マウンドの将
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第六章
第六章
打球はその間にも転がっていく。水を含んだ横浜の人工芝は独特の動きをする。
サードの鈴木が向かう。しかしやはり前の打球には手間取っている。石井はその間にも俊足を飛ばして一塁へ向かう。
結果はセーフだった。何といきなりバントを仕掛けてきたのだ。
「横浜でバントかよ」
東尾は思わず顔を顰めた。思いもよらぬ奇襲であった。
西口は一塁にいる石井を見た。その顔はあきらかに嫌そうなものであった。
「よりによって・・・・・・・」
無理をしてストライクを取りに行かなくてもよかった。焦る西口が判断を間違えたのだ。
やはり身体のきれもよくない。彼の焦りは益々深くなっていった。
「気をつけろよ」
彼の脳裏にバッテリーミーティングでのスコアラーの言葉が甦る。
「横浜は早いカウントからでも容赦なく打って走ってくるからな」
そうであった。特にこの石井は隙を見せると確実に走って来るのだ。
バッターボックスには二番の波留敏夫が入った。だが西口は彼よりも一塁にいる石井を見ていた。
「クッ!」
牽制球を投げる。そしてまた何と波留に一球目を投げるまでに五つの牽制球を投げていた。
「西口の奴焦ってるな」
それは横浜ベンチからもわかった。
石井は捕まらない。冷静に西口の動きを見ていた。それが逆に西口を苛立たせた。
一塁で黙ってマウンドの西口を見ている。西口も彼にばかり目を向けているわけにはいかない。
投手にとって難しい技術がある。それはランナーを塁で止めることだ。かって阪急との日本シリーズでその時巨人の正捕手だった森は阪急のトップバッターであり当時驚異的な盗塁を誇っていた福本豊の足を封じた。これにより巨人を日本一に導いたのだ。ここには森がピッチャーにランナーに対するクイック投法や癖盗み、そして牽制球の有効な使い方を伝授していたことも効果があった。後に彼は西武の監督としても同じことをしている。
野村のヤクルトでもそうである。ヤクルトには古田がいる。彼の捕殺は天下一品である。ランナーは余程上手くやらないと彼から塁は盗めない。西武がシリーズにおいてヤクルトに完敗すると皆予想したのは古田には機動戦が全く通用しないと思われたからである。それは事実であった。
ここでも古田は投手陣にクイックや牽制を教えていた。そうしてランナーの動きを封じるのも戦術なのである。
西口はそれを忘れていた。彼は焦るあまり石井に不必要に牽制球を投げ過ぎていたのだ。
「監督、どうしますか」
コーチの一人が権藤に対して尋ねた。
「いつもの通りだ」
権藤はそれに対してクールに答えた。
「あいつに任せる」
これは横浜の方針であった。石井が一塁に出た時は彼とバッターボックスにいる波留に任せる。そうして勝ってきたのだ。
四球目、キャッチャー伊東勤はサインを出した。スライダーである。西口は投げた。
「!」
その瞬間石井は走った。ボールがミットに収まった時には石井は既に二塁を陥れていた。
「やっぱりやられたか・・・・・・」
西口は苦渋に満ちた顔で二塁ベース上で砂を払う石井を見た。その石井に対し球場の九割以上を占める横浜ファン達が喝采を送る。
「やはりシリーズだけはあるな。凄い声だ」
東尾はその声を聞いて呟いた。ベンチにいる彼ですらそう思うのだからマウンドにいる西口にはそれが余計に大きく聞こえた。
波留は何とか打ち取った。そして打席には鈴木尚典が入る。
鈴木のバットが大きく振られた。打球はそのまま一直線にライト前に打ち返された。
石井の足はやはり速い。彼は苦もなくホームを踏んだ。シリーズの先制点は横浜が手中にした。
球場は大歓声に包まれる。それが西口を余計に焦らせた。
その回はエラーもあったが何とか抑えた。だが流れは明らかに横浜にあった。西武は毎回ランナーを出すが攻めきれない。
