僥倖か運命か
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第五章
第五章
第二戦がはじまった。大洋の先発は島田源太郎、大毎は若生智男であった。
「今日は大毎が勝つだろうな」
「ああ、そしてミサイル打線がいよいよ爆発するぞ」
球場に入った観客達はそう言っていた。永田が聞いていたがニンマリと笑っていただろう。
しかしこの時永田は球場にはいなかった。彼はとある料亭である人物と共に試合をテレビ観戦と洒落込んでいたのだ。
当時テレビは信じ難い勢いで普及していた。それまでは庶民にとって高嶺の花であった筈のテレビが次々に庶民の手に渡っていったのだ。そして瞬く間にその普及数が五百万台を突破した。
これは映画業界にとって脅威になる得るものであった。それは永田も薄々感じていたかもしれない。
だが彼はこの時は試合をテレビで見ていた。そして共に観戦する人物に話を聞かせてもらっていた。
今この時その場にいた人物の名を聞けば多くの者は恐ろしいものを感じたのではないだろうか。永田も大物であろうが彼は何処か愛敬というか人間臭さがある。しかしもう一人の人物の名を聞けば政治家もギョッとするのではないだろうか。
「何であの人がそこに?」
我が国の野球の歴史を語る上で欠かせない人物は幾人かいる。三原も西本も、そして永田もそうである。だが同時にこの人物を外しては到底成り立たないであろう。永田がこの時共にいた人物はそれ程の大物であった。
その人物の名は鶴岡一人。南海ホークスの監督にして球界一の名将と言われる男である。
広島県呉市に生まれた。広島商業に入り甲子園にも出場した。法政大学では好打堅守の内野手として活躍した。その当時から華のある選手として有名であった。そして鳴り物入りで南海に入団した。そしてルーキーでいきなり本塁打王となった。
当時は戦争の暗い影が世の中を覆っていた。彼とて例外ではなく戦争に招集された。そこで陸軍将校として名を馳せた。この時から人の上に立つ人物として一目置かれていた。
戦争が終わりプロ野球が再開されると彼は二十九歳の若さで監督となった。選手兼任である。それから彼の真の手腕が発揮されるようになった。
時には百万ドルの内野陣、時には四〇〇フィート打線。その時のチームの状況を冷静に見極めそれに合ったチーム作りをする。これはと思った選手を獲得し育てる。そうして南海を常に優勝を争うチームにしていた。事実彼は二リーグ時代だけでも八回の優勝を成し遂げている。
「グラウンドには銭が落ちとる」
彼はそう言った。彼は誰よりもプロ野球にいる人間としての意識が強かった。
彼は常に高所高所からプロ野球界全体の事を考えていた。同時に野球を深く愛していた。これが野球のことは何一つ知らず金にあかせて長距離砲ばかり掻き集め選手を全く育てようとしない愚かな人物やその卑しい取り巻き、テレビや雑誌等でそれを無批判に礼賛する愚劣な提灯持ち共との決定的な違いである。彼は常にパリーグ、そして野球界の事を考えていた。そしてそれを見て行動していた。
そのような人物であるから彼を慕う者は多かった。そして彼はカリスマ性だけでなく絶大な力も持っていた。
おそらく長い我が国の野球の歴史で帝王学を実践したのは彼だけであろう。その力は裏の世界の人間ですら逆らえない程のものであったという。
当時は選手の獲得等で不明瞭な金が動いていた。これはそういう時代だったからである。別に彼だけでなく多くの球団も大なり小なり同じであった。とある球団などはいまだに他のチームからそうしたやり方で選手を犯罪まがいの方法で強奪したりしているようであるが。
その戦績は見事である。リーグ優勝は一リーグ時代と合わせると十一回、日本一二回、監督通算一七七三勝、勝率六割九厘は歴代一位である。これだけの将は最早出ないだろうと言われている。
その鶴岡が今永田と共に試合を観戦している。鶴岡の目はテレビに映し出される試合に釘付けだった。
永田はその鶴岡を見ていた。ワンマンな彼もこの人物の言葉なら問題無いと思っていた。
試合が始まった。まずは一回、両者共無得点であった。
西本は二回途中で動いた。マウンドにエース小野を投入してきた。
「昨日の秋山の時に似ているな」
鶴岡はボソッと呟いた。
「だが状況が違う。これは吉と出るか凶と出るかわからんな」
永田はその言葉を耳に残した。そう、この時点では試合はまだ動いていなかった。
試合が動いたのは六回だった。表の大毎の攻撃で榎本がツーランホームランを放ったのだ。
この先制点にファンは狂喜した。西本も微笑んで先制アーチを放った榎本を迎える。
永田はこの時勝利を確信した。これで自慢の打線は爆発する、そして小野も大洋打線を僅か二安打に抑えていた。
そう思っていた。だが勝利の女神の気紛れさを彼は忘れていた。
大洋打線は確かに打率は低かった。しかしその集中力は凄まじかった。大毎側はそれを忘れていた。小野もこの程度なら楽に抑えられると油断したのであろうか。
その裏であった。大洋の数少ない中心打者である近藤和彦と桑田が連打を放つ。これで同点となった。
永田もファン達も沈黙した。そして七回裏にはシーズン打率僅か二割二分六厘の近藤昭仁と二割一分の鈴木武がこれまた連打を放ち逆転した。これには皆流石に唖然とした。
この年三原は『超二流』という造語を造っている。
「うちのチームは他のところみたいに一流の選手は少ない。しかし打っても守っても超二流の選手が揃っている。彼等が力を合わせて一流の選手を超えていくん三原の言葉通りその超二流の選手たちが活躍する。第一戦の金光然りこの試合の近藤、鈴木然り。そして大毎を追い詰めていっていた。そして試合はいよいよ天王山を迎えた。
八回表大毎の攻撃である。先頭の坂本文次郎がまずバント安打で出塁する。次は左の田宮である。三原はここでマウンドに向かう。そして投手を左の権藤に替える。だが四球で歩かせてしまう。
西本はここで慎重策に出た。前の打席でホームランを放っている榎本にバントをさせた。これで一死二、三塁。次は主砲山内だ。
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