Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
第2章 幻想御手事件
七月二十日:『千里の道も一歩から』
目を醒まして、先ず感じたのは最悪な悪夢の残滓。
窮極の宇宙の神苑、混沌の玉座の只中。辺りに響く横笛の呪われた音色に、太鼓の狂った連打。痴れ踊る雑多な■■共に囲まれ、意味の分からない冒涜の言辞を撒き散らす――その■■■に抱かれるように。
――考えるな。考えれば、死ぬ。理解すれば、間違いなく心が死ぬ。
醒めるまで耐えろ。理解せずに、思考せずに。
後少し、ピントが合えば。彼の自我など霧か霞の如く霧散する。沙漠に降る、雨と同じ。
気紛れに、天壌無窮のその存在の遊び心に、たまたま抱かれているだけ。地を這う虫けらに、たまに気を引かれるように。
「百分の一なんてモンじゃねェ……百分の零だぜ」
その全てを意識の外に振り払い、呟く。昨日は錬金術の修練に費やして翌日朝まで貫徹、終業式で大変な事になった。なのでたっぷり八時間休眠を摂ったのに、寧ろ疲れが増した程だ。
今日は海の日なので、配達が無いのがせめてもの救いである。
「……今日から夏休みだし。九時からは、飾利ちゃんと白井ちゃんと一緒に活動だし……上手くいけば、今年の夏こそは『ドキッ! 野郎だらけの虚しい夏』を回避できるかもだし……両手に花とか男の夢だしね」
等と、カーテンを開いて群青菫に染まり始めた夜明けの空を眺める。その風景とは似ても似つかない、汚れた心持ちで。因みに、そんな事を考えるから友人二人からはロリコン呼ばわりされるのである。
手元には、『輝く捩れ双角錐』。ニアルによれば、それは『中の宝石を露出している間』だけ効果を発揮する物、らしい。
『ならば、いっその事ロケットの蓋を閉じてしまおうか』と、一瞬だけ逡巡して。
――止めとこう。とじた瞬間に『妖蛆の秘密』に襲われるとか嫌だし。
そう結論付け、閉じないように気を付けて――その可動部に魔力を流す。無論、『制空権域』で反動は最小に。今回は、タンスの角に小指をフルスイングしたレベルの頭痛が走った。
「これで良し、っと。初歩的なもんなら、もうイケるな」
何処かの『錬金術士』とは逆に、蓋が閉じないように『錬金術』により結着したのである。
その後、眠気と寝汗を流す為に風呂に向かう。ともかく、熱い湯を浴びたかったのだった。
ちなみに、このメゾン・ノスタルジのトイレと風呂は共用。部屋の外である。
――さて、風呂浴びたらギリギリまで寝るか……。
と、携帯のアラームを設定し直しつつ着替えを片手に欠伸を噛み殺し、嚆矢は風呂に向かった。
………………
…………
……
支度を終えて階段を降りたところで、掃き掃除をしている和服に割烹着の後ろ姿を見付ける。
「おはようございます、撫子さん」
「あら、お早う御座います、嚆矢くん」
挨拶すれば、態々手を止めて朗らかな笑顔と挨拶を返してくれる。それだけで、今日も一日頑張れる気がした。
「そうだ、嚆矢くん。昨日の夜、停電があったんだけど大丈夫だった?」
「あ、昨日は早目に寝たんで分かりませんでしたよ」
「だから返事がなかったのね……それにしても、たまには樹形図の設計者の予報も外れるみたいね」
全く気付かなかった昨夜の出来事、その万分の一以下の出来事を見逃したのかと思うと少し残念な気分になる。
と、撫子の視線が嚆矢の胸元に落ちる。そこには、いつものラビッツフットと――
「あら、アクセサリー、増やしたのね? なかなか素敵なロケットじゃない」
「あ――あはは、そんなに良いものじゃありませんよ」
『寧ろ最低最悪の部類と言うか』と言いかけて止める。別に止められてはいないが、一般人に魔術の域を垣間でも見せるのは、嚆矢としては好ましくないと考えているが故に。無論、時と場合によるが。
「じゃあ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
腕の腕章を確かめながら、笑顔に送り出される。その道すがら、いつも通りに缶珈琲を買い、ルーレットを当てる。
今日もまた、いつもと変わらない。平穏な、実に穏やかな始まりであった。
………………
