三年目の花
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6部分:第六章
第六章
「じゃあすぐ上げるで。もう一刻の猶予もないんや」
「は、はい。すぐですね」
「そうや。そして優勝するんや、ええな」
「わかりました」
野村はここで電話を切った。そして受話器を置いて一言呟いた。
「あとはあいつ次第や。頑張ってもらうで」
彼は監督室を後にした。そしてそこから新たな戦場に向かうのであった。
九月二十四日、神宮での試合である。相手は広島だ。試合は四対三で広島有利に進んでいた。
「もう一敗もできないぞ」
「今日も負けたら大変なことになる」
一塁側はもう戦々恐々としていた。七回表、二死一塁。広島の打席には主砲の江藤智がいる。文句なしのパワーヒッターである。
「監督、どうします!?」
ここでコーチの一人が尋ねた。
「角もそろそろ限界ですよ」
この時マウンドにいたのは角三男であった。左のアンダースローからの変則派である。カーブやスクリューを駆使して相手バッターを翻弄する。特に左打者に対しては強い。
彼はかって巨人にいた。だが放り出され日本ハムに移った。ここでストッパーとして活躍した後ヤクルトに移っていた。
複雑な経歴の持ち主でもある。
「そうやな。じゃあ交代させるか」
野村は動いた。ゆっくりとベンチから出て来た。
「誰だ!?」
「岡林じゃないのか!?」
一塁側は話をしている。そして野村の動向を見守った。
「ピッチャー交代」
野村は主審に告げた。
「ヤクルト、ピッチャーの交代をお知らせします」
ウグイス嬢の声がグラウンドに響いた。
「ピッチャー角に替わりまして」
「岡林じゃろ」
「奴しかおらんからのう、ヤクルトは」
三塁側の広島の応援席でもそうした話をしていた。彼等はウグイス嬢の次の言葉を予想していた。だがその予想は見事なまでに外れた。
「ピッチャー荒木。背番号十一」
「何ィ!?」
それを聞いた球場の観客達が一斉に声をあげた。
「おい、間違いじゃないのか!」
「本当に荒木なのか!」
一塁側、三塁側だけではない。外野も何処もかしこも皆驚愕していた。
「流石に驚ろいとるようやの」
野村はそれを見てニヤリと笑った。
「おい、野村さん本当に荒木か!?」
「嘘じゃないだろ!」
ファンは口々にそう叫んでいた。
「伊達や酔狂でこんなこと言うかい」
野村はそれを聞きながら呟いた。その顔は笑っていた。
「まあ見てみい。荒木の投球を」
マウンドには既に十一番の背番号をつけた男があがっていた。荒木大輔、かって甲子園を湧かせた天才投手である。
リトルリーグの頃から活躍して。その速球は世界にも知られていた。
甲子園には一年の頃から五回出場している。早稲田実業において押しも押されぬエースであった。
そしてドラフト一位でヤクルトに入団した。プロでもその活躍が期待された。
だが彼はプロでは怪我に苦しんだ。椎間板ヘルニアに右肘靭帯断裂。再起不能と誰もが思った。
しかしその彼が今マウンドに上がっていた。そして投げているのである。神宮の観客は今完全に静まり返っていた。
「頑張れよ」
誰かが言った。
「荒木、頑張れ!」
「復活したんだ、もう一度その姿を見せてくれ!」
それは一塁側だけではなかった。
「荒木、とう戻ってきたなあ!」
「投げえや、思う存分打ったるけえのお!」
彼等も彼等なりに荒木に熱い声援を送っていた。誰もが彼の思いもよらぬ復活に心打たれていた。
初球はストレート。シュート回転した危ないボールだったが何とか助かった。荒木はホッと胸を撫で下ろした。
「頑張れ荒木!」
「勝て、勝つんだ!」
ここまでの熱い声援はそうそうなかった。甲子園ですらなかった。彼は今多くの野球を愛する者達の熱い声を背に投げていた。
ツーストライクスリーボール。泣いても笑ってもあと一球だ。
「さあ、どうする!?」
古田がサインを出した。荒木が頷く。そしてセットポジションから投げた。
ボールはフォークだった。それは見事なキレで古田のミットに収まる。
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