試合は進んでいく。そして石井がまたバッターボックスに入った。
伊東はチェンジアップを連投させた。だがストライクが入らない。そして結局歩かせてしまった。
西口の表情がまた暗くなる。やはりまた走られた。彼は集中力を分散させてしまっていた。
波留に打たれた。石井は無理をせず三塁で止まった。マシンガン打線に銃弾が装填されようとしていた。
次の鈴木は粘った。初回のタイムリーが西口と伊東を圧迫する。
「ここを抑えてくれればいいが」
東尾は苦しむ西口を見ながら言った。西武にとっては正念場だった。
「ここで点を入れればこの試合は勝ちだ」
権藤は顎に手を当てながら呟いた。横浜にとっては試合を決める絶好の機会であった。
鈴木のバットが一閃した。打球はレフト前に落ちた。
これで一点。東尾はそれを見て苦い顔をした。
続いてローズにも打たれた。今度はツーベースだ。彼は完全にマシンガン打線に捕まっていた。
「これは駄目だな」
東尾は顔を顰めた。そしてマウンドに向かった。
ピッチャー交代を告げた。西口はこれでマウンドを降ろされた。
だが攻撃は続く。横浜はこの回三点を追加した。
これに気をよくしたのが横浜のマウンドにいる野村である。彼は打席でも活躍した。
打てばツーベースである。これに肝を冷やしたのだろうか。西武は守りに乱れが生じだした。悪送球や暴投で不必要に失点を重ねていく。
最早点差は開く一方だった。野村は高木大成にツーランを浴びるも崩れなかった。それそころかまた打った。そしてまた追加点を入れられた。
野村は七回で降板した。四失点ながら試合を見事に作った。
そして八回となった。二死二塁、ここで権藤が動いた。
「五十嵐か?」
この時マウンドにいたのは阿波野秀幸。かって近鉄のエースとして活躍した男であり今は横浜の貴重な中継ぎであった。
横浜のリレーを考えると次はその五十嵐英樹、通称ヒゲ魔神だった。
だが権藤は彼の名を言わなかった。ここで何と切り札を投入してきたのだ。
「ピッチャー、佐々木」
権藤は彼を調整させる意味でもマウンドに投入したのだ。
リリーフカーに乗り姿を現わす佐々木。横浜の観客達はそれを見て歓声を送った。
佐々木の球は思ったより速かった。だがやはり風邪明けである。制球が定まらない。
四球を出し二死一、二塁。忽ち窮地に追い込まれる。
ここで西武は得意の機動戦術に出た。盗塁を仕掛け調子の良くない佐々木を揺さぶろうというのだ。
だがそれは失敗した。三塁を狙った高木が谷繁により刺されてしまったのだ。
その裏西武は中継ぎの柱の一人デニーをマウンドに送った。
「横浜のお客さんにもサービスしとかなくちゃな」
東尾はニンマリと笑って言った。デニーはかって横浜にいた男である。その長身と整った顔立ちにより横浜時代より人気は高かった。
横浜の観客達からも歓声が起こる。鈴木健のエラーにより失点を許したが満足のいく投球であった。彼は横浜のファン達にも温かく迎えられながらベンチに戻った。
九回は佐々木が三者凡退で締めくくった。横浜にとっては幸先よい勝利だった。だが西武にとっては嫌な幕開けとなった。
「石井さんのバントとスチールで自分を見失ってしまいましたね。調子が悪かったので余計に気になったかも知れません」
試合後西口は記者達に対して唇を噛んで言った。
「全てが悪かったな。ゲームになっていなかったよ」
司令塔である伊東も憮然として語った。西武のベンチは沈滞していた。
逆に勝った横浜は上機嫌だった。石井は記者達に対して言った。
「何度も牽制球を出してくれましたからね。かえってタイミングを掴めましたよ」
その言葉が全てだった。西武は半ば自ら敗北を招いてしまった。
試合後東尾はホテルで呟いた。
「この一敗は大きいな・・・・・・」
ただの一敗ではなかった。両チームの流れを決定付けるような西武にとって後味の悪い一敗であった。
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