やはり俺がワイルドな交友関係を結ぶなんてまちがっている。
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こうして、比企谷八幡の最後の日常は幕を閉じる。
「それで比企谷、君はどうしてまた、こんなものを書いたんだ」
レポート用紙をはらりと机において、平塚先生は俺を睨みつけた。
その視線には怯みそうになるのは毎度のこと。だが、ここで黙っていても状況は好転などしないのは、十七年の人生で学習ずみだ。
「いや、どうしたと言われても・・・俺は課題通りに進路について書いただけなんですが」
少し考えてから正直に答えると、先生はため息をついて、足をくみかえた。
「そんな事は分かってる。私が聞きたいのは、なぜ性懲りも無く、進路に専業主夫などと書けるのかということだ」
「そりゃ俺の夢だからです」
「ドロドロした眼で夢とも言えぬ夢をかたるな!」
夢とも言えぬって、失礼な。専業主夫は立派な職業だ。
さらに言うと、俺はこれでも夢に向かって努力する人間だ。例えば家事。家では小町と分業…………してたのはもう昔のことでした。ダメじゃん、俺。
「はあ、まさかもうじき三年という時期に、進路に主夫とは…………君は大学に進まないつもりなのか?」
「いえ、大学には行きますよ。やっぱり嫁ぐにも学があるって有利だと思いますし。俺はあくまで将来の夢として専業主夫と書いたんです」
「そんな意味のわからない所で自己主張する位なら、もっと教室で存在感を出せるように努力しろ」
「ぼっちは孤高の存在なので、あんなリア充共の巣窟での存在感なんて必要としないんですよ」
俺の言葉に、先生はまたため息をついた。
「そんなにため息ばかりついてると、幸せと一緒に婚期も逃しまグフッ!?」
速攻で正義の鉄拳が撃ち込まれた。
くっ、打撃が中で…………っ!
腹を抱えてうずくまる俺を見下ろして、先生が呆れた調子で声を掛けてくる。
「まったく。奉仕部で過ごした日々は君に影響を与えなかったのか?」
…………そういえば、確か一年位前にもこんな会話をしたな。前もこうして職員室に呼び出されて。
もうあれから一年経ったのだという感慨を覚える。あの頃は、まさか一年後にも奉仕部に通い続けているなんて予想もしていなかった。
そのきっかけをつくった教師に目を向け、そして言葉をかえす。
「生憎、サナトリウムでは普通の高校生の生態は教えてもらえなかったので」
すると、先生は少し驚いたような顔をして問うてきた。
「ふむ…………少なくとも、影響があったということは否定しないんだな」
言外に君らしくもなく、というようなニュアンスを含んだその言葉に、俺も少なからず驚きを覚えた。
確かに以前の俺から出るような言葉ではない。
以前の、変わること、影響されることを悪と断じていたころの俺からは。
まったく無自覚に返した言葉だったからこそ、自分の変化をまざまざと見せつけられたような気分である。
とはいえまあ、一年だ。マンガじゃ弱小野球部が甲子園にいくのにも充分な時間である。それだけの日々俺は奉仕部で過ごしたわけで、それはおそらく、俺の人生の中で最も他人と触れ合った一年だった。
様々な価値観に触れて、人の好意というものを知って。言葉にするほど楽なことではなかったが、それでも他人の悪意ばかりを身に受けていた俺にとっては貴重な経験だったのだろう。
なら。そんな日々を与えてくれた奉仕部が、俺の中で大きな存在になるのは当然のことなのではないか。
とはいえ、それを認めるのは癪だ。だってほら、絶対先生勝ち誇った顔するし。
「…………別に影響があったとは言って無いですよ」
苦し紛れの言葉に平塚先生はふっと頬を緩ませた。
「クリスマスのイベント以降、部の方でも上手くやっているようだし、君も随分と更生してきたじゃないか」
「更生って…………先生、何度も言いますが、俺は自分の生き方が間違っていると思ったことなんて一度もありません」
先生は、あーはいはい、なんて適当に相槌を打ってくる。それが妙に苛立って、俺は仕返しとばかりにふと思ったことを口にする。
「クリスマスといえば、先生イベントの方に掛かりっきりでしたよね。あのあと誰か良い人は見つかったんですか?」
「比企谷ぁ!歯を食いしばれっ!!」
「ギャフッ」
当然のごとく沈められました。こうなるんじゃないかって予想はしてたんですけどね。
………あれ、もしかして俺ってM?
