恋よりも、命よりも
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新たな生活2
「怖かった、んですか…」
「そうや。怖かった。ウチは十ナン年もトップはり続けてきたんやで?今さら別の世界に飛び込むなんて、考えられへんかった。
…恋の内は、夢のように想像で終るような間はいいんや。でもな実際、現実となると、『タカラジェンヌのリュータン』は、足がすくんで動けんようになるもんや。自分なりに驚いたでぇ」
ウチはこんなに臆病だったんかってな。
リュータンさんはそう言って、ちょっと寂しそうに笑った。
「ま、そんなこんなでウチはあんたに感心したわけや。
ウチに及ばずともタカラジェンヌとして誇りを持って生きているあんたが、『お嫁さん』を迷いなく選択したっちゅーことにな。
で、そんな選択をさせた清志さんは、素晴らしい『何か』を持ってるんやないかと思ったんや。
…ウチの絵ぇは、下手やったけどなぁ?」
と、最後は少しからかうようだったので、私はわざと笑って
「清志さんの絵は、自分に正直に描いた絵なんです~、だから、私が一番きれいに描けるんです~!」
と言い返した。
「こりゃ、あてられたわ~」
あはは、と、大声で笑いながら「ウチも旦那さまとイチャイチャしてこよ~」なんて言ってリュータンさんは去って行った。
リュータンさんが言ったこと、私だって考えなかったわけじゃない。
多分、清志さんが戦争に行かなかったら、私は清志さんと結婚しなかったと思う。
や、正直にいえば惹かれていた部分はあったから、いずれそうなったかもしれないけど、もっと、ずっと先になったはず。
だから、リュータンさんが感心する必要なんてどこにもない。
私はいつも、沢山の偶然や必然の中から、自分の好きな道をその時後悔しないように選んでいったにすぎないんだから。
それって、『自分は臆病者だった』と言っているリュータンさんにも言える事じゃないのかしら。
宝塚でずっと、永遠にトップであり続けようと思っていたのも。
偶然生まれた『恋心』に戸惑いながらも成就させようと奮闘していたあの時も。
『恋愛成就』より『タカラジェンヌ』であろうと考えた瞬間も。
一つの夢が終わり、新たな『結婚』という道に歩んでいる今も。
リュータンさんは悲しくても、辛くても、後悔だけはしなかったんじゃないかしら。
沢山の偶然と必然の中から選んだ自分の道を、誇りを持って歩く人だ、と、そう思う。
なんだかんだ言って、私の尊敬する先輩だもの。
私たちは、退団しても乙女じゃなくなってもやっぱり、『タカラジェンヌ』だわ。
清く、正しく、美しく。
どんな生活の中でも、不思議とそうありたいと思ってしまうのだと思う。
まぁ、でもね。
そんな私を私は好きだし、清志さんも魅力的だと思ってくれているの。
だから私は、新たな清志さんとの生活の中でも、
自分の中の『タカラジェンヌ』である心を失わずにおこうと思った。
「…やだ、すき焼きなくなっちゃう!」
「エリ~、すき焼き食べちゃうよ!」と大声で私を呼ぶ紅の声に、
「私の分くらい取っておきなさいよねぇ!!」
と、こちらも大声で返しつつ、私は笑った。
私、あの頃のままだわ。
新しい生活が始まっていても、
好きな人がいて、大切な友人がいて、尊敬できる先輩がいて、その中で。
キラキラに輝こうとしていたあの頃と、全く変わらない。
夢と希望に満ちている、野心のある『エリ』のまま。
その事が、嬉しくって、笑った。
秋の良き日。
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