季節の変わり目
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棋譜の相手1
その後ヒカルと二階に上がった。ヒカルは「さびーっ」と腕をさすり、暖房をつけた。
「座ってよ、藤原さん」
「失礼します」
私はベッドに座ったヒカルの横に腰を下ろした。
「藤原さん別に敬語じゃなくていいよ。俺なんてぐだぐだなのに」
「うーん、これが落ち着くんですけどね。考えときます」
敬語が落ち着くなんて俺と正反対だ。・・・でも塔矢も正反対か。ヒカルはそう思った。
「俺なんか緒方先生にいっつも失礼なのに」
「・・・自覚してるんですね」
自覚も何も、ヒカルはただ素でいるだけなんですよね。でも最近は、全くヒカルの本当の姿を見ることができなかった。今は打ち解けて家まで来れるようになったけれど。少しの進展だけど、嬉しい。
「あはは・・・」
苦い顔をしたヒカルは頭を掻いた。
「でも緒方先生も俺につっかかってくるのが悪いんだよ」
「可愛がってるんじゃないですか」
「げ、やめてよ。あの人俺のこと面白がってるだけなんだよ」
「というのは?」
ヒカルが可愛がられているのは一目見れば分かる。それと、からかわれているのも。でも、緒方先生が親しくする若手はせいぜい塔矢さんかヒカルだと聞いた。
「俺が昔塔矢に勝った時に目つけられてさ。塔矢のライバルだって言ってからかわれてたんだよ。塔矢
の情報とかたまに持ってきたり、塔矢先生と戦わせようとしたり」
「!指導碁の話ですか?塔矢さん相手にしたっていう」
あの時の会話が蘇る。塔矢さんは勇気を出して私に話してくれた。
―進藤は、指導碁を僕に・・・
「?何言ってんの藤原さん」
「え、だって・・・」
「指導碁なんかしてないよ。そんなんで塔矢に勝てるわけないじゃん。俺、実はあんまり憶えてないんだ。あの対局のこと」
憶えて・・・いない。ヒカルはさっきのことといい忘れすぎじゃあないだろうか。
「ね、それよりさ、藤原さん。この間並べてた棋譜あったでしょ」
「?・・・どの棋譜のことでしょう」
ヒカルとは入院中全く打たなかった。最初ヒカルが碁盤を見たとき、拒否反応を示したのだ。それが原因で私から碁を勧めることはなくなったが、数日後、ヒカルはケロッとして折り畳み碁盤を膝の上に広げていた。私はびっくりしてヒカルに聞いた。
「碁、もう打てるんですか?」
「うん、この前はごめんなさい」
ヒカルから一局誘われもしたが、私は自分の中にあるsaiの碁が後ろめたくて、その申し出を断った。ヒカルは本棚の横にある碁盤と碁笥を部屋の中央に持ってきて、ゆっくり並べ始めた。ヒカルは無表情で真剣だった。ただ、棋譜を完成させることに必死だった。
「あれから何度も並べたんだ。ねえ、この黒、誰だと思う?」
ずっと考えていた。私が得た棋譜の数々の大半を占めるのが指導碁だ。これは何を意味しているのだろう。白は・・・saiで・・・間違いない。しかし黒は・・・。分からない。だから私はヒカルを見上げた。ヒカルの瞳は静かに高鳴っていた。
「昔の俺に、すごく似てるんだ。俺ならこう打ってたっていうところが、全部再現されてて」
ヒカルが・・・黒!?そんな・・・!ヒカルは少しずつ説明した。私はもう一度碁盤を見る。
「それで、俺の相手は・・・秀策に似てる。それにこれは指導碁で、相手は力を温存してる。だから相手の本当の力なんて、分かんないけど・・・この人、すごく強い気がする」
打ち方が似ているような人なんていっぱいいる。けれど、ヒカルはそんな次元じゃないくらいに確信しているようだった。この黒は自分だと。それを見たら、私はヒカルの話を信じずにはいられなくなった。ではなぜ、昔のヒカルが私の棋譜の中に・・・。
「ねえ、この棋譜は藤原さんにとって何なの?」
「・・・病院で、思い出した棋譜の一つを並べてみただけです」
ヒカルは目を丸くした。そして碁盤の横を通って私の体に縋りついた。
「藤原さん、俺に、昔会ったことある?この一局は藤原さんが打ったの?俺、何か思い出せそうな気がするんだ!」
この棋力のヒカルに会ったことはない、打ったこともない。これがヒカルの失くした記憶に繋がっている?だったらsaiと私は別人じゃないか。
「藤原さんは俺に思い出させるためにこの棋譜を並べていたの?」
ヒカルにとって、そんなにsaiは大切なんだろうか。ヒカルは必死になって聞き出そうしている。saiの棋譜のことを。
じゃあ・・・私は?ヒカルが求めているのは・・・saiなの?
口が勝手に動いていた。
「・・・対局、してみますか?ヒカル」
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