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土壇場の意地

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第六章


第六章

 ホームで激しい激突があった。アウトか、セーフか。場内は判定を固唾を飲んで見守った。
「セーフ!」 
 主審の右手が横に切られる。何と二塁からのタッチアップであった。
「これでよし」
 森はそれを見てほくそ笑んだ。だがそれで終わりではなかった。
 今度は一塁に辻がいた。今度は秋山がセンター前にヒットを放った。
「流石に今度はない」
 辻は一塁だ。如何に彼の走塁が名人芸でも精々三塁までだ。そう、どの様な機動力であっても。
 だがまた三塁を回った。クロマティは驚愕した。
「こんな野球は見たことがないぞ!」
 彼ははっきり言えば油断していた。今度ばかりはないものと思っていたのだ。
 だが西武は違った。やはり彼の隙を狙っていたのだ。
 また慌てて返球する。だがやはり肩が弱かった。守備は普段からの練習がものを言う。ましてや彼は三十代後半であった。衰えもあった。
 辻は見事ホームを陥し入れた。これで巨人の流れを完全に潰し、そして勝利を確固たるものにした。
「守備でのミスは取り返しがつかない」
 彼はこう考えていた。奇しくも彼と犬猿の仲で知られる権藤博もこう言っている。
「エラーでの失点は返って来ない」
 投手出身の彼もまた同じことを言った。守備はそれだけ重要なのだ。
 絶好の例を挙げるとすれば『史上最強打線』という破廉恥な名前を掲げている巨人がそうである。確かにホームランは多い。だが守備は穴だらけだ。おそらく今まででも屈指のお粗末さであろう。そういう意味では球史に永遠に名を残す。その為優勝を逃した。もっともこれは無能なフロントと監督のせいでもあるが。とある巨人の提灯持ちのスポーツ新聞紙は『史上最強球団代表』という北朝鮮のプロパガンダに匹敵する下品な礼賛記事を載せた。笑い話にしても性質が悪い。己の保身にしか頭が回らず、オーナーの茶坊主としてヒステリックに喚き散らし、挙句の果てには裏金で解任される知能の低い男をここまで賛美できるのもまた日本のマスコミだけであろう。こうした愚か者が作り上げたチームである。満足に勝てる筈もない。監督は負ければ選手の責任にする。愚将の見本の様な男であった。
 こうした愚劣で滑稽なチームの野球と森の野球は根本から違う。彼は野球とは何かをその灰色の頭脳でよくわかっているのだ。
「だからこそだ」
 彼は杉山の守備を信用できなかったのだ。
「もしレフトに打球が飛んだら」
 そう思うとやはり怖かった。だから垣内を送ったのだ。
 そして彼にはもう一つ読みがあった。
「今日の潮崎はいい」
 そう、潮崎の調子を見て安心していたのだ。
 武器であるシンカーのキレがよかった。十回も三人で無難に抑えていた。
「これならば抑えられる。問題はない」
 こうして潮崎続投を決めたのだ。
 そして彼はこのシーズン近鉄に相性が良かった。ホームランは一本も打たれていない。特に今打席にいるレイノルズはノーヒットに抑えている。
「続投だ」
 こうして潮崎続投を決定したのだ。
「流石にもうあかんで」
 近鉄ファンは流石にもう観念していた。
「レイノルズは潮崎が大の苦手や。幾ら何でもこれでお終いや」
 三色帽も作業服もそう言って諦めていた。
「何度も言わすな」
 それを老ファンが叱った。
「最後まで見とけ、ちゅうとるやろが」
「おっさん、そうは言ってもこらあかんで」
「そうや、せめて胴上げだけはこの目で見んようにしようやないか」
 二人はそう言い返した。だが彼は動かなかった。
「わしは最後まで見る」
 そしてグラウンドから目を離そうとはしなかった。
「・・・・・・わかったわ」
 二人はそれを見て観念した。再び腰を下ろした。
「じゃあ最後まで観ようやないか」
「ただし負けたらビール奢ってもらうで」
「好きなだけ奢ったるわ。負けたらな」
 売り言葉に買い言葉である。彼もそれに乗った。
「そのかわり、最後まで観るんや」
「・・・・・・ああ」
 二人はようやく腹をくくった。そしてグラウンドに顔を移した。
 潮崎は投げた。サイドスローから右腕が唸る。
「シンカーか」
 レイノルズの身体の外へ逃げる様に斜めに落ちていく。見事なシンカーだ。
「決まったな」 
 潮崎も伊東も思った。だがレイノルズのバットはその軌跡に動きを合わせた。それでも二人はまさか打たれるとは思いもしなかった。
「このシンカーは打てない」
 そう確信していた。だがそれは誤りであった。
 レイノルズはバットを渾身の力で振りぬいた。凄まじい唸り声が響いた。
「何っ!」
 森はそれを見た瞬間思わず声をあげた。今コーチ達と共に胴上げの準備をしているところであったというのに。
 打球は大きな弧を描いて飛ぶ。そして藤井寺のレフトスタンドに吸い込まれていった。
「まさか・・・・・・」
 潮崎は今スタンドに入ったボールを見た。西武ファンの沈黙は絶叫のそれであった。
 その場にしゃがみ込む。ナイン達もだ。
「まさかここで打たれるとは・・・・・・」
 流石にこれには落胆した。まさかの一撃であった。
 レイノルズはダイアモンドを回る。そしてホームを踏んだ瞬間にナインとファンから歓喜の声で迎えられる。
「どや、これが近鉄の野球や」
 老ファンは満足した笑みで言った。
「こういった土壇場にこそ力を発揮するんや。今年は少ないがな」
「そやったな」
 二人はそれに納得した。
「なあおっさん」
 ここで二人は老ファンに恐る恐る語り掛けた。
「何や?」
 彼はそれに対しゆっくりと顔を向けた。
「ビールやけれど」
「ビール!?」
 彼はそのことは完全に忘れていた。だが二人はそれに構わず言った。
「わし等が奢るわ。好きなだけ飲んでや」
「・・・・・・まあくれる、ちゅうんなら貰うけれどな」
 彼はそれを了承した。だが何故奢られるのかはわかっていなかった。
 試合はこれで流れが止まった。結局延長十二回引き分けに終わった。
「勝てなかったか」
 森は疲れきった顔で言った。
「一勝するのは難しいということはわかっているつもりだが」
 その顔は土気色になっていた。
「それでも今日は勝ちたかったな」
 そしてベンチから姿を消した。西武が優勝するのはこれから一週間後の十三日であった。長く苦しいトンネルであった。
 近鉄ファンは彼とは好対照であった。思いもよらぬ引き分けに安堵していた。
「これが近鉄バファローズの野球や」
 球場を出る時老ファンは満足した顔で言った。
「見たやろ、最後の最後までお客さんを帰さへん野球や」
「ホンマやな」
 二人はその言葉に首を縦に強く振った。
「じゃあ後は酒屋でゆっくりと話しようか、胴上げみんで済んだし」
「ああ、約束通りじゃんじゃん奢ったるで!」
 三人は酒場へ消えた。そしてその言葉通り心ゆくまで酒を楽しんだ。
 これが近鉄の野球であった。それは藤井寺から大阪ドームに変わろうと何時までも変わらないものである。


土壇場の意地   完


                 2004・8・23
 
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