Myu 日常編
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正義も悪もない。あるのは強さと弱さ
日に日にエリザは表情を少しずつ取り戻していった。あの陰鬱として瞳は今ではさまざまな色に変わっていく。悲しみの苦しみ、落ち込み……決していい感情ではないが、それでも人形のようだったあの少女はもう影も形もなかった。
「冥星君」
「ここからあの禿まで距離は約1ヤードだ。この強化されしスリングショットにペイント弾(クルミの殻に絵具をねじ込んだ)を叩きつけられると思うか?」
「……可能だと思うけれど、教頭先生に何か恨みでもあるの?」
「ない。まっさらなキャンパス並みに皆無だ」
「なら、やめておいた方がいいわ。あなたにとってなんの利益にもならないから」
「心配するな。俺がやるんじゃない。こいつがやるんだ」
「む、無理ですよー! お、怒られちゃいます!!」
「黙れ、俺に怒られるか禿に怒られるかの違いだ。当然わかっているだろうな?」
エリザは涙目になりながら強引に渡されたスリングショット――――パチンコをおずおずと受け取った。ゴムはどれだけ伸ばしてもちぎれることのない素材を選び、取っ手には引きすぎて壊れないようにガムテープで雁字搦めに巻きつけられている。不格好である。そしてそれを持つ美しき金髪の少女がとてつもなく似合わないことに大蔵姫は自然と笑みを浮かべた。
「エリザさん、そんなこと、する必要なんてないわ」
「ううう……委員長さん」
「あ、こら、勝手にやめるな」
「冥星君」
「……エリザ、なんだその玩具は? そんなもので誰かが怪我をしたらどうする? この、鬼畜が!」
「ええ!? ひ、ひどいです冥星さま!」
「うるせぇ!」
「きゃう! あ、あいたたたた……け、蹴らないでください~!」
「あっちにいってろ、邪魔だ」
理不尽な暴力を振るわれたエリザは涙を流しながら冥星の傍をとぼとぼと離れていった。その痛々しい姿を見ていると本当にこの男に任せてよかったのか疑問に思う。
だが、姫は自分であの少女を救うことなど到底できないことを知っていた。
だからこそ、冥星という少年を図りかねている。
いったい、あの凶悪な身内をどうやって退けたのか。
「……なんのようだ」
「エリザさん、元気そうね」
「はっ……お前にはそう見るのか? 俺には、奴隷が家畜になり始めているように感じるな」
「守りたいものが増えるのは面倒?」
「……………………」
「ごめんなさい。からかうつもりはなかったの。ただ――――あの時、あなたは私を守ってくれなかった。だから、もし」
「もし、あいつを見捨てることがあれば、なんだというんだ」
視線が絡み合い、そして解け合った。もう、二度と絡み合うことのない永遠の回廊を少年少女は歩き出す。先に歩き出したのは姫だった。ゆったりとした、足音を感じさせないような静かな歩みで、冥星とすれ違う。
「――――私が殺してあげる。可愛そうだから」
強烈な悪意を耳にした。その瞬間、女とは違う者の殺気を感じた。うっかりすれば首から下までを圧潰させるかのようなプレッシャーを浴びるように受ける。放ったんはおそらくあの奴隷。六道凛音だ。やがて姫が遠ざかるにつれて薄れていくのを呆然と見つめていた。
「やれやれ、あれは相当病んでるな。隼人も、さぞ大変だろう」
帰ってエリザをいじめようと、先ほどの出来事も忘れ冥星は口笛を吹きながら今日の晩御飯を想像し心を躍らせるのだった。
「エリザ、どうですか、我が家は?」
「は、はい。その、慣れてきました……」
「それは生活に? それともあの屑に?」
「あぅ……その、どっちも、です」
「前者はいい傾向ね。だけど後者は最悪な方向に捻じ曲がっているわよ」
「え、えへへ……」
卑屈な笑みを浮かべながらエリザは食後の会話に花を咲かせていた。今、幸いなことに冥星は入浴中だ。この数分だけが、エリザにとって心安らぐ休息の時間となっている。朝から寝るまで、冥星はエリザを悪い意味で拘束しているからだ。
「よい……しょ」
「うわ……エリザ、それもしかして全部ラブレター?」
「はわ……そ、そうなんでしょうか? ま、まだ中身は見てないんです……」
