赤城と烈風
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波及効果と戦史研究
99式自動小銃
連合艦隊の先任作戦参謀を務めた戦術家、秋山真之中佐の実兄は陸軍騎兵部隊を育成。
秋山好古少将は機関砲の装備を最初に唱え、幾度も戦線崩壊の危機を救っています。
1904年に騎兵第1旅団長を務めて最前線に赴き、歩兵・砲兵・工兵の配属を要請。
独立混成部隊と機関砲6挺、騎兵砲を駆使し世界最強の騎兵集団を撃退し続けました。
騎兵第2旅団も事前の演習に倣い、山間部でも運搬可能な牽架式の機関砲6挺を駆使。
沙河会戦の際に最も脆弱と危惧された梅沢旅団を援護、戦線崩壊の危機を救っています。
当世界では総勢10万超の軍勢を黒溝台、沈旦堡の秋山戦闘団と機関砲12挺が阻止。
師団所属の騎兵連隊も機動防御戦術の先駆者に託し、奉天攻撃を勝利に導いています。
騎兵が基幹の独立混成部隊、秋山戦闘団は奉天北方の要衝を掌握。
鉄嶺を越えて追撃を継続の際、デンマーク製の軽機関銃が捕獲されました。
マドセン大尉、ラスムセン技師が開発した機関銃は兵士1人で携行可能。
ダンスク・シンジカットで製造され、ロシア陸軍に納入された通称マドセン機関銃でした。
日本陸軍で機関砲の装備を最初に唱えた騎兵の父、秋山好古少将は捕獲された軽機関銃に驚嘆。
直属の第三軍を実質的に率いる参謀長、一戸兵衛少将を通じ模倣を打診しますが。
当世界では負傷を免れ、小野実信参謀の試案を採用した戦術家も捕獲銃を絶賛。
大阪砲兵工廠から戦地派遣中の銃器修理班所属、上村良助大尉に実物が渡されました。
ガス圧利用式ホチキス機関銃、反動利用式マキシム機関銃も機関砲と呼称される大型火器。
1人で持ち運び出来る軽量小型の機関銃は騎兵、歩兵の戦闘力を遙かに強化する可能性を秘めています。
英国レキサー社に続き陸軍の最高指導者、山県有朋も高額な製造権の取得を擁護。
国産の軽機関銃を制式採用、の目論見は精密機械工業の壁に阻まれました。
日本国内に鉄資源は乏しく、比較的安価な屑鉄を海外から輸入。
高温の溶鉱炉で再利用、機関銃の要諦である弾撥を製造しますが。
銃弾の装填機構は超高速の連続動作、反復運動に耐えられず連続射撃の最中に破損。
バネ起因の故障が完治せず、量産開始の目途が立ちません。
1918年4月6日タンペレ攻防戦、北欧史上最大の激戦を経て森と湖の国は独立。
当世界では通称フェデロフM1916自動小銃が捕獲され、日本陸軍にも贈られました。
技術将校達は通称マドセン機関銃と同様、模倣に難渋し数年に及ぶ渡欧の許可を申請。
デンマーク陸軍や隣国スウェーデン、ドイツ陸軍の関係者にも接触し情報交換を重ねます。
技術先進国は銃身の摩耗前交換を厳守、0.2ミリ未満の微小な誤差も故障に直結の常識を共有。
日本陸軍は量産化を見送り、大正十一年式軽機関銃の名目で少数のみ配備に漕ぎ着けますが。
1936年10月トハチェフスキー将軍の鍛えた機械化装甲部隊、極東ソ連軍が縦深突破戦術を駆使。
騎兵を基幹とする歩砲工混成部隊、秋山戦闘団を遙かに凌駕する破壊力が実証されました。
秋山好古少将の後継者、騎兵将校達は慌てて戦史を紐解き事態の打開策を模索。
ホチキス機関砲、マドセン機関銃、フェデロフM1916自動小銃の模倣は挫折していますが。
1929年に完成後チェコ陸軍は制式採用せず、海外に輸出された通称ZH-29半自動小銃に着目。
史実でも鹵獲品を分解研究、三八式実包を使用可能とした試製自動小銃乙型を開発しています。
日本陸軍は提出された長銃身型、短銃身型の試製自動小銃を審査。
1935年に実射試験の結果、命中率の悪さを理由に制式化を見送りますが。
当世界では他国製より全体的に細く軽い、ガス圧利用式の自動小銃を採用。
史実と異なり高額な製造費にも眼を瞑り、99式小銃の量産に踏み切りました。
ZH-29半自動小銃(99式小銃として制式採用の際、変更点)
・口径7.92㍉(6.5㍉)
・銃身長545㍉
・使用弾薬7.92㍉×57㍉(6.5㍉×51㍉)
・箱型弾倉5発/10発/25発
・ガス利用方式
・全長1150㍉
・重量4500g
・銃口初速808㍉/秒
・設計1929年
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