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偽りの涙

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第一章


第一章

                     偽りの涙 
 ローマ時代に書かれたアポロニウス伝という本がある。この本に一つ面白い話がある。これはギリシアの哲学者アポロニウスについて書かれたものであるがその彼の話の一つである。
 彼には一人の若く美しい弟子がいた。その名をユリシウスといい逞しい身体に豊かな黒髪を持っていた。身体だけでなく頭も優れたものを持っており師であるアポロニウスにも愛されていた。何時か彼に相応しい妻をと考えていたがそれより先に結婚の話が決まってしまったのであった。
「何じゃ、もう決まったのか」
「はい」
 そのユリシウスがにこやかに笑ってアポロニウスの自宅で彼に言うのであった。
「コリントに住む方でして」
「ほう、コリントにか」 
 ギリシアの大都市の一つだ。アテネやスパルタに匹敵する繁栄を見せていた街である。
「そこの方ですが」
「一体どういった御婦人か」
 アポロシウスは彼にそれを問うた。
「教えてくれぬか」
「未亡人の方でして」
「とすると年上じゃな」
「そうです」
 ユリシウスはこうも答えた。
「いけませんか」
「それは構うことはない」
 アポロシウスは相手の年齢には構わなかった。
「歳は関係ないのじゃ」
「左様ですか」
「大切なのはどういった相手かじゃ」
 アポロシウスが見るのはそこであった。
「どういった相手じゃ。それは」
「まず人としては素晴らしい方です」
 それを語るユリシウスの目は輝かんばかりであった。しかしアポロシウスはその目に輝きとは別のものも見た。まるで異形の者に魅せられているような妖しいものを含んでいたのだ。
「とてもお優しく美しく」
「美人であるのか」
「若くして御主人をなくされたそうですが」
 彼はこうも師に述べた。
「その方と」
「それ程素晴らしい方なのじゃな」
「そうです」
 うっとりとさえした声で師に語る。
「そのような方と結ばれるとは。私は幸せ者です」
「そうじゃな」
 アポロシウスは一旦は弟子の言葉に頷いた。しかしそこにはいぶかしむものを含んでいたが有頂天になっているユリシウスはそれに気付いていなかった。
「わしも嬉しいことじゃ。そなたの幸福はな」
「有り難うございます」
「そしてじゃ」
 ユリシウスはまた彼に問うた。
「式の時は呼んでくれるのかの」
「勿論です」
 彼は満面に笑顔を浮かべて師にまた答えた。
「是非共来て下さい、絶対に」
「その言葉受け取ったぞ」
 アポロシウスは真面目な顔でユリシウスに答えた。
「今な」
「はい、お待ちしています」
 ユリシウスはその満面の笑みのままアポロシウスに答えてきた。
「楽しみしていますので」
「しかし。いい話じゃな」
 アポロニウスはまずはこう弟子に対して言うのであった。
「祝福するぞ」
「有り難うございます」
「それが万全の相手であれば尚更じゃ」
「いえ、先生」
 ユリニウスはここで師の言葉を笑って否定した。
「あの方は。この世のものとは思えない程の方でございます。ですから」
「安心していいのじゃな」
「御会いして欲しいのですよ」
 彼の今の感情はできるだけ多くの人達に自分の愛する人を見てもらいたいという一種の自慢から来るものであった。それを抑えられなくなっていたのである。
「絶対にです」
「わかった。ではコリントじゃな」
「はい」
 また笑顔で師の言葉に頷いてみせた。
「楽しみにしておりますので」
「わかった。それでは式の時にな」
「わかりました。それでは」
 ここまで話してユリニウスはコリントに帰った。後に残るのはユリニウスだけである。しかし彼はどうにも浮かない顔をしているのであった。
「妙じゃな」
 ユリニウスの顔を思い出して呟く。
「あの目の奥にあったのは」 
 既にそれを読み取っていたのだ。彼の目の奥にあった何かに操られているかのような光に。鈍い光であったので気付くのは難しかったが彼はそれに気付いていたのである。これは深い見識と知恵を持つ彼だからこそであった。他の者には気付くものではなかった。
「どちらにしろ。式の時じゃな」
 そう思い直しここでは落ち着くことにしたのであった。
「では。今は」
 動かないことにした。ただじっとしていた。しかし考えてはいた。その考えの下で今後どうするべきか考えていたのである。
 程なくして式の日となった。彼はコリントに来た。すると城門のところで衛兵が彼に声をかけてきたのであった。見れば屈強な兵士であった。
「若し」
「何じゃ」
 その兵士に顔を向けて応えた。
「わしに何か用か」
「アポロニウス様ですか」
 彼はこうアポロニウスに名前を尋ねてきたのであった。
「見たところお姿が御聞きした通りなのですが」
「そうじゃ」
 アポロニウスは穏やかな声で兵士に答えた。
「如何にもわしがアポロニウスじゃが」
「左様ですか。お待ちしておりました」
 兵士は彼自身からその言葉を聞くとにこりと笑ってみせてきた。そのうえでまた言ってきた。
「どうぞ。こちらへ」
「こちらへということはじゃ」
 アポロニウスは今の彼の言葉でおおよそのことがわかった。
「そなたはユリニウスから頼まれごとを受けていたのか」
「はい、そうです」
 兵士はにこりと笑って彼に答えてきた。
「先生はコリントにはあまり来られていないですね」
「確かにな」
 実はその通りである。彼はコリントとはあまり縁がない。前にこの街に来たのはもう何十年も前のことである。だから忘れてしまっていることもかなりあるのも事実である。
「そういえば今見る風景も殆ど覚えがないのう」
「だからです。このままではユリシウス様のところに無事辿り着けるかどうかわかりませんので」
「それで案内してくれるというのじゃな」
「その通りです。宜しいでしょうか」
「是非共そうしてもらいたい」
 アポロニウスはにこりと笑って彼に告げた。
「実はわしも今気付いた。この街について殆ど忘れてしまっているということにな」
「それでは」
「うむ、頼む」
 あらためて彼に言う。
 
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