「……ちょっと中身、見てもいい?」
構いませんよ、とエリザは軽く返事をした。この山のような手紙を一人で捌くのは骨の折れる作業だ。海星が手伝いを申し出ているのに断る理由はない。
手紙のどれもが痒くなるような愛の言葉だった。ふざけているやつもいるが、大半は真剣にペンを握っていたに違いない。中には数十枚に渡って、エリザの事をどう思っているか、を認めている者もいる。
「私ももらったことあるけど、エリザほどじゃないわね」
「あ、あはは……恥ずかしいです……」
「それで? どうするの?」
「え…………」
「誰か、お目当ての男はその中にいる?」
「え、えと、私、多分まだクラスの人全部覚えられなくて」
彼らは早まった。たった数週間クラスを共にした程度で顔を覚えていられるほどエリザは天才的な記憶力を持ってはいない。まして、奴隷という身に堕ちた自分がこれからどうして生きていけばいいのかという不安が真っ先に降りかかっていたのだ。
今だって、その不安がないわけではない。このままでいいのかすらもわからないままだ。
それに、エリザは恋などしたことはない。男の人と言えば父親か、自分を人形として売買した商人ぐらいだ。年頃の男の子と出会ったことなど冥星が初めてだった。
彼はまるで風だ。エリザはそう思った。恐れを感じず、ただ突き抜け、突破していく。
自分ではとても追いつくことのできない、風。
「あっ」
「だから、私には恋なんて――」
「結婚してください」
「できないと思いま――――ひゃう!? 冥星さま!?」
「なんだこれは? ゴミの山だな」
風呂上がりの濡れた髪のまま、冥星はうっとおしそうに手紙の山をかき分けた。途中で手紙を読み上げるたびにエリザは顔を赤くにしながらあわあわと叫びだす姿は滑稽だった。
「なーにが結婚してくださいだ。ガキのくせに」
「も、もうやめてください――――!」
「…………最悪」
少女たちの非難の声をものともせず、冥星は次々に手紙を読み上げていった。もう、エリザのライフゲージはゼロに近い。涙目になりながら冥星に訴える姿に満足したのか、悪魔は最後の分を読み上げようとした。
「――――――?」
「あ、あの…………」
「これは……流石の俺にも、刺激が強すぎてちょっと音声に出せません……」
「なんで敬語なのよ……」
顔をちょっと赤らめながら敬語を使う冥星はとても気持ち悪い。エリザは遂に泣き出してしまい、大惨事だ。満面の笑みで冥星はその手紙を大切に保管して額縁に飾ると宣言した。
本当にどこまで人を貶めれば気が済むのか、という海星の訴えは聞こえない。
「う……ぐすっ……か、返してください…………」
「いやだ」
「か、返して……」
「! このっ……!」
予想外に、エリザは冥星から手紙を奪うように襲い掛かってきた。なんてことはない女の力だ。だが、想定外の出来事に思考を停止した冥星は、こうするしかなかった。
「……ひ、ひどい…………」
手紙はばらばらに破け、宙へと舞う。その紙切れすら、冥星は一枚たりともエリザに渡すまいと拾い集め、ポケットへしまった。
うつむいたまま、エリザの涙は床を濡らす。海星は黙ったまま非難の目を兄に向けた。
「どうして」
「なんだ?」
「どうして、こんなことをするんですか」
「聞くと後悔するぞ」
「言ってください!」
「おもしろいからだ」
エリザは冥星に立ち向かうように燃え上がる赤い瞳を真っ直ぐ向けた。プラチナブロンドの美しい髪が風もなくたなびく。
まるで女神が降臨したかのように、その風景は幻想を纏っていた。少なくとも、海星にはそう見えた。
あの兄に、刃向かう者がいたなんて……それも、自分と変わらない少女が……。
「あ、あなたは最低です……! 人の心を踏みにじり、蔑む……ま、まるで悪魔のよう……」
「ほう? ではお前の行為はなんだ? 人がしたためた手紙を、こうやって見せつけるのが正しい行いなのか?」
「あ、あなたが勝手に見たんじゃないですか!」
「海星はどうだ?」
「か、海星は、手伝ってくれて」
「人のせいにするのか?」
「……うっさな兄……」
「失せろ、愚昧」
「…………う」
「聞こえなかったのか? 失せろと言っているのだ」
