死んだふり
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第七章
第七章
「けれどそれこそが勝った証拠ですね。力比べと知恵比べ、同時にできる南海戦は本当にいいです。僕はそうした意味で鈴木さんのいる近鉄と野村さん、門田のいる南海には負けたくないですね」
後阪急と近鉄は足掛け数年にも及ぶ激しい死闘を展開する。兄弟球団でありながら宿敵関係にある両球団の長い死闘の中でもハイライトである。
その山田である。さて、どう攻略するか。
「ストレートにカーブ、シュート」
山田は球種も結構ある。
「そしてシンカーか」
そして最大の武器はシンカーである。その切れ味はまるで日本刀のようであった。
右打者の膝のところに鋭く斜めに落ちるそれを打つのは容易ではなかった。先輩の足立光宏に教えてもらったこのボールが山田を山田たらしめていたのだ。
「こういったことは全部頭の中に入れとかんとな」
野村はこのことだけは決して記者達には言わなかった。
「さもないと西本さんや山田に知られてまうわ。頭の中だけにしとかんと」
そうすれば彼等も対策を打ってくる。そうなれば何の意味もない。
「こっちの手は見せとるしな」
彼は西本の前であえて言った継投策のことを思い出していた。
「あれで惑わされるような人ではなかったな、やっぱり」
第一戦では勝利を収めたものの第二、第四戦では敗れた。だが一勝できただけでもよしとするか、とここでは考えることにした。
「問題はこれからや」
そうであった。泣いても笑っても次で決まるのだ。
「山田、あいつを打つことで全てが決まる」
確かに南海の打線は弱い。しかし。
「手の内さえわかればどうにかなるもんや」
彼はそう思いながらバスに揺られて宿舎に向かった。
この時西本は監督室にいた。そして山田を前にしていた。
「明日は御前に全部任せた」
「はい」
山田は眦を決して答えた。
「心配する必要はない、今の御前は誰にも打てるもんやない」
あえてここで褒めた。普段は自分のチームは口ではあまり褒めないというのに。
「だからそのまま捻じ伏せていけ、完全試合でも何でも好きなのを狙っていくんや」
あえてこう言い発破をかけた。これが西本の深謀遠慮であった。
試合をするのは選手である。ならば選手がその力を発揮せねばならない、西本はそう考えていた。
彼は小細工を弄する男ではなかった。魔術と呼ばれるような奇策もとらない。あくまで選手を育成しその力で勝利していく。言うならば王道であった。
だがそうだからといって采配をおろそかにはしていなかった。この山田にかけた言葉がそれであった。
「あいつは一発病がある」
それはどうにもならない。しかし。
ならば打たれないようにするだけだ。山田はそれが可能なピッチャーである。彼をあえて奮い立たせマウンドに送った。後に鈴木啓示に対しても同じ様なことをしている。
「今日のマウンドはあいつに任せた」
西本はベンチで腕を組んでそう言った。そして試合がはじまった。
南海の先発は山内、決戦に相応しく両チームのエースがぶつかった。両者相譲らない。
二人共絶好調であった。山田は何度かピンチを招きながらもその度に踏ん張り危機を脱した。
山内もだ。今日は変化球のキレが良かった。阪急打線を抑えていた。
「どちらが崩れるかや」
西本はそれを見て言った。
「しかし今日の山田はそう簡単には打てんで。とれたとしても一点か二点や」
慧眼であった。それは的中した。
「この勝負もらった」
西本は確信した。野村はそんな彼をチラリ、と見た。
「どうやら山田には絶対の信頼をおいとるようやな」
ここで彼のキャッチャーとしての顔が出た。
「しかし全く打てないピッチャーというのは存在せん」
人間である以上当然であった。野村は稲尾和久、杉浦忠という恐るべき大投手も見てきた。杉浦はそのボールを受けた。彼等にも弱点はあった。野村はそれを知っていた。
「山田にもある」
それは一発病だけではなかった。
「今日はそれをついたるわ。そして勝ったる」
マスクの奥から西本、そして山田を見て呟いた。彼もまた勝利を求めていた。
彼は六回が終わるとピッチャーを交代させた。佐藤道郎である。
「ホンマに変化球を投げさせるのが好きな奴やな」
西本はこう思った。ここで一つの思い込みがあった。
野村は実はキャッチングがあまり上手くはない。『ナベブタキャッチャー』と揶揄されることもあった。パスボールも案外多かった。動きもお世辞にも速くなく肩もそれ程ではない。それをランナーやバッターの癖盗み、配球、囁き戦術等でカバーしていたのである。頭脳派と言われるがそうしたことがあってのことだった。
その配球も変化球が多い。彼は後にヤクルト、阪神の監督になるがここでも変化球を好んだ。それはこの時からであったのだ。
佐藤は野村の期待に応えた。阪急打線に二塁すら踏ませない。そして遂に九回となった。
マウンドには当然山田がいる。この調子では変える理由がなかった。まずはアウトを一つとる。
そして次は九番である。この時まだパリーグに指名打者という制度はなかった。従ってピッチャーがバッターボックスに入る。
代打か、誰もがそう思った。だが野村はここであえてピッチャーの佐藤を打席に送った。
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