土壇場の意地
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第四章
第四章
「あんな太った長嶋がおるか?」
だが三色帽の男が森を指差して彼に対して言った。
「いや」
作業服は首を横に振ってそれを否定した。
「確かに森や」
「そうやろ、あれは森や」
そう言う三色帽も信じられなかった。一体何を考えているのか、と思っていた。
「わからへんな、いや」
ここで老ファンがハッとした。
「そうか、わかったで」
「何や、おっちゃん」
「これはな」
他の二人はゴクリ、と喉を鳴らした。次の言葉を待った。
「日本シリーズへの対策や」
「シリーズのか!?」
「そうや」
彼は険しい顔で他の二人に頷いた。
「セリーグはもう決まっとるやろ」
「ああ、ヤクルトやな」
このシーズンのセリーグは長嶋茂雄が戻ってきた年であったがそれだけで優勝出来る程野球の世界は甘くはない。この年のセリーグ昨年の最後の最後まで、そうシリーズまで見る者を離さない程の死闘を展開し、それで実力をつけた野村克也率いるヤクルトが優勝していたのだ。
「野球は頭でするもんや」
野村はニンマリと笑ってこう言った。これは勘、いや思いつきだけで野球をする巨人に対しての痛烈かつ爽快な皮肉であった。
野村と同じく森もまた知略で知られている。だが彼は野村とは少し違う。
「知略とはそのチームに合ったものでなければならない。こちらにも敵にもな」
彼はこう考えていた。ここも野村と同じだが少し違う。野村は自分の考えにチームを合わせようとするところがあるが森はその選手を見て策を練るのだ。
「その選手が私を嫌っていても構わない」
森はよくそう言った。
「使える選手は誰だろうが使う」
そうした考えの持ち主であった。巨人時代からかなりシビアな考えの持ち主であった。
その考えのもとこの策を使った。そう、シリーズにおいての秘策だ。
「どういうつもりだ」
ヤクルトの偵察隊も藤井寺に来ていた。彼等もまた我が目を疑った。
「うちのクリーンアップ用か」
誰かがそれを見て言った。
当時ヤクルトのクリーンアップは広沢克己、ハウエル、池山隆寛であった。右、左、右とジグザグになっていた。
三人共長打力に秀でていた。三振も多いがそれは脅威であった。
ここで最大の問題は四番のハウエルだ。彼はここぞという時に打つ男であった。この前のシリーズでは徹底的にマークして抑えている。
だが今回はそれだけでは危ないことが考えられる。見たところヤクルトは昨年より遥かに強くなっているようだ。
「だからこそハウエルを抑えなければならない」
森はそう考えていた。彼には一つの持論があった。
「敵の主砲は何としても封じろ」
である。
「そうすればそのチームの得点力は大幅に減る」
これはその通りであった。彼はかってこの論理で勝利を収めてきた。
ならばハウエルを封じなくてはならない、彼には都合のいいことに一つの弱点があった。
それは彼が左打者というところにあった。そう、彼は左投手を苦手としていたのだ。
「うちの左といえば」
ワンポイントで使えるとなればやはり杉山だ。しかし。
「広沢と池山がいるしな」
その後には古田敦也もいる。森は彼には妙に警戒心を抱いていた。
「古田もいるしな」
確かに古田は打撃もいい。しかしそれだけではないと感じていた。
「もしかするとあの男は」
古田を見る度に思うことがあった。
「私以上の男かもな。野村さんも凄い男を育てているものだ」
後に野村も森も古田に一敗地にまみれる。その時にそう思ったことを噛み締めるのであった。
ヤクルトの打線はそうした強さがあった。だがそれを何処かで断ち切らなくてはならない。
「それは敵の主砲であるべきだ」
そうでなくては意味がないのだ。
「主砲の一発で全てが変わる」
かっての巨人がそうであった。王と長嶋がいたことはやはり重要であった。
昭和四七年のシリーズはその好例であった。第三戦、阪急のマウンドにいたのはサブマリン投手山田久志であった。
山田はこの試合好投を続け九回まで巨人打線を完封に抑えていた。だが九回に王の逆転サヨナラスリーランを浴びてしまった。
これでシリーズの流れは変わった。巨人は勢いを掴みシリーズを制覇したのであった。
「あれがシリーズの怖さだ」
森はそのことがよくわかっていた。シリーズは一打で流れが変わるものなのだ。
だからこそ万全を期さなくてはならない。そう、ハウエルは何としても抑えなくてはならなかったのだ。
その為に秘策がこれであった。おあつらえ向きに近鉄のクリーンアップには左打者がいた。
ブライアントだ。まずは彼を仮想のハウエルに見た。
「さて、ここからだ」
森はヤクルトの偵察陣に目をやった。
「これを見てどうするかな」
彼はあえて手を見せたのだ。これでヤクルト側を少しでも惑わせる為に。
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