海星は、いつも悔しい。なぜ、自分は兄を前にするとこうまで体が動かなくなってしまうのか。憎くて、殺したい相手のなのに――――今日まで、共同生活を許してしまった自分はなんなのだろう。
まるで蛇に睨めまれたように海星は動けない。嫌な汗が体を伝い、本能的に体は後退する。
「…………わかったわよ、でも私が手伝ったのは本当よ」
「――――そうか」
なにがそうか、だ大人ぶって偉そうにして。毒づいてやりたい気持ちを抑え、海星は自室に引き込もる。今日もダメだったという後悔を抱きながら。
エリザは――――ひかない。
必死に冥星を見つめる。どれだけ目の前の男が圧倒的な存在だとしても、絶対に許されることではない。人の手紙を、バラバラに破くなど。
「あ、謝ってください!」
「ごめんなさい」
「え? ……わ、私にではありません! 書いた人に、です!」
「絶対に嫌だね」
「あ、謝らせます」
「ほう……どうやって……」
「こ、こうやって、です!」
冥星は手が喉を締め付ける。自分で自分の喉を絞めるというのは自殺以外の何物でもない。ぎりぎりと潰すように喉が圧迫され、紫色に変わっていく。
「あ、謝ると言ってください」
「謝る」
「ほ、本当ですか」
「んなわけねーだろ」
「ど、どうして……どうして、あなたは……」
殺せるわけがない、と冥星は鼻をくくっていた。そして当然自分を殺すことなどエリザにはできない。
甘く、どこまでも甘く、自らを滅ぼしてしまうほど甘いエリザに、他者を傷つけることなど出来るはずがない。
こんな、どうしようもない奴隷をなぜ自分は。
「あなたは、きっと心が死んでいるのです」
「先日まで心を停止させていた奴が、よく言う」
「……きっと、後悔します。あなたは、自分がしたことに」
「わははははははははは…………エリザ、一つ言っておこう」
ひとしきり笑い転げた後に、悔し涙を流す奴隷を掴みあげるように冥星は同じ位置に立たせた。
「――――後悔とは、屑のすることだ」
エリザは燃えるような瞳を崩さなかった。案外強い女なのだと分かった。それだけでも今日はいい収穫だった。
ほんとに、いい収穫だったと、冥星はポケットの紙くずを大事そうに触った。
愛と憎しみは同時に両立する。
つまり愛を感じることがあれば、同時に憎しみもそこには存在するのだ。
誰もが、愛だけをもらうことは不可能だ。
だから、憎しみは増幅する。小さな子供だったとしても。
「よぉ……これ、お前らが書いたんだろ?」
「ひっ……め、冥星……な、なんのよう? 私たち、忙しいんだけど」
「隠すなって、吉野を叩きのめしたとき、お前ら怒ってたもんなぁあんな雑魚に尻尾振ってんだもんなぁ……うはははははは」
「てめぇ……冥星……! 殺してやる!」
少女たちは憎しみの目で冥星を睨んでいた。心地のいい殺気が四方を包み込む。なんとも子供にふさわしい悪意だ。それでもここまで火種を大きくしたのは、自分の責任に他ならない。
冥星は失態を犯した。
自分の悪意を、エリザに転嫁させてしまった。
『冥星に尻尾を振る、雌犬は死ね』
手紙にはこう書かれていた。確かに恥ずかしくてエリザには見せることができない内容だ。刺激も強すぎる。
「いいのか? 本当に? その選択は間違っていないのか?」
「な、なに言ってんだよ、お前……」
「俺は女だからって容赦しないぜ? むしろ女の方が殺りやすくていい。ひ弱だし、すぐに根を上げる。なぁ?」
少女たちは、ある少年が好きだった。その少年は、冥星が転入してくるまで王子様だった。その人の周りにいれば間違いなく少女たちは地位を獲得できていた。
「吉野は今頃、リハビリしてるかなぁ……辛いだろうなぁ……四体全部捻じ曲がったからなぁ」
「めいせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「はっ…………ボケが」
その日、とある公園からは少女たちの悲鳴が永遠に聞こえたらしい。
その後、隣のクラスでは相次いで転校していく者が増えていき、数日噂になったとか。
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