空はときどき残酷だ。
「文乃」
「え、ん、なに?」
彼に釣られて、わたしも足をとめる。潤んだ黒目が、わたしを射る。彼の黒目は、色という色を混ぜ合わせた結果に表れた漆黒のようで、じっと見ていると、吸い込まれそうになる。
「……聞いてるか?」
「え、ん、いや」
「いや、じゃねーよ。いやじゃ」
彼は、ほとほと呆れた調子で言う。なんだかわたし、呆れられてばっかりだな。
「あんま、おれに構うなよ」
喉を大きな手に掴まれたような息苦しさを覚えながら、わたしは必死に「どうしたの、急に」と食い下がった。
「いや、おれが言いてえのはそんだけだよ」
「それだけのはず、ないよ」
ねぇ、わたしはあなたの机の中に、刻んだテストをいれたんだよ? 明日になれば、きっと伸太郎は、それに気付くんだよ。
どうしてわたしを庇おうとするの?
「伸太郎。思ってること、全部言ってよ」
「はぁ? そんなの無理に決まってんだろう」
「無理でも言ってよ! わたし、ぜんぜん伸太郎がなに考えてんのか分かんないよ。どうしてそんなに強いの? いじめられてるって、気づいてるんでしょ」
決定的と思えた一言でさえ、伸太郎は表情ひとつ変えない。そのとき、わたしはよっぽどこの男を刺してやろうかと思った。本気だった。手の届くとこに刃物があったら、きっとやっていたと思う。どうか、わたしの、わたしだけのヒーローのまま、明日が来ずに。
「そう思うなら、おれから離れろよ」
「いかないよ」
わたしは彼の手をつかんだ。ぎゅっとつかんだ。おもいっきり握ってやった。
「五月蝿いな」
突き飛ばされて、わたしは尻餅着いた。伸太郎の双眸に、一瞬、戸惑いが見える。それは、わたしを安心させた。
伸太郎は、一度も振り返らなかった。わたしはガードレールを伝って立ち上がると、今にも闇に沈もうかという街を眺めた。あの日から、着けることをためらっていたマフラー、鞄の中からとりだして、わたしは学校へとんぼ返りした。
後書き
とりあえず、「ロスタイムメモリー」の部分は終わりです。
読了、ありがとう。
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