| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

亡命編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)

作者:azuraiiru
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第百九話 踏絵




宇宙歴 796年 1月 3日    ハイネセン  最高評議会ビル  ジョアン・レベロ



ヴァレンシュタインが笑っている。皆が凍り付く中、一人だけ笑っている。地球教と手を切った証を示すか、それとも同盟に滅ぼされるか、ボルテックに選べと突き付けている。“馬鹿な、……何を考えている”、呻くように呟いた後、ボルテックは何かに気付いたように慌ててトリューニヒトに視線を向けた。

『トリューニヒト議長、議長はどうお考えなのか? 議長の御意見を伺いたい』
ヴァレンシュタインよりもトリューニヒトの方が与し易いと考えたか。或いは二人の間隙を突く事で交渉を有利に導くつもりか。どうする、トリューニヒト。正念場だぞ、誤った対応は交渉だけじゃない、ヴァレンシュタインの信頼も失うだろう。

「ボルテック自治領主閣下。ヴァレンシュタイン中将は私の代理人だ。中将の言葉は私の言葉でもある」
『……』
ボルテックの顔が歪んだ。まあ無難な答えだ、ぎりぎり合格だな、トリューニヒト。

「地球教は同盟、帝国の双方から人類共通の敵であると認定されている。フェザーンが地球教との関係を断絶したという証拠を示さない限りフェザーンは人類共通の敵に与する存在だと認定する。そして私は最高評議会議長として軍をフェザーンに派遣しフェザーンをこの宇宙から消滅させるだろう」
低い声だった。ゆっくりと噛み締めるようにトリューニヒトは話した。

何時もと違うと思ったのだろう。皆がトリューニヒトに視線を集めた。トリューニヒトはその視線を受け止め一人ずつ視線を返す。会議室の空気が固まった、誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。トリューニヒトがターレルに視線を向けた。
「ターレル副議長、副議長はこの件についてどうお考えかな?」
「……私も議長閣下の御考えに賛同します」
トリューニヒトが頷いた。そしてボローンに視線を向けた。ボローンの顔が強張った。

「ボローン法秩序委員長は?」
「……私も議長閣下の御考えに賛成です」
会議室の空気が痛い程に強張った。トリューニヒトは本気だ、本気でフェザーンを叩き潰すつもりでいる。そして皆から言質を取ろうとしている。反対は出来ない、やればフェザーンに付け入る隙を見せた、利敵行為と非難され排除されるだろう。何時の間にこんな凄味を身につけたのか……。

当然だが全員がトリューニヒトに賛成した。ラウド達四人は蒼白になっている。トリューニヒトの凄みを畏れたのか、それともフェザーン攻撃に賛成した事を畏れたのか……。そしてヴァレンシュタインの周囲に居る軍人達も蒼白になっていた。フェザーン人二十億人を殺す、想像するだけで悪夢、いや地獄だろう。

「ボルテック自治領主、聞いての通りだ。フェザーンが地球教との関係を断絶したという証拠を示さない限りフェザーンは人類共通の敵に与する存在だと認定する。そしてこの宇宙から消滅させる、これは同盟政府の総意だ。ヴァレンシュタイン中将はそれを言っているに過ぎない」

ボルテックの顔が強張った。目論見が外れたか。
『……馬鹿な、何を言っているのか分かっているのか? フェザーン人の殆どが地球教とは無関係なのだ。それを問答無用で殺すと言うのか』
『殺しますよ、貴方が証拠を示さない限り殺します。貴方が殺させるんです』
ヴァレンシュタインの言葉にボルテックが“卑怯な”と呻き声を上げた。ヴァレンシュタインが声を上げて笑った。トリューニヒトも笑う。鬼畜の笑いだ。

『その言葉はそのまま貴方にお返ししますよ、ボルテック自治領主閣下。ところで如何なのです、未だ回答を頂いていませんが』
ヴァレンシュタインが回答を促すとボルテックがもう一度呻いた。
『……分かった、国債は全て同盟に譲渡する』
約十五兆ディナールの国債と約十二兆帝国マルクの国債か……。とんでもないシロモノだな。どう考えれば良いのか……、彼方此方で息を吐く音が聞こえた。

