Trick or treat?
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狼の子と女の子
雪は嫌いだった。
僕が泣こうが何をしようが、ただその白で全てを包み込んでしまうから…。
『きっと迎えに行くからっ。だからっ、今は逃げてっ!!』
母さんはそう言って僕を窓から突き落とした。
幸い、昨日から降り積もった雪は子供一人の重さに小さな音を立てただけで、僕でさえも包み込んだ。
その冷たさに我に返った頃、今まで聞いたこともない一際甲高い声を最後に僕が母さんの声を聞く事はなかった。
僕は走った。
深夜の雪道は暗がりに慣れた目でも、泥とも砂とも似つかない重さが疲労一杯の足元に絡みついて減速を促すが、そんなのは構うもんかっ!
窓から突き落とされ、森の中に逃げ込んでからずっと胴震いが治まらない。
母親の断末魔の叫びを聞いてしまった後だ、幼いながら自分だけが生き残ってしまった罪悪感と早くに亡くした父の代わりに護ろうと決めていたのに結局、果たせなかったプライドがそうさせているのだろう。
心の中で母を呼んでも、もうあの温かなぬくもりに抱かれることはない。
(誰かっ……、誰か助けてっ!!)
吐く息が不規則になるに連れ、そんな叶う筈のない願いを探し始める自分に苦笑した。
好き好んで自分のような薄汚い子供を誰が助けるというのだ。
『どうして泣いているの?』
『っ!?』
追っ手かと思い身体中を強張らせるが、すぐに疑問が浮かんだ。
今の声はどう考えても自分より幼い女の子の声だ、少なくともアイツらの中にはいなかった。
でも、それなら何故こんな時間にこんな場所に女の子がいるのだろう?
『この森にっ…は……もう僕一人……だけにっ……なっちゃ……たんだっ』
僕は弱かった。
自分が何者かも告げることも出来ないくせに、目の前の女の子に助けを求めるなんて僕は卑怯すぎた。
でも……、女の子はそんな僕でも笑ってこう言った。
『じゃあ、私と一緒に来ませんか?そうしたらもう寂しくないよ』
『いいの?』
『はい』
差し伸ばされた掌は皸と霜焼でぼろぼろだったけれど、そんなことはどうだって良かった。
僕にとってそれは一筋の光だったから…。
昨夜遅くに降った雪が朝日に照らされキラキラと反射する二月下旬、バレンタインから早、一週間。この名もなき小さな村では次のイベントが密かに動き始めていた。
本来、送られたものに対して返す日なのだが、この村ではいつの間にかホワイトデーが主流となっている。
だからだろうか、当日、渡していなくとも女性人が何らかしらの形で贈るから今日の草食系男子が増えつつあるのは。
「おはよう、ルヴァーナ」
「おはようございますっ」
慣れた手つきでスコップで雪を道の角へと除けていると、子供たちを学校に送り出した何人かのマダムたちがそう声を掛け、いそいそと村一つの共同井戸に籠いっぱいの洗濯物を抱えたまま歩き去っていく。
あの中にいつかは本当の意味でデビューするであろう未来に、思わず目を細めてしまう。
出来立ての商品を陳列してから学校の周辺を先生方に混じって除雪していたら、店先に戻ってきた頃には開店一時間前になっていた。
それでもまだまだ世話になるイザベラや行く行くは入学するノアや産まれたばかりのあの子のことを思えば、つい自分が出来ることはこれくらいだと鞭を打った結果、すっかり掌が悴んでしまった。
「何やってるの?」
「えっ…」
スコップを雪に差し込み、両手を交互に眺めている時、先程マダムたちに声を掛けられた方を見遣るとコンラッドがこちらに向かって歩いてくる所だった。
「おはよう。今日はお仕事はお休みなの?」
「……何でそうなるの?一応仕事帰りだけど」
「?……でも、まだ朝じゃない」
そこまで言ってから目の前の彼が頭を左右に振っているのに気づき、ムッとする。
やはり意地の悪い所は好きになれない。
「俺の仕事に時間なんて関係ないよ。あるのは如何に巧く狩るかだけ」
