マウンドの将
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第四章
第四章
「おい」
ここで野村が出て来た。そして西口をチラリ、と見た。
(俺を見て何を言ったんだ!?)
彼はふとそう思った。彼もまた野村のことはよく聞いていた。
野村は西口を横目で見ながらテータムに囁いていた。
「初球を狙っていくんや、わかったな」
「オーケー、ボス」
テータムは頷いた。そして打席に入った。
(また何かやるつもりかな)
彼は少し不安になった。ここに少し焦りが生じたとしても不思議ではない。
まずはカウントをとることにした。得意のスライダーを投げた。
それが失敗だった。テータムのバットが一閃した。
「しまった!」
叫んだ時には既に遅かった。打球は神宮のレフトスタンドに突き刺さっていた。
「やられた・・・・・・」
彼は落ち着きを取り戻し、そして後悔した。不用意にカウントをとりにいってはいけない時だった。テータムはゆっくりとダイアモンドを周り野村は笑顔でそれを出迎えた。会心の笑みだった。
結局それが決勝打になった。西武は石井と古田のバッテリーを攻略することが出来ず十二三振を喫して完敗した。只の一敗ではなかった。投打において完敗した試合であった。それがこのシリーズの西武の行方に暗い影を落とした。
シリーズは終始ヤクルト有利に進んだ。第三戦では古田が決勝アーチを放ちシリーズの流れを完全に掌中に収めた。西武は手も足も出ず第五戦に挑んだ。
「ここで流れを引き寄せなくては」
マウンドには西口が上がった。彼は全てを賭けてマウンドに立った。
だが打たれた。五回で無念の降板だった。
ヤクルトはその試合巧みな継投で西武を何なく退けた。まるで赤子の手を捻るようにあっさりと勝負を決してしまった。
「やっぱり野村には勝てなかったな」
「ああ、予想通りの結末だよ」
皆そう言った。誰もがヤクルトの絶対的な有利を信じその通りに進んだシリーズであった。
西武にとっても、彼にとっても苦い思い出だった。そのことは一日たりとも忘れたことはなかった。
彼のシーズンはその時からはじまった。あの雪辱を晴らす為に。
しかしここにきてこの体調不良である。彼は焦っていた。そしてその焦りを遂に打ち消すことができなかった。
それに対する横浜は少し事情が違っていた。彼等もまた雨が降り注ぐ横浜スタジアムを見ていた。
「あれっ、こんな時でもランニングですか?」
記者の一人はウェアを着込もうとしている一人の選手を見て声をかけた。
「ええ、案外雨の中を走るのも気持ちがいいですよ」
彼はウェアを着終えるとそう言った。横浜の遊撃手石井琢朗である。
幾度も盗塁王に輝いている。守備も素晴らしくサード、そしてショートでゴールデングラブ賞を獲得している。またトップバッターとして、チームリーダーとして活躍し横浜の柱といってもいい人物だ。
「そうなのですか、また気合が入っていますね」
「そりゃそうですよ」
彼はにこやかに笑って答えた。
「シリーズですからね」
彼はそう言いながらグランドに向かっていた。
グラウンドには誰もいない。ただ雨が滝の様にグラウンドを支配していた。
本当に誰もいないな、石井はそれを見てそう思った。
「西武ナインはいませんね」
彼は記者の方を振り向いてそう言った。
「ええ、今は横須賀にいますよ」
その通りであった。彼等は今この雨を避け横須賀の二軍室内練習場で汗を流していた。そこで試合前の最後の調整をする為だ。
「ここに来て守備練習はやっていないんですね」
「ええ、していませんでしたね」
記者はそう答えた。石井はそれを聞いて一瞬考える顔をした。
「そうですか」
そう言うと彼は顔を元に戻した。
「ここの人工芝今年張り替えたんですけれどね」
「あ、それは知っています」
なかなかよく勉強している記者だ。最近の記者はろくに試合もキャンプも見ず特定の球団に媚び諂っている輩もいるというのに。これはテロ国家の下僕と化している者も多かった我が国のマスコミの病理のほんの一部である。
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