業平と狐
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第一章
第一章
業平と狐
在原業平が摂津にいた頃の話だ。彼は淀川を何をするわけでもなく眺めていた。
その時彼は一人だった。他には誰もいない。誰もいなくてはその美貌を見る者もなくそれが寂しいと言えば寂しい状況であった。
彼はそれを気にするわけでもなくただぼんやりと川の眺めるのを見ていた。川ではなく銀だった。日の光を反射してそれが銀色に光っていたのだ。
「銀が流れているな」
業平はそれを見て言った。
「奇麗なことだ」
ぼんやりとした気持ちが川を楽しむ気持ちになっていく。それを見ていると側に二人やって来た。
妙齢の着飾った宮廷の女と見まごうばかりの美女が二人。業平の側にやって来た。そして彼に微笑みかけてきた。
「如何為されました?在原様」
「私を知っているのか」
業平はそれを受けて美女達に顔を向けた。すると彼はすぐに彼女達が何者かわかった。
「都から来たな」
「はい」
彼女達はまず答えた。
「貴方様をお慕いして」
「私共では駄目でございましょうか」
「いや、いい」
彼はまず二人を受け入れた。
「だがな」
そしてそのうえで述べる。
「私は。人であるぞ」
「はい」
「それも承知であります」
二人はそれに応えた。
「だからそなた等と交わることはできない」
受け入れた後で突き放した口調になる。
「狐とはな。それはわかっていような」
「無論でございます」
「そのうえでお伺いしたのですから」
彼女達は狐であった。どうやら都の狐であり彼に何か思うところがあって来たらしい。
「ですが」
「それでも私を欲しいというのか」
「その通りでございます」
女達は答えて頭を垂れた。
「宜しいでしょうか」
「是非お情けを」
彼等は狐でありながら業平を愛していたのだ。全ては彼の美貌と歌の才故であった。狐とはいえ美女二人に深々と頭を下げられると業平も無下には出来なかった。
「仕方ないな」
少し溜息を出してこう述べた。
「どうしてもというのであろう」
「左様で」
二人は頭を下げたまま述べた。
「駄目と言われましたが」
「それでもお情けを頂きとうございます」
「情けか」
業平はそれを聞いて思うところができた。
「何度も言うがそれは出来ぬ」
まず彼はこう前置きした。狐が人と交わるのは愛故ではないのだ。精を奪う為である。陰性である狐は自分では精を作り出すことが出来ない。その為陽の気も持っている人からそれを奪うのだ。そしてそれにより術を身に着け、仙狐となっていくのである。
「私とてそなた等のことは知っているからな」
「では」
「それでもだ」
悲しそうな顔を見せた狐達に対して述べた。
「情けは駄目でも他のものなら」
「それは一体何でしょうか」
狐達は彼に問う。
「宜しければ教えて下さいませ」
「それを」
「そなた等はどうして私の下に参ったか」
彼は次にそれを問うた。
「それを教えてくれぬか」
「何故でございますか」
「そうだ。どしてか」
「貴方様に惹かれたのは二つの訳があります」
「二つか」
「はい、まずはそのお美しさと」
業平はこの世のものとは思われぬ美貌を持っていた。一見して美女と見間違うばかりの。だからこそそちらでも後世まで名が残ったのである。その美貌には狐達ですら魅せられたのだ。
「そしてもう一つは」
狐達はそれも述べる。
「歌です」
「やはりそれか」
業平はそれを聞いて心の中で頷いた。
「そうだと思った」
そのうえで狐達を見て言う。
「私の歌もまた望みなのだな」
「はい」
「ですからここに」
「では考えがある」
業平はそれを聞いたうえで狐達に対してさらに言う。
「まず私自身だが」
「はい」
「今この川に私の姿が映っている」
川の水が鏡になっていた。そこには業平と狐達の姿が映っている。彼はそれを指差したのである。確かにそこには彼の姿がある。
「これをそなた等の術でまず留めてくれ」
「そしてそれを」
「そうだ、絵にしてそなた等のものとする。それでどうか」
「成程」
「それでしたら」
狐達はそれを受けて大きく頷いた。
「この水鏡を」
「貰い受けて宜しいですね」
「別に魂は取られぬな」
「ええ」
「鏡に映るのは仮初の姿でございますから」
狐達は言う。
「それは御安心下さい」
「では」
水に向けて念を放った。すると業平の映った水面だけが剥がれ、それが鏡の様になり見る見るうちに小さくなっていく。そして遂には狐達の中の一匹の掌に収まったのであった。
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