もう一人の自分
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第三章
第三章
「この前の稲尾みたいな奴が他にいる筈もないし」
この前の年巨人は西鉄に敗れ日本一を逃していた。三連勝から奈落の四連敗であった。稲尾を打つことができなかったのだ。
「あれは化け物だよ」
誰かが言った。まだあの悪夢から醒めてはいなかった。
「あんなのが二人もいる筈がない。だから安心していればいいさ。こっちには長嶋がいるんだし」
「ああ、そうだな」
彼等にとって長嶋はもう信仰の対象ですらあった。
とにかく勝負強かった。脚も速く守備も華麗だった。打ちどころのないスーパースターであった。
彼がいる限り大丈夫だ、そう信じていた。彼を抑えられはしない、そう思いなおしグラウンドに視線を戻した。
杉浦は八回でマウンドを降りた。三失点の好投であった。
「ご苦労さん」
鶴岡は笑顔で彼を迎えた。
「はい」
杉浦は静かに頷いた。だがその顔は何処か強張っていた。
「どないした!?」
それを不審に思った鶴岡は声をかけた。
「いえ、何も」
心配をかけるわけにはいかない、彼は笑顔で応えた。
「そうか、だったらええがな」
杉浦はこの時隠していた。実は彼は右の中指に血マメを持っていたのだ。
(まずいな)
杉浦は思った。だが幸いにして誰にも気付かれていない。彼はそっとそのマメを隠した。
試合はこれで決まりだと思われた。しかし巨人がここで意地を見せた。
「杉浦以外の奴は怖くない!」
そう言わんばかりの攻勢を仕掛けてきた。鶴岡はそれに驚いた。
「やっぱり巨人には並の戦力ではあかんな」
試合に勝てはしたが心底そう思った。何と杉浦降板後で四点を失ったのだ。
「やっぱり巨人を抑えられるのは一人しかおらんか」
彼は痛感した。ちらり、と杉浦を見た。
「このシリーズ、全部スギに託すか」
決意した。勝つ為にはやはり杉浦の力が不可欠だ。
杉浦は勝利インタビューを受けていた。その顔はいつも通り穏やかなものだった。
だが痛みをひた隠しにしていた。血マメが痛むのだ。
自宅に帰ると痛みはさらに増した。
「クッ・・・・・・」
マメに針を刺す。そしてそれで血を抜き取る。
「明日までに抜き取っておかないと」
もしかしたら明日も投げることになるかも知れない。その時に血マメが痛んではいけない。それまでに何とかしておかなくてはいけない。
彼は右手の中指を上に向けたまま眠った。そして次の試合に備えた。
第二戦、巨人はここで勝負にでた。藤田を登板させたのだ。
「出てきたな」
南海ナインは藤田の姿を認めて呟いた。彼は淡々とした様子で投げている。
「あいつを打ち崩すんや」
鶴岡はナインに対して檄を飛ばした。
「今日勝ったら一気にいける。ええな」
「はい」
シリーズにおいてはよく第二戦こそが最も重要であると言われる。黄金時代の西武なぞはよく第二戦に絶対のエースを先発にした。この時の巨人はそれにならったのだろうか。
だがこの時代は第一戦にこそ絶対のエースを登板させた。南海もそうした。
しかし水原は違っていた。もしかすると第一戦は捨てていたのかも知れない。そう思える起用であった。
南海の先発は田沢芳夫、杉浦の連投はやはりないと思われた。
「今日はあかんな」
大阪球場のファンはそう見ていた。勝てるとは思っていなかった。
案の定一回表いきなり先制された。長嶋のツーランが飛び出たのである。
「やっぱり凄い男やな」
鶴岡はそれを憮然とした顔で見ていた。逃した魚は大きかった。
田沢は一回で降板となった。やはり巨人相手には役不足だった。仕方なく二回から三浦清弘を送る。
彼は何とか巨人打線を抑えてくれていた。だがそれも何時までもつかわからない。
「どうしたもんやろな」
鶴岡は顔を顰めさせた。だが巨人の方も悩みがあった。
「藤田の調子をどう思う」
水原はコーチの一人に尋ねた。
「そうですね」
尋ねられたそのコーチはマウンドにいる藤田を見ながら答えた。
「球威がありませんね。それに変化球も」
「そう思うか」
水原はそれを聞き深刻な顔になった。彼も同じことを思っていたのだ。
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