『ではもう一つです。フェザーン政府が所有するダミー会社、全て同盟政府に譲渡する事。意味は分かりますね?』
『……』
ダミー会社? そんなものを貰って何の意味が有るのだ? だがボルテックは顔を強張らせている。何か有るのか? 訝しいと思ったのだろう、皆が顔を見合わせた。

「ヴァレンシュタイン中将、そのダミー会社とは何かね?」
ヴァレンシュタインが発言者をジロリと見た。
『発言は私の許可を得てからと言ったはずですが』
トレルがバツの悪そうな表情をした。ヴァレンシュタインが冷たい目で見ている。まあ悪いのはトレルだが相変わらずきついな。
『フェザーンはダミー会社を利用して同盟、帝国、フェザーンにおける基幹企業、利権をフェザーンの支配下に置こうとしたのですよ』

“馬鹿な!”、“本当か!”、“何を考えている!”という声が彼方此方から上がった。スクリーンからもだ。私自身叫んでいた。
『フェザーンは国債を買う事で財政面から同盟、帝国を絡め取りダミー会社を使って基幹企業を支配下に置く事で経済面から同盟、帝国を自由に操ろうとした。何のためかは言うまでも無い。そうですよね、ボルテック自治領主閣下』

皆がスクリーンに映るボルテックを見た。顔面が蒼白になっている。ヴァレンシュタインの言った事は事実なのだろう。漠然とだが経済面でフェザーンの影響力が拡大している事は分かっていた。だが具体的に脅威が明らかにされた事は無かった。そうか、国債と基幹産業か……、それによって財政、経済を支配しようとした。フェザーンの傀儡になるまであとどれくらいの猶予が有ったのだろう? 五年か、それとも十年か……、背筋に寒気が走った。

『如何しますか、ボルテック自治領主。国債は渡してもダミー会社は、いや正確には株と利権ですね、それは譲渡出来ませんか? 中途半端では意味が有りませんが』
『……分かった。全てそちらに譲渡する』
全面降伏だな、ボルテックは完全に打ちひしがれている。しかしこれでフェザーンの脅威からは解放された。

会議室には奇妙な空気が広がっていた。フェザーンの脅威から解放された安堵とヴァレンシュタインに対する畏怖。皆が顔を見合わせ時折ヴァレンシュタインを伏し目がちに見る事を繰り返した。畏れている、明らかに畏れている。私、トリューニヒト、ホアンの三人は多少は慣れている。しかし他のメンバーにとっては強烈なまでの洗礼だろう。

『それで、助けてくれるのだろうね』
もうボルテックには駆け引きをしようというような姿勢は見えない。敗北を認めフェザーンを貴族連合軍の横暴から解放する事だけを考えている様だ。だがヴァレンシュタインはそんなボルテックを無情に突き放した。

『これからそれを決めるんです』
皆が驚いたようにヴァレンシュタインを見た。条件はクリアした、そう思ったのだろう。
『……』
『勘違いしないでください。さっきの二条件の承諾はフェザーンが地球教と繋がっていないという事の証明でしかありません。こんなのは我々に助けを求める前に片付けておくべき問題ですよ』

スクリーンに映るヴァレンシュタインは冷たい眼をしていた。ボルテックに甘えるなと言いたいのか、或いは我々に甘いと言いたいのか。
『フェザーンは我々に何を提供できるのです? 或いはフェザーンを救う事にどんなメリットが有るのです? それによってフェザーンを救うか見捨てるかを決めます』
ボルテックが呻いた。眼が充血している、泣いているのか?

