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奇策

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第八章


第八章

「勝敗は野球の常だ。そんなにしょげることはねえ。胸を張りな」
「はい」
 江夏にここまで言えるのは数える程しかいなかった。彼が終世目標にしていた阪神の伝説的エース村山実、南海で彼をストッパーにした野村克也、そして彼を認め完全な信頼を置いたこの大沢だけであった。
「藤本さんも凄かったけれどな」
 かっての阪神の老将もその中に入れた。
「けれどこの三人は特別やな」
 江夏にはそういう思いがあった。
 彼はあくまで村山を追い続けた。その十一番こそが目標だった。
 二〇〇勝を達成した時に彼は言った。
「嬉しいけれどまだ村山さんには及ばんからな」
「村山さんですか」
「そうや。まずはあの人のところに行ってからや」
 彼は自信家であった。だが、その彼も素直に村山は尊敬していた。
「あんな素晴らしいピッチャーはおらんかった」
 江夏は村山に憧れていた。阪神に入って嬉しかったのは村山と同じチームだったからだ。
 村山も江夏を認めた。彼は江夏に言った。
「御前は王をやれ。長嶋はわしがやる」
 彼はあくまで長嶋一人を狙っていた。彼以外の者が長嶋を倒すことは許さなかった。
「敵のバッターを全力で葬る。それがピッチャーや」
 村山はそれをマウンドで語った。ザトペック投法とまで呼ばれた決死の投球で単身巨人にも、長嶋にも立ち向かっていった。
 江夏はその姿に魅せられた。そして彼もまた王に、巨人に立ち向かったのだ。
「わしにピッチャーとしての在り方を教えてくれた人や」
 そんな村山も遂に引退した。江夏はこの時他のピッチャー達と共に村山を騎馬に乗せた。
「行きましょう」
 自分達が組んだ騎馬