やっとこさ職員室から解放された俺は、特別棟の階段を登り奉仕部の部室へと向かった。
卒業式も終わり、ガランとした校内に差し込む斜陽が侘しい。窓から吹き込む未だ冷たい潮風に肩を震わせつつも、一つの扉の前にたどり着く。
軽くノックして扉を開くと、部屋の主たる雪ノ下がいつもの位置で本を読んでいた。
ピンと伸びた背筋に、陽の光を浴びて艶やぐ黒髪。絵画のようだという感想は今も変わらない。
初めてここに来た時のように、見惚れることはもうないけれど。今は、その変わらぬ姿に安らぎに近い感情を覚える自分がいた。
彼女は俺の存在に気付くと、紙面から少し顔をあげた。
「あら…誰かと思ったら、比企谷くんだったの」
…………なんでそんなあからさまにガッカリした顔するんだよ。理由なんて大体わかるけど。
「悪かったな、由比ヶ浜じゃなくて」
「いえ、別に由比ヶ浜さんが来ることを期待していたわけではないわ。単純に、あなたの眼がいつもよりも少し腐っていた気がして面倒に思っただけ」
「相変わらずナチュラルに罵倒混ぜてくるよな、お前」
やっぱさっきの発言取り消しで。こいつといても安らぎとか感じねぇや。むしろ心がガリガリ削られていくレベル。原石のハートブレイカーか何かだな、こいつは。純粋な男子達の幻想を片っ端から殺していくの。
っていうか、いつもより少しってなんなの? あなたもしかして、いつも俺の眼を観察してるわけ? 俺勘違いしちゃうよ?
そんな俺の思考をよそに、雪ノ下はさっさと読書を再開しようとし、ふと気づいたように視線を時計に向けた。
あの後もしばらくの間平塚先生の説教が続いていたせいか、かなり時間が経っている。
さっきは俺の罵倒とすり替わっていたが、やはり由比ヶ浜がまだ来ていないことを気にしているのだろう。心配ならメールでもすればいいのに。
そんな風に思ってから、そういえば伝言役を任されていたことを思い出した。
「あ、由比ヶ浜ならクラスの方の用事で遅れるってよ」
「そう……」
雪ノ下はふっと息をつき、それから俺の方をキッと見る。
「その発言は、あなたが伝言を任されていたという解釈でいいのかしら」
「お、おう………」
あまりの迫力にちょっとどもっちまったよ。雪ノ下さんマジこええ。
冷気を纏った視線と共に、氷の女王は俺を問い詰め、もとい追い詰めようと口を開く。
「では何故あなたはこんなにも部室にくるのが遅かったのかしら」
「……はぁ?」
「何かしらその返事は。由比ヶ浜さんからの伝言を預かっているのならできるだけ早くそれを私に伝えるのが義務でしょう。程度が低いとは思っていたけれど、まさか伝言役すらまともに務まらないとは。さっきの返事といい、腑抜けているのではないのかしら」
「…………もういいです」
何だよ、もしかして俺が来るのが待ち遠しかったのかと思ってちょっとときめいちゃったよ。俺の純情を返せ。
とりあえず、弁解はしておく。
「教室を出た後に平塚先生につかまっちまってな。それで遅れたんだよ」
「あなたのことだからきっと自業自得よ。大方先週の進路希望に専業主夫とでも書いたのでしょう」
「え、お前何で分かったの?」
もしかしてエスパー?
割と本気で驚いた俺のリアクションに、雪ノ下は大きく溜息をついた。
「…………冗談のつもりで言ったのだけど、まさか本当にそうだとは……」
「うるせえ、どうせ俺は異常だよ」
「そうね、本当にそうね。比企谷くんお願い、近寄らないでちょうだい」
「あー、はいはい」
会話はそこでストップ。雪ノ下は本に視線を戻し、俺も自分のイスに座って文庫本を取り出す。
そこからは部室を沈黙が支配する。
沈黙。悪い意味で使われることもあるが、それは決して息苦しいものだと断ずることはできない。特に、俺たちぼっちの間においては。
由比ヶ浜のいないこの部室では、特にそれが顕著に表れる。
無理に話をする必要もない。相手の顔色を伺う必要もない。そんな一人と一人の空間の共有。二人でいる必要は無いけれど、それでも一人でいるのとはまた違う。
始めは偶然手に入れて、一度は失った、そんないつも通りの心地の良い空間。
何度ページをめくる音がした頃だろうか。突然そんな静寂が破られた。
「やっはろー!ゆきのん、ヒッキー!」
「……おう」
「こんにちは、由比ヶ浜さん」
アホっぽい挨拶とともにやって来たお団子頭こと由比ヶ浜は、雪ノ下の隣に位置する席に座ると前置きもなしにこんな事を提案した。
「カラオケに行こう!いぇーい!」
