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素顔

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第三章


第三章

「実は横綱に会いたいって人がいまして」
「俺にか」
「はい」
 付き人は答える。
「どうしますか?」
「どうしますかって言われてもな」
 いきなりの話なのでまずは何と言っていいかわからなかった。それでとりあえずはこう述べた。
「とりあえずな」
「ええ」
「部屋に戻ろう。話はそれからだ」
「わかりました。それじゃあ」
「ああ」
 こうしてまずは部屋に戻った。そして着替えたところで詳しい話をその付き人から親方と一緒に聞くことにした。
「それでな」
「はい」
 彼はその付き人にくつろいだ様子で尋ねてきた。
「何処の誰なんだ、それは」
「横綱のファンの人らしいんです」
「サインか?」
 すぐにそれに考えを至らせた。
「それともタニマチになりたいって人か」
「いえ、それが」
 だが付き人はその言葉に対してどうにも難しい顔を見せてきた。
「普通の人なんですよ」
「そんなのは殆どの人がそうだろうが」 
 親方は何かピントがずれた言葉を言ってきた。
「怪人とかに変身するわけじゃあるまい」
「親方、それは幾ら何でも」
 付き人もその言葉には何と言っていいのかわからなかった。
「せめて相撲だったら妖怪とか」
「どっちにしろ同じじゃないか」
 親方はそう言ってそれを問題にはしようとしない。
「それで何になるんだ?ロブスターか?それとも鶴か?」
「親方、テレビの観過ぎなんじゃ」
 それを聞いて赤龍も言った。
「どうも日曜の朝早いと思ったら」
「まあ気にするな」
「はあ」
 親方はそれに関してはかなり強引に終わらせてきた。そして話を再開させる。
「それでだ」
「はい」
 付き人はそれに応える。
「その人ここに連れて来い。ただしな」
「ええ」
「ヤクザ関係じゃなかったらな。それは気をつけろよ」
「わかってますよ」
 ここの親方はそうしたタニマチはお断りであった。よくある話だがこうしたスポーツや格闘技の世界ではその筋の人間が関わってくるのである。簡単に言うと芸能や風俗と同じで金になるからだ。かつての野球での選手の獲得交渉や札の売り買いにはかなり積極的に関わっていたという。相撲でもこうした話がどうしてもついて回るのだ。
「じゃあこちらにお連れしますね」
「ああ」
 こうしてその人が呼ばれることになった。付き人が去ると親方はあらためて赤龍に顔を向けて声をかけてきた。
「誰だと思う?」
「少なくとも妖怪じゃないですよ」
「そんなのはわかっとるわ」
 話はそこに戻ってしまっていた。これは親方にとっては不本意な話であった。
「今頃それどころじゃないだろうが」
「一度妖怪と勝負してみたいって思ったりもしますけれどね」
「いい心掛けだ」
 親方は彼のその言葉には笑ってみせた。
「流石は横綱だけはあるな」
「はい」
「妖怪でも怪人でもな。力士は邪気を追い払うのがそもそもの仕事だしな」
「ええ」
 土俵で四股を踏むのはこうした理由からである。
「まあそれは実際に来たらだ」
「ですね」
 そもそも来たら怖いというレベルではないのであるがそれは話には出なかった。
「じゃあ誰が来るかだな」
「その筋だったらお引取りってことですね」
「うむ」 
 付き人に話したのと変わらない話をしながら待っていた。すると付き人がある若い女の人と小さな女の子を連れて部屋に戻って来た。女の子の歳は六歳か七歳といったところであろうか。赤い服を着ている。可愛らしい顔立ちだがどういうわけか動きも頼りなく目も焦点が合っていない感じであった。
「はじめまして」
 見れば長い黒髪を上で束ねている。若いことは若いのだがどうにもくたびれた感じがする。服も全体的に地味で目立たない印象だ。女の子の手を強く握っているのが目につく。
「赤龍関さんですよね」
「はい」
 赤龍はその女性の言葉に応えた。
「そうですけれど」
「そうなのですか」
 赤龍は女性がその言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろしていることに気付いた。だがそれはあえて口には出さず彼女の言葉を待っていた。
「それで私に何の御用でしょうか」
 赤龍はその女性に問う。
「よかったら教えて下さい」
「宜しいですか」
「はい」
 女性の言葉を受け入れて頷く。
「どうぞ」
「わかりました。では」
「まあお座り下さい」
 親方も彼女に声をかける。見ればまだ立っていた。
「ゆっくりとお話しましょう」
「ええ。さあ美香子」
 手を握っている少女に声をかけてきた。
「座りましょう」
「わかったわ」
 少女はそれに頷く。そして女性に言われるまま座ろうとする。彼女もそれを見て座るのであった。
「ではお話下さい」
 親方が穏やかな声であらためて彼女に声をかけた。
「どういった御用件でしょうか」
「ええ」
 女性はそれを受けて口を開きはじめた。二人は正座していた。
「まずは私の名前ですが」
「はい」
 赤龍も親方もまずは名前を聞いた。
「棟方富子と申します」
「棟方さんですか」
「はい、主人は銀行員でして」
「成程」
 ここまでは普通の話であった。何も変わったところはない。
「そしてこれが娘の美香子です」
 富子はそう言って少女を紹介した。その間もずっと手を握って話さない。
「娘さんでしたか」
「はい。実は今日はその娘のことでお願いがあってお邪魔させて頂きました」
「ふむ」
 親方はそれを聞いて考える目を見せてきた。
「左様でしたか」
「そうなのです。娘は」
「どうされたのですか?」
 今度は赤龍が彼女に尋ねる。
「目が見えないのです」
「目がですか」
「はい、病気で」
 富子は沈んだ声でそう答えてきた。
「見えなくなったのです。三歳の時から」
「そうだったのですか」
 赤龍はそれを聞いて納得したように頷いた。だから今も手をじっと握って離さないのだとわかった。これは母親だからであったのだ。娘を気遣う親心であったのだ。
「それでですね」
 富子はさらに言ってきた。
「今度手術することになりまして」
「手術をですか」
「そうなのです。けれど娘が怖がりまして」
 富子は語る。語りながら赤龍に顔を向けてきた。よく見れば母娘であるとよくわからせるものであった。その顔立ちがよく似ていた。だがやはり違うものがあった。それが目なのであった。悲しいことに。
「それで。娘が赤龍関のファンでしたので。こうして勇気付けてもらおうと思いまして」
「そういうことでしたか」
「はい」
 富子は赤龍の言葉に応えた。その返事には何の曇ったものもなかった。
「宜しいでしょうか」
「勿論です」
 赤龍は迷うことなくその申し出を快諾してきた。太く低い声で答えてきた。

 
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