妾の子
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第三章
第三章
そのカヨが作った素麺を食べながら。セツはふと彼女に声をかけてきたのだ。
「カヨちゃん」
「はい」
カヨはすぐにセツに応えてきた。大人しく静かな声で。
「何ですか?」
「このお素麺美味しいね」
にこりと笑ってカヨに言った。
「カヨちゃんのお素麺どんどん美味しくなっているよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。けれどお湯を沸かしてそれから作って」
当然竈で作ったのである。カヨはそうしたことも得意だったのだ。
「暑かったろうね。大丈夫かい?」
「それは別に」
カヨはこう答えた。この答え方は実はいつものことだった。
「何ともないです」
「大丈夫なんだね」
「はい」
そしていつも頼りなく何処かおどおどしているように答えるのであった。もう一緒に暮らして結構経つというのに。暫くと言われたがもう暫くといってもいい時間は経っていた。
「ずっとやってきましたから」
「ずっとっていうと」
「お母さんと一緒の時からです」
こう答えたのだった。
「お母さん身体が弱くなって。それで私が作って」
「お母さん身体が弱かったんだね」
「ええ」
またセツの言葉に頷いてきた。これはセツにとっては初耳であった。それで内心戸惑いを覚えつつもさらにカヨに対して尋ねるのであった。素麺を啜りつつ。素麺は冷たい井戸の水によって冷やされとても美味かった。それを箸ですくってつゆにつけて食べているのである。
「急に心臓が悪くなって。それで」
「そうだったのかい」
「お父さんは心配してくれたけれど。結局」
「何時から悪くなったんだい?」
「私が小さい時にです」
俯いてセツに答えてきた。まるで表情を悟られまいかとしているかのように。
「前から身体が弱かったそうだけれど」
「身体が弱かったねえ」
「お父さんは言いました」
正直カヨからお父さんという言葉を聞くのには抵抗があった。他ならぬ彼女の夫だからだ。だがそれでも話を聞いた。カヨの言葉から耳を離すことができなくなっていたのだ。
「お母さんは身体が弱くて一人身だから。それで」
「それでなんだね」
どうして彼女を妾にしたのかこれでわかったのだった。
「そう言っていました。お母さんは私が産まれてから余計に身体が弱くなってそれで」
「成程ねえ」
そこまで聞いた。聞き終えたセツはどうにも自分がこのカヨという娘に対してさらに同情という感情を抱いていることに気付いたのであった。
「そういうことだったんだね」
「私が生まれたせいで」
カヨの顔がさらに俯く。だが今度は悲しみ故であるのがわかる。
「そのせいで。お母さんは」
「ああ、それは違うよ」
セツはすぐにそれは否定してみせた。
「カヨちゃん、それは違うよ」
「違うんですか」
「そうだよ。人間っていうのはね」
まずは自分が持っているお椀の中の素麺を全部すすった。そのうえで奇麗にしてからまたカヨに対して話すのであった。
「生まれて駄目っていうのはないんだよ」
「それはないんですか」
「そうだよ。だってそうじゃないか」
真面目にカヨに話す。姿勢は元々正座で礼儀正しいものであったがそこで両手を膝に置いた為にそれは余計に引き締まるのであった。
「世の中生まれたくても生まれられなかったりするもんだよ」
「生まれたくても」
「生きたくても生きられない子もいるんだよ」
当時まだ子供の死亡率は高かった。シャボン玉の歌は生まれてすぐに死んでしまう子供のことを歌ったのである。まだそんな時代だったのだ。
「それでもカヨちゃんは生まれてきたね」
「はい」
セツの言葉に弱々しく頷く。
「それで生きてきてるね。今もね」
「そうですけれど」
「誰だって生きていいんだよ。それは間違えちゃ駄目だよ」
「そうなんですか」
「あんたのことはね。知ってるよ」
言葉が少し穏やかになった。語る顔も微笑んでいる。
「うちの人の子供で。お母さんも」
「ええ」
「けれどね。そんなことはどうでもいいんだよ」
自分でも出て来たのが不思議な言葉であった。
「そんなことはね。いいかい」
「はい」
またセツの言葉に頷いてきた。今は彼女の顔をじっと見てきている。
「あんた、生きなくちゃ駄目だよ。胸を張ってね」
「胸を張ってですか」
「あんたに何か言う奴がいたらあたしが許さないから」
これは啖呵だった。
「これはよく覚えておいで。妾の子なんてのも言わせないから」
「けれど私は」
「世の中一杯いるさ」
またしても啖呵であった。
「妾の子なんてね。それがどうしたんだい」
「どうしたんだいって」
「あんたはうちの亭主の子さ」
もうそれでいいと思った。だからこそ出た言葉であった。
「それだけさ。いいね」
「はい・・・・・・」
「わかったら胸張って食べるんだよ」
こう言い聞かせてまた食べるように勧めた。
「折角あんたが作ってくれた美味しい素麺なんだ。あんたが食べなくてどうするんだい」
「わかりました。それじゃあ」
「何だったらずっといていいんだよ」
これまた自分でも内心驚いた言葉であった。
「この家にね。ここにいる限り下手なことはさせないし言わせないしね」
「ここにいればですか」
「私だってね。覚悟はあるんだよ」
もう素麺を取っていた。それを自分のお椀のつゆにつけながらカヨに語る。
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