…………
……
薬品の臭いが鼻を衝く。この病院と言う場所は生来苦手な場所だが、今日は昨日の落雷により冷房が使えないらしく、更に蒸し暑さまで加わり最悪の気分だった。
そんな場所に、何故居るのか。単純な話だ。
「チッ……何が悲しくて、野郎の診察待ちなんてしてんのかね、俺は」
吹き出す汗を拭いつつ、愚痴る。というのも、『虚空爆破事件』の犯人、介旅初矢が取り調べ中に昏倒したからである。
――何でも、今朝いきなりらしい。しかも、落雷で連絡網が寸断されて俺の携帯までは回って来てなかったっぽい。いつも『巨乳』ティーシャツを着てるおむすびくん(仮名)に謝られた。
何せ、支部に顔を出したらいきなり、この『水穂機構病院に行け』と交通誘導に行くみーちゃんに追い払われたからな……。
じわじわと、拭いても汗は滲み出てくる。こんな陽気でとは、運命とはかくも残酷である。これなら、風の吹く屋外の方が幾らかマシだろう。
『朝っぱらから一人でなにやってるんだろう』とか『今ごろ、空想上の生物・リア充さんは彼女とプールででもキャッキャウフフしてるんだろうな』と不貞腐れつつ、腕組して窓の外の日盛りを眺める。
飛び乗った飛蝗が熱そうにピョンと跳ね退いた、白いタイルが怨めしかった。
「こちらですの、お姉様」
「わかった、わかったから……うう、眠い……」
「ん――よっ、白井ちゃん、御坂」
と、そこに空間移動で現れた黒子と美琴。そんな二人に、努めて朗らかに嚆矢は挨拶した。
「……では、主治医の方にお話を伺いますの。お姉様、行きましょうか」
「あー……あたしはパス。ここで待ってるわ」
「そうですか、では私だけで行って参りますの」
美琴の言葉に、『じゃあ白井ちゃん、一緒に行こうか』の言葉を発しかけたままで嚆矢は押し黙った。
ここまで徹底的な牽制を受けては仕方在るまい。そこまで空気が読めなくはない嚆矢であった。
その黒子が通路の奥に消えた後、美琴が側に寄ってきた。
「ちょっと、対馬さん。黒子と何かあったんですか?」
「う~ん、やっぱり目の前で、ちょっとした風紀違反をしたせいかな」
苦笑しながら、面白そうに詰め寄ってきた美琴に答えた。流石に喫煙した、とまでは言わないが。
「お願いしますよ、対馬さ~ん。応援してるんですから。もしも黒子が対馬さんとくっついたりすれば、私の肩の荷が下りるんだし」
「それが本音か……けどまぁ、天地八卦を返しでもしなきゃ、それはないなぁ……」
近くの自販機でジュースでも奢ろうと近寄る。流石に自販機は災害時用の電池内蔵型、冷たいジュースが出てきた。それを投げ渡すと、美琴は健康的な笑顔を見せてくれた。
「しかし、『幻想御手』……だっけか? 『使用すれば能力の強度が上がる』なんて胡散臭いもの、実在したなんてな」
「ですねぇ、頼りたくなる奴らの気が知れませんけど」
それが今、風紀委員が追っているものである。最近、急にネット上で有名になった『プログラム』。
どういったものかは不明だが、件の爆弾魔もそれを使っていたらしい。そして、散見される『書庫のデータと実際の能力値が噛み合わない事件』との繋がりも睨まれている物だ。
「まぁ、御坂には解らないだろうなぁ……努力で何とかしちまったわけだし。けど、『努力の芽』も見えない奴らからすれば、喉から手が出る程欲しいもんだろうよ」
「そこが分かんないんですよ。だって、『自分だけの現実』に他人のデータを取り込むなんて、気持ち悪いじゃないですか」
「ハハ、まぁそりゃあな。俺もゴメンだわ、俺は俺だし」
珈琲を啜りながらの賛同に、『でしょ?』とジュースに桜色の唇を付ける。元が良いだけに、それだけでも絵になるのが御坂美琴である。
だからか、今日は――目の下の、僅かな隈が目立った。
「寝不足か?」
「えっ? あ、まあ、ちょっと野暮用で……」
問えば、何かを思い出したのか――凄く嫌そうな顔をした後、有耶無耶にするように笑った。
――ほ~、こりゃあビンゴかな。
「そうかそうか、なるほどなるほど」
「……対馬さん。何ですか、その腹立つ笑顔?」
なので、少しさっきの意趣返しと洒落こむ事にした。