…………えっと、いきなり大声を出さないでください。ぼっちは大きな音に慣れていないのです。
「…………いきなりどうしたのかしら、由比ヶ浜さん」
多分俺と似たような心境なのだろう雪ノ下が、呆れたような調子で聞いた。
「んー? 今日ね、優美子達と文化祭の時のこと話してさ。それで行きたいなーって」
何だそのいろいろすっ飛ばした理由は。言っておくが、俺達にその手のノリは通用しない。
その辺は流石に由比ヶ浜も分かっているようで、補足説明をする。
「ほら、文化祭でライブやって楽しかったじゃん、だからまたゆきのんと歌いたいなって」
「一体いつの話を蒸し返しているのかしら・・・文化祭があったあのは半年くらい前なのだけれど」
「ええっ、いいじゃん、行こうよー」
「嫌よ、疲れるもの」
すげない雪ノ下の返しに、由比ヶ浜の目がうるうるしてくる。
「………ゆきのん、あたしといくの、イヤ?」
「いっ、いえ、そんなことはないのだけど…」
「ううん、ゴメン。無理矢理誘っちゃって」
「えっ、あの、その………」
雪ノ下、マジでこういうのに弱いな。一体いつからこの流れで押し負けてるんだよ。そろそろ対処法をみつけようぜ。
ああでも、中学の頃の女子に話し掛けられたときの俺もあんな感じだったな。大体きょどって、いつも掃除を押し付けられるの。
そんな悲しい俺の過去とは似つかないが、この部室におけるこの会話の終着点も決まっている。
「………はあ、分かったわ。ただし、週末でいいかしら」
「ゆっきのーん!」
あくまで仕方ないといった調子で肩をすくめた雪ノ下に、由比ヶ浜が飛びつく。
「由比ヶ浜さん、暑いのだけれど……」
「大丈夫だよー、まだ寒いし」
「………理屈がわからないわ」
そんな風にいいつつも、満更でもなさそうなのはいつものことである。君たちホントに仲良いですね。
二人がイチャイチャしだし、部室でもぼっちな俺は本に視線を落とす。気心知れた仲の間でも独りって、やっぱり俺ぼっちマイスター。
何て思っていると、突然由比ヶ浜に声をかけられた。
「ヒッキーもそれでいい?」
「…………ん?」
「やっぱり聞いてなかったし!」
由比ヶ浜はプンスカと肩を怒らせ、こちらをビシッと指してくる。
「ヒッキーもカラオケ行くの!」
「えー、嫌だよ」
何が楽しくて休日に家から出なきゃならんのだ。
「行くって言ったら行くの!ほら、小町ちゃんにも許可もらったし」
由比ヶ浜が見せてきたケータイには、確かに小町からの許可のメールが映っていた。いつの間に。
っていうか、なんなの? 何で俺の外出許可を妹が出してんの? あいつは俺の保護者か。………いや、小町に養ってもらえるならお兄ちゃん本望なんですけどね。
だがそれとこれとは別だ。俺の貴重なくつろぎタイムはだれにもじゃまさせない。
「雪ノ下、お前はいいのかよ、由比ヶ浜との時間を俺なんかに邪魔されて」
一縷の望みをかけて、雪ノ下に話をふる。
彼女は顎に手をやり、考えるような仕草をした。
「………良いんじゃないかしら」
「おい」
「別にあなたに来て欲しいなんて微塵も思っていないのだけど由比ヶ浜さんがあなたに来て欲しいと言っているわけだしそもそも私たち二人で出掛けてあなただけ仲間外れというのもあわれだわそうあくまでこれは慈悲よあなたの孤独体質を治すという依頼の延長よ勘違いしないでちょうだい怪我らわしい」
一息で言い切り、ぜいぜいと息をしている。
何かもう俺に拒否権はないみたいです。
「分かった、分かったよ。行けばいいんだろ」
どうにも俺もまんざらでもない顔をしていそうなのが、困りものだった。
空から引いていく紅い光が一日の終わりをつげる。
時計を見ると、そろそろいい時間だった。
「そろそろ、終わりにしましょうか」
雪ノ下も同時に時計を見たようで、すっと立ち上がった。
由比ヶ浜もそれに追随する。
「じゃあ、私は平塚先生に部室の鍵を返してくるわ」
「あ、ゆきのん、あたしもー」
「ええ、一緒に行きましょう」
手早く荷物をまとめ、三人揃って部室を出る。
「じゃあね、比企谷くん」
「またね、ヒッキー」
手を振ってくる二人に、軽く手を挙げて答えた。
「おう」
いつもと変わらない、素っ気ないとも言える別れ。
だからかもしれない。懐かしく思えるのは。
いつだって一番大切なのは日常で。誰もそれを壊すことなんて望んでいなかったのに。
ーーその日を境に俺、比企谷八幡が総武高校に登校することはなかった。
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