『君は未だ我々から血肉を毟ろうというのか、……君には良心という物が無いのか』
怨嗟、苦渋、絶望、血涙、言葉に表せばそうなるだろう。心の底から絞り出す様な声だった。だがヴァレンシュタインは
『良心? 外交交渉の場で良心とは……。呆れますね、自治領主閣下』
と笑いながらボルテックを一蹴した。演技では有るまい、本当におかしそうに笑っている。

『ボルテック自治領主、貴方は私の良識に訴えようとしたようですが良識とは受身に立たされた弱者の使う言葉なのですよ。行動の主導権をにぎった強者は常に非常識に行動します』
もう笑ってはいない。ヴァレンシュタインは冷めた目でボルテックを見ていた。それを見て誰かがごくりと喉を鳴らす。ここまであからさまに強者の論理を振りかざすとは思っていなかったのだろう。

『今のフェザーンは貴族連合軍に踏み躙られ帝国、同盟からも敵視されている。誰もフェザーンを救おうという者は居ません。フェザーンは孤立した弱者なのです。図らずも貴方自身の言葉がそれを証明した。そして今フェザーンを救うことが出来る強者は同盟だけです。だから我々は非常識に行動する』
ヴァレンシュタインが笑う、ボルテックが天を仰いで絶望の呻き声を上げた。

『二千億ディナール用意してください』
『……』
『フェザーンは同盟軍の軍事行動に対して二千億ディナールを前払いで全額払う』
『……』
ボルテックは唇を噛み締めたまま無言だ。払えない金額ではない、屈辱が素直にウンと言わせないのだろう。ヴァレンシュタインが若いという事も影響しているかもしれない。

『フェザーンの人口は二十億人です。一人頭百ディナール払えば貴族連合軍を打ち払える事になります』
『……分かった。二千億ディナールを用意する』
已むを得ない、そんな心の声が聞こえそうな口調だった。それにしても完勝、だな……。

『先の二条件の実行、そして二千億ディナールが同盟政府に支払われた段階でフェザーンに進撃します。大体二週間程度で着くでしょう、貴族達には同盟軍が進撃を開始した、三週間後にフェザーンに来ると教えてください』
『分かった』
ボルテックが答えるとヴァレンシュタインがトリューニヒトに視線を向けた。

『私からは以上です』
トリューニヒトが皆を見回した。誰も口を開かなかった。いや視線を合わせる事を避けている人間も居た。
「御苦労だった、ヴァレンシュタイン中将。ボルテック自治領主閣下、早速だが中将との約束を果たして欲しい。こちら側の実務担当者はレベロ財政委員長だ。レベロ、頼むよ」

頷いてからスクリーンに視線を向けるとボルテックと眼が合った。ボルテックは準備が有るからこれで失礼すると言って通信を切った。恨めしそうに私を見ていたと思う。後で愚痴でも聞かされるかもしれない。公人としては間違った事をしたとは思わないが何とも後味の悪い事だ。

少しの間沈黙が有った。多分私と同じように後味の悪さを皆が感じていたのかもしれない。嫌な空気を振り払うように頭を振るとトリューニヒトが話し始めた。
「十二兆帝国マルクの国債か。膨大なものだがこれはどうなのかな、償還されるのか? 所詮は紙切れという事か?」
「まあ確かに帝国が同盟に対して十二兆帝国マルクも払うとは思えんな」
ボローンが答えると皆が頷いた。確かに有り得ない。今回はフェザーンに利用されなかった事で良しとすべきなのだろう。

『そんな事は有りません。払える状況を整えれば良いのです。状況が整えば帝国は払いますよ。難しい事じゃない』
ヴァレンシュタインの言葉に皆が顔を見合わせた。我々だけじゃない、スクリーンの中の軍人達も驚愕している。

「正気かね、中将。いや、君を疑う訳じゃないが信じられんのだが」
「状況とはどういう状況かね?」
ホアン、トレルが疑問を呈するとヴァレンシュタインは“それほど難しくは有りません”と容易で有る事をもう一度言った。

『先ず今回の戦争で貴族連合軍を殲滅する事です。最低でも八割は撃滅する必要が有りますね。それと帝国との間に和平を結ぶ事。それが出来れば国債の償還は可能です』
“和平等馬鹿な”、“論外”と言う意見が何処からか出そうなものだが十二兆帝国マルクが絡んでいる。皆、無言で顔を見合わせていた。

「どういう事かな、もう少し詳しく説明してくれないか」
トリューニヒトが問い掛けるとヴァレンシュタインが軽く笑みを浮かべた。
『貴族連合軍を殲滅すれば門閥貴族は決定的に力を失います。そうなれば弱体化した帝国の正規軍でも十分に勝てる。帝国政府は門閥貴族を取り潰し彼らの領地、財産を接収するでしょう。帝国の財政状況は一気に好転します』
「……」

