嘆き
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第七章
第七章
「今は信濃の地で穏やかに」
「よいことじゃ。このことはじゃ」
「わかっております」
家光が何を言いたいのか、それは既に察していた。
「法善殿は病死です」
「穏やかな最期であったな」
「まことに」
そういうことにするのであった。
「天下の高僧に名高い大往生でありました」
「まことの悟りとはああいうことを言うのであろうな」
「如何にも」
あくまでそれを現実にするつもりであった。これは法善の為である。
「信濃を覆っていた病もなくなりましたし」
「左様じゃ。それでよいな」
「はい」
家光の横にいた信綱が彼の言葉に頷いてみせた。
「それで充分かよ」
「ならばよい。そしてじゃ」
ここで家光は話を変えてきた。あらためて十兵衛を見て言う。
「十兵衛よ」
「何でござりましょう」
「まずは御苦労であった」
労いの言葉であった。
「遠路信濃まで行ってもらいな。苦労をかけた」
「いやいや、行き来の旅も中々よいものでござったし」
「楽しんで来たというのか」
「実際のところは」
顔を崩して笑って家光に述べていた。
「その通りでござる」
「ふむ、中山道も面白いのか」
「東海道とはまた違った面白さがござる」
丁度江戸から京への街道も整備されてきていた頃のことである。江戸時代はこの家光の時代に内政がかなり整備されていくのである。
「ですからそれは別に」
「ふむ。左様か」
「楽しき旅を贈って頂き有り難うございました」
「別にそのようなつもりはなかったがな。しかしじゃ」
家光はここでさらに言うのであった。
「十兵衛よ」
「はい」
また彼の名を呼んで声をかけてきた。その気さくな笑みで。
「褒美は好きなものを取らせるぞ」
「褒美をですか」
「そうじゃ。何でもじゃ」
上機嫌で彼に言うのであった。
「何でも申してみよ。好きなものをな」
「それは宜しいのですが上様」
「何じゃ?」
今度は十兵衛が家光に対して問うていた。家光もまたそれを受けている。
「御機嫌が宜しいようですがまたどうして」
「機嫌がよいのも当然じゃ」
彼も彼でそれを隠そうとしないのであった。顔がさらに崩れる。
「よいか」
「はっ」
「まずはそなたが悪しき心を終わらせてくれた」
理由の最初はこれであった。
「それでござるか」
「法善の妄執が断ち切られて何より」
そのことを心から喜んでいる。彼にとってみればこのことは非常に残念なことであったことがわかる。そうした心からの言葉に他ならなかった。
「そして次にはじゃ」
「次には?」
「御主が頭を垂れた」
顔がさらに崩れてにこやかなものとなっていた。
「そのことが嬉しいのじゃ」
「そのことがですか」
「うむ」
やはりにこやかな笑みでの返答であった。
「そのことがな。何よりもじゃ」
「またそれはどうして」
「終わったということだからじゃ」
彼が言うのはそこであった。
「仕事がな。だからじゃ」
「それでござるか」
「やはり何事も無事終わらせなければならぬ」
ここには家光自身の考えがありありと見えた。
「だからじゃ。それが嬉しいのじゃ」
「左様でござったか」
「そなたの父がおるな」
「はい」
「但馬じゃが」
どういうわけか今はいなかった。彼とても忙しい身であるのでそうそう一つの場所にはいられないということであろうか。真実はどうかわからないが今ここにいないのは確かであった。
「言われたのじゃ。何事も終わらせなければ意味がないと」
「終わらせなければ」
「もっとも剣の世界に終わりはないであろうがな」
剣道である。これは果てしのない世界だと言われている。腕もそれを使う心も何処までも精進し磨かれていくものとされるようになってきたのもこの時代辺りからである。
「それでもじゃ。仕事は」
「終わらせなければならないと」
「そういうことじゃ。さて」
また笑いながら言うのだった。
「褒美は何がいいかのう」
「それに関しては別に何でも」
「いやいや、そういうわけにもいかぬ」
無欲な十兵衛を宥めにかかった。家光も将軍としての心構えがあるのだった。
「さあ、好きなものを言うがいい」
「そうですな。それでは」
「うむ」
「上様とお手合わせ願いたいものですな」
屈託のない笑みでの言葉であった。
「また。それで如何でしょうか」
「余とか」
「左様でござる。それで如何でしょうか」
「ふむ。そうじゃな」
家光もその笑顔で彼の言葉に応えるのだった。
「ではそうするとするか」
「親父殿立会いのもとで」
「こらこら、それは駄目じゃ」
家光はそれに関しては笑ってよしとしなかった。
「何故でございますか」
「但馬は口煩い」
大目付だけはあるということだ。
「しかも心配性じゃ。御主が何時何をしでかすのかと思い気が気でならんぞ」
「それがいいのでござるが」
「やれやれ、何時まで経っても」
「拙者永遠の悪戯者でござる故」
「それも程々にせい」
家光のこの言葉が最後になった。かくして但馬を抜きにして彼と十兵衛の剣の手合わせは行われた。だがそこで十兵衛は手を抜かず家光をのしてしまった為にまたしても但馬を怒らせることになったのだった。当の家光はこのことを一切気にせず笑っていたとしてもだ。
嘆き 完
2008・8・7
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