「いやぁ、妙齢の女子が夜も眠れなくなるなんて……やっぱり御坂もお年頃だな。心配してたんだぜ、もしかして白井ちゃんと同じ趣味なんじゃないかと」
亜麻色の髪を軽く掻きながら、捕らえた獲物を溶かす食虫植物の溶解液のように濃密な蜂蜜色の瞳で美琴を見遣る。
嚆矢が発したその言葉は、美琴の鼓膜を揺らし、その脳裏に……ある人物の姿を想起させた。
「なっ――バカ言ってんじゃないですよ! 昨日はちょっと、あの天災野郎のせいで一晩中……」
と、そこで彼女は、院内で大声を出すというマナー違反に気付いて言葉を切る。因みに、最悪の部位での尻切れ蜻蛉だ。
「あ~、そっちの意味で寝不足だったのか!」
等と、嚆矢が悪ノリした程に。
「…………っ」
後に、近くにいた患者は語る。『ブチッて音が、リアルに聞こえましたよ。ええ、比喩でもなんでもなく。ええ、一撃でしたよ。あれはもう、電気ショックとかそんなレベルじゃあなかったんじゃないかな……治療とかしても、もう無駄なくらいに黒こげでしたよ』と。
超能力者をおちょくるのは命懸けだと再認識した、蝉の煩い夏休み初日の午前だった。
………………
…………
……
美琴の前に黒子が戻って来たのと、その女性が現れたのはほぼ同時だった。
「木山 春生だ、大脳生理学を研究している」
ワイシャツにタイトスカート、白衣といういかにもな服装の、目の下の隈が酷い女性は気怠げに自己紹介した。
要するに、今回の件での診察に当たっている学者だ。
黒子と美琴が答えると、春生は少し驚いた顔をした。学園都市にたった七人しかいない超能力者の名は、案外に売れている為だ。
「あの第三位、『超電磁砲』と会えるとは光栄だ。ところで……」
と、蒸し暑い室内に薄く汗をかいた春生が廊下の隅っこを眺めて。
「あそこに転がっている消し炭はなんなんだ?」
「ああ、ただの暗黒物質ですから気にしないでください」
「第二位に謝れ御坂……ケホッ、風紀委員の、その第三位のMAX二億ボルト放電に耐えきった対馬嚆矢です」
黒焦げで転がっていた嚆矢がフラフラと立ち上がって自己紹介するも、『そうか』の一言で終わる。美琴とは違い、掃いて捨てるくらい異能力者風情で名が売れている者などは居ない。
ある意味、今回の事件で『介旅初矢』等は名が売れたかもしれないが。
「あれ、対馬先輩……?」
「ん――おお、蘇峰。何してんだ、こんなとこで?」
背後からの声に振り向けば、そこに立っていたのは白皙の美少年。嚆矢の後輩の合気道部主将である蘇峰古都である。
夏休みだと言うのに学生服に身を包んだ彼は、やはり汗を拭っていた。
「停電があったので、此処に入院している祖母の事が気になって……対馬先輩は、風紀委員の活動ですか?」
「おぅ、『虚空爆破事件』ってあったろ? あの犯人が倒れてな、もしかしたら『|幻想《レベル――――」
「――対馬さん!」
百五十に満たない小柄な古都と百八十前半の嚆矢が並び立てば、差は歴然だ。
否、今はそんな事はどうでもいい。問題は、つかつかと詰め寄ってきた黒子だ。
「部外者に事件の情報を漏らすなんて、何事ですの! 全く、貴方には風紀委員としての自覚が足りませんわ!」
「うぐっ……ご免なさい」
至極当たり前の事を、年下から怒られてしまった。後輩の前で情けないとは思ったが、悪いのは自分。甘んじて受け入れた
「おい、常盤台の……年上の、しかも男性にその口の聞き方は何だ? 『学舎の園』では、目上の相手への礼儀すら習わないのか?」
「あら――随分と前時代的な事をおっしゃいますのね? 流石、『武の頂』と言われる弐天巌流だけに、生徒は武骨しかいらっしゃらないんですの?」
「前時代的なのはそちらも同じだ、女子だけの共同学舎? 聞こえはいいが、要するに人の半分を排他した隔離病棟だろう、常盤台」
「な、なんですって……!」
「お、落ち着け古都。ほら、ここ病院だぞ?」
「そうよ、黒子。風紀委員が風紀を乱してどうすんのよ」
嚆矢を庇うように立った古都が、黒子と舌鋒を交える。大声に自然と衆目が集まり、慌てたのは嚆矢と美琴の二人。
「と、ところでやだなぁ、対馬さん。さっきの電撃は十万ボルト有るか無いかだし、第一、私のMAXは十億ボルトですよ」
「ちょっとやだこの娘、殺す気満々だし、神の五倍の出力有るよ。誰かゴム人間呼んできてー、金塊も持ってきてー」
二人の諫言の間と場を和ませようとする下らない寸劇の間も、緊張が高まっている。
まるで矢を番えて引き絞られた弓の弦のように、今し切れんとする伸びきった護謨のように。
「第一、これは風紀委員の内輪の問題ですの。部外者はひっこんでいてくださいですの!」
「貴様――!」
それが、弾ける。今にも能力者バトルに突入せんとした黒子と古都、その二人を――
「いい加減にしろって――――!」
「っ――ぐっ?!」
少しだけ、表情を強張らせた嚆矢が古都の腕を背中に回して締め上げて。
「――――言ってんでしょうがーっ!」
「ふぎゃ~~っ?!」
キレた美琴が、電撃で黒子をこんがりときつね色に焼く。周りが何事かと、それを眺めていた。
「――一体何事ですか、騒々しい」
そこに響いた、怜悧な女性の声が響く。腹の底からの、強い声だ。
「忘れ物を持ってきてみれば――何事ですか、と問いました……古都」
「お、お祖母様……」
目の前には簪で髪を結い上げた、藤色の和服の老年の女性。
古都から『お祖母様』と呼ばれた女性は、意思の強そうな瞳で古都を射竦めた。
「何と言う為体ですか、古都! あれほど、あれほど蘇峰家の末席として強く在れと命じたと言うのに……」
「あっ――ち、違います、お祖母様! これは、その」
それが、糾弾に歪んだ。明らかに『負けている』様相の孫に向けて。
それは、弁解の余地すら無く。
「言い訳は結構です。そんな事だから、多寡だか大能力者になった位で自慢気に現れたりするのです――――!」
蔑むように、老婦人は何かを足元に投げ渡した。それは――――どうやら、音楽を聴く為の端末機器。
「頂点に立てと、そう命じた筈です。少なくとも、世間と比べれば矮小なこの学園都市の中でくらい――――超能力者にくらいはなりなさい!」
吐き捨て、誰も彼もが圧倒された中で、嚆矢を振り払った古都がノロノロと端末機器を拾う。
酷く、それは、酷く惨めな姿だった。さながら、日の当たらぬ葉っぱの裏側を這う芋虫のように。
「申し訳、ありません……お祖母様」
漸くの声に、答えはない。女傑は踵を返し、情けないと断じた孫の前から去っている。
「…………」
何とも言えない気まずさが、場を支配する。一人、また一人と無遠慮な衆人が失せていき――残ったのは嚆矢と古都、美琴と黒子と、春生女史のみ。
「……先輩」
「ん――ああ、何だ?」
俯いた後輩の問い掛けに、努めて語調の抑揚を抑える。何の感情も籠めない事で、全ての言葉に対応できるよう。
「貴方は――――誰の味方ですか」
「――――――――」
悲痛とすら言っていい、古都の問い。それに対する、嚆矢の答えは――――只一つだ。
「決まってんだろ――――俺は何時でも、女の子の味方だ」
言い切った。断言した。彼にとっては――赤枝の騎士団の末席たる『対馬 嚆矢』にとっては、『誓約』に裏打ちされた真摯な言葉。
だが、悲しいかな。それは現状、到底魔とを得た言葉足り得ず。
「……ですよね。そうでした。そうだ、僕は――――そんな貴方が、死ぬほど大嫌いだったんだ!」
吐き捨て、先程の女傑と同じく歩き去っていく古都の後ろ姿を見送る。確かに、血族であるようだ。
「……サイッテー」
「……最低ですわ」
「言われなくても」
正直すぎる自分を嘲笑いながら、病院を離れていく美琴と黒子、よく分からないままに連れられていく春生。
それすらも、軽く見送って。嚆矢は、懐から携帯を取り出してコールした。
『現在、電話に出ることができません。ご用の方は、ピーと言うっ心音のあとに……』
繋がったのは、彼女らしい留守電。そこに――
「やあ、みーちゃん。時間無いから手っ取り早く済ますよ。ワリィんだけど、持病の癪で早退するわ。ち、違うんだからね! 蒸し暑いからとか、そんなんじゃ絶対ないんだからね!」
態態、ツンデレ風な捨て台詞を残して通話を切る。数秒待てば、けたたましく鳴る携帯。画面には、『固法 美偉』の文字。
それを、ボタンを押して答えた。『電源』ボタンを長押しして――――
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