『償還期限は有りますが個人じゃありません、国家なんです。厳密にこだわらなくても良いでしょう。こちらが無理な償還を求めず毎年二千億帝国マルク程度の償還にすれば十分に国債の償還は可能だと思いますよ。完済するのは六十年後ですね、一千にすれば百二十年です』
なるほど、そういう事か。言っている事は分かる。しかし完済に六十年? 百二十年? 途方もない話だ、思わず溜息が出た。私だけじゃない、皆が溜息を吐いている。

「しかし払う能力が有るのと払う意思が有るのは別だろう。誰だって無駄な金は払いたくない、そうじゃないか」
私が疑問を提示するとヴァレンシュタインが苦笑を浮かべた。
『確かに無駄な支払いは誰もしたくないですね。ならば意味の有る支払いにすればいいでしょう』

意味の有る支払い?
『帝国は今政治的に不安定な状況に有ります。ブラウンシュバイク公達には戦争をしているような余裕は無いんです。同盟と和平を結び国内問題に専念し帝国を立て直したいと考えている。そのために邪魔な門閥貴族をフェザーンに送り込み同盟の手で片付けようとしています』
その通りだ、皆が頷いている。

『改革は長期間に亘って行われるはずです。その間帝国は和平を必要とする。和平を結びながら国債の償還を拒否すれば両国の関係は悪化しかねない、特に同盟市民が騒ぐでしょう。帝国にとっては払った方が和平を維持しやすいのです、同盟も和平の維持を市民に説得しやすい。まあ安全保障費とでも考えれば良いですね』

なるほど、和平を維持すれば金が入って来るが戦争を選べば出費が増える。和平を維持した方が暮らしが楽になるという事か。帝国も和平を維持した方が改革に専念できる、国内が安定する。金で和平が買えるなら、それによって国家が豊かになるなら二千億帝国マルクは高いものだとは言えない……。

なるほど、同盟市民にどうやって和平を受け入れさせるかという問題があったが六十年間帝国から金が貰えるというのは悪くない。実際に二千億帝国マルクが入ってくれば経済振興政策の財源にも出来る。帝国の金で発展出来るのだ、同盟市民のプライドをくすぐるだろう。

「しかし毎年二千億帝国マルクを払ったとしても六十年だ。帝国は嫌にならんかね、払い続けるのを屈辱に感じるんじゃないかと思うが」
リウが問い掛けると彼方此方で頷く姿が有った。同感だ、同盟市民の優越感はそのまま帝国の屈辱になる。リウの心配はおかしなものではない。ヴァレンシュタインはどう考えているのか。様子を窺うと彼は苦笑を浮かべていた。どうやら失望しているらしい。

『十年後の宇宙を想像した事が有りますか?』
「……」
皆が顔を見合わせた。
『和平を結べば十年後には間違いなく人類の総人口は増加しているでしょう。経済活動も盛んになっているはずです。それが何を意味するか? ……帝国も同盟も税収は増えている。そして和平が長く続けば続くほど人口は増加し税収も増加する。それに反比例して国家予算における国債償還額の占める割合は小さくなっていく』

彼方此方で唸り声が聞こえた。戦争が無くなれば戦死者が居なくなる。つまり働き盛りの三十代、四十代の人口が増え続けるという事か。間違いなく税収はアップするだろう。ホアンの心配する熟練者の空洞化も解消する。
『僅かな金額を払う事を止めれば両国の信頼関係が悪化します。場合によっては戦争という事にもなりかねない。その事に意味が有りますか?』
また唸り声が聞こえた。

『意味が有りませんね。国債の償還は和平が長く続けば続くほど金額よりも和平の象徴としての意味合いが強くなるでしょう。先程言いましたが安全保障費の意味合いが強くなる。まともな判断力があれば払い続けますよ。それを打ち切るような馬鹿であれば最初から和平など無理です』
彼方此方で溜息を吐く姿が見えた。和平が明確に見えてきた、そう思った。



 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