土壇場の意地
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第一章
第一章
土壇場の意地
最後の最後、ここで決まるという場面がある。
これは何事にもある場面であり野球だけに限らない。その最後に全てが決まると思うと人は不思議な高揚に包まれるものだ。
だが勝負の世界において敵にそれを見せ付けられることほど嫌なことはない。悔しいことはない。それが勝敗の常だとわかっていても受け入れられないものだ。
それはこの日の近鉄バファローズもそうであった。
「今年は何かがおかしいな」
ファンはよくこう言った。かっては常に優勝を争っていたというのにこのシーズンは順調に勝つことができなかった。
「戦力は同じなんやけれどな」
それが不思議で仕方なかった。それでどうして勝てないのか。
「監督のせいちゃうか」
誰かが言った。このシーズンから近鉄の監督は知将と謳われた仰木彬から三〇〇勝を達成した往年の大エース鈴木啓示に変わっていたのだ。
鈴木は徹底した根性論者であった。選手達にはとにかく走るように言った。
そして選手が怪我をしても出させ続けた。流石に選手達もこれには反発した。
その為選手と監督の間に深い溝ができていた。これでは満足に勝てる筈もなかった。
「あのままやとまずいんちゃうか」
心あるファンはそう思った。だがフロントは動かなかった。
これから二年後近鉄は最下位になる。チームが完全に崩壊したせいであった。
鈴木の下では選手達の顔も暗かった。とかくチームは沈んでいた。
「しかし野球は好きや」
ナインはそう思っていた。だから球場でプレイを続けていた。
このシーズンもやはり西武の独走であった。全てにおいて隙のない戦力であった。
「それにひきかえ西武は」
ファンは溜息混じりに向こうの青いユニフォームを見た。
「一体何時になったら負けるんやろうなあ」
そう思わせるだけの圧倒的な戦力であった。その前のシーズンも日本一になっていた。西武の黄金時代はまだまだ続くかと思われた。このシーズンも既にマジック一となっていた。
そして今日の試合に挑んでいた。一〇月六日、藤井寺である。
「よりによって西武の胴上げ見なあかんのかい」
近鉄ファンにとってはしゃくでならなかった。この数年毎年優勝を争ってきた当のチームである。
「それも藤井寺でやで。やっとれんわ」
皆口々に不満を言い募っていた。お世辞にもマナーのいいファンとは言えない。
「いや、わからんで」
ここで年老いた一人のファンが呟いた。
「何でや、おっちゃん」
彼等はシーズン中は毎日のように球場に通っている。だからもう顔馴染みである。
「いや、昨日西武に勝ったやろ」
「ああ」
「昨日の西武見てどう思った?」
「どうと言われると」
彼等はそこで考えた。
「まあ一時みたいな強さは感じんかったな」
「あおやな。ちょっと前までの西武やったら負けとったかも知れん」
五日の試合は一点差で近鉄の勝利であった。
そこでファンが微かに感じたのがそれであった。
「デストラーデがおらんからな」
西武の黄金時代を象徴する男の一人であった。陽気で大柄なキューバ出身のスラッガーである。秋山幸二、清原和博と共にクリーンアップを組んでいた。
「しかし鈴木健がおるで」
西武の期待の若手だ。バッティングセンスの良さで知られている。
「あいつはデストラーデ程怖ないしな。それに今一つ西武に合っとらん気がする」
「そういえば」
これは後に的中する。鈴木健はヤクルトにトレードで出され、そこで思いもよらぬ活躍をするのだ。彼は満面に笑みをたたえてヤクルトに来てよかった、と言った。
尚西武から他の球団にトレードで出た選手は多い。先に挙げた秋山はダイエー、清原は巨人に行った。二人共その球団に完全に馴染んでいた。秋山はダイエーでは誰もが一目置くチームリーダーであり王貞治からも絶対の信頼を置かれていた程である。
セカンドの辻発彦もヤクルトに行って復活した。バントの名手平野謙はロッテに。奈良原浩は日本ハムに。吉竹春樹は阪神に帰った。やはりこうして見ると人材流出が激しい。工藤公康もダイエーから巨人に移っている。これだけの主力の放出をフロントが一切止めていないのもまた妙ではある。
だがこの時はそのキラ星の如き人材が揃っていた。西武はまだまだ圧倒的な強さを誇示している筈であった。
しかし何かが違っていた。どうもあの強さや覇気が感じられないのだ。
「とにかく今までの西武とは何かちゃうで」
その老ファンはまた言った。
「優勝にプレッシャーなんか感じへんチームやけれどな」
何度も優勝しているチームはもう慣れたものである。マジック一だからといって緊張することはない。
「ただ、何かがちゃうんや」
そして西武のベンチを見た。見れば普段と全く変わりのない西武ベンチであった。
「渡辺の調子はどうだ」
西武の将森祇晶はコーチの一人に今日の先発である渡辺久信の調子を聞いていた。
「いいですよ。今日はいけます」
「そうか」
森はそれを聞くと頷いた。
「では今日で決めるとするか」
「はい」
彼等は今日で優勝を決めるつもりであった。
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