そう意気揚々と瞳を輝かされるとリアクションに困る。
見た目は自分と同じくまだまだ子供なのに、すっかり猟師の一人としてデビューしている。
そう言えば、先日父と夫とその兄弟、計四人で仕事に行ったとミレイザが話していたのを思い出す。
鹿の親子が草を食んでいたのにも拘らず、彼が標準を定めたのは同じく木陰に隠れてそれを狙っていた狼の足元だった。
当時、コンラッドは「やっぱり兄たちや義父さんには到底敵いません」と言っていたそうだが、妻にだけは苦笑交じりに本当の理由を話し出した。
彼は生まれつき猟師の才を色濃く受け継いだが、その芽が蕾を持ち花を咲かせるのにはあまりにも幼すぎた。
周囲に持て囃され、すっかりその気になってしまったコンラッドに真夜中の視界の利かない暗闇ではさすがに獲物を狩るのは無理だろうと、誰かが囁いた。
ムキになったコンラッドは家を飛び出し……。
「痛っ?!」
「ルヴァーナっ!!」
そこまで思い出して激しい頭痛が彼女を襲う。
額を両手で押さえるとひんやりとしていて気持ちが良い。
どうやら、学校から店先まで除雪作業をしていてすっかり風邪を引いてしまったようだ。
両手で押さえていても尚、鈍い痛みが脳内を侵す。
「大丈夫?」
そう尋ねる彼の声色にはいつものプライドの高さは微塵にも感じられない。
この少年にも他人を心配する一面があるのだなと感心した所でふと疑問に思う。
何故こんなにも近くに声が聞こえるのだろう?
反射的に強く閉じていた瞼を開けた先には、闇にも似た黒い瞳があった。
「……少し熱があるじゃん。つかまっててよ」
「えっ……うわっ!?」
右手を急に誰かに引っ張られたかと思えばそのまま首の後ろに回され、彼女が担がれていることを理解したのはそれがコンラッドだと判明した後だった。
「だっ大丈夫だよ。ちょっと頭痛がするだけだしっ」
「いいから。ちゃんとしっかりつかまっててよ」
「それに私、おっ重いし…」
「……そんなこと心配してたわけ?」
「そんなことって何よっ!これは女の子にとって重要なんだからっ」
気にしていることを、しかも、体重のことを「そんなこと」と言われて憤慨しない女性はいないだろう。
「気にしなくて良いよ。………………熊より軽いし」
………………かつて、自分の体重を熊と比較された女性がいただろうか。
アレの体重はいくつだっけ?と考える余裕はなかった。
「ルヴァーナっ!?一体どうしたんだと言うんだいっ!!」
「……風邪を引いたみたいっすよ」
「風邪っ!?具合は?吐き気は?熱はあるのかい?」
「うん……、少し熱があるみたい。でも…」
「大変じゃないかっ。今日はもう閉店してしまおう。一日休んでもダメだったらすぐにお医者さんに診てもらおうっ」
「ちょっ!お兄ちゃんっ!?」
店に入るなり矢継ぎ早に質問してくるアズウェルに大丈夫だよっ!と、声を張り上げる彼女の隣でただでさえ鋭い瞳を余計に険しくさせている彼に全く気づいてはいなかった。
「もうっ……お兄ちゃんたら」
外出着から足首まですっぽり隠れる厚手の白いネグリジェに着替えると、先程アズウェルが持ってきてくれた赤いマグカップの取っ手を持つ。
中にはルヴァーナの好物のココアがたっぷり注がれてある。
何度か息を吹いてからズズっと、空気と一緒に喉の奥に飲み込むとホッと温まる。
体が冷えた時にはやっぱりこれが一番効く。
まだ頭はズキズキと痛むが、こんな時間に寝込むほどではない。
窓の外に見える木の枝は冬の弱った陽の光に照らされ、雪解け水を滴らせるその様は今はまだ眠っている燭台の蝋燭を思わせた。
「でも、こうやってのんびりするのは何年ぶりかな…」
空になったマグカップを机の上に乗せると、ベッドの中に体を沈める。
目を閉じると、壁に掛けてある時計の秒針の刻む音がやけに大きく聞こえた。
きっと、無理が祟ったんだ。
今は…寝て……明日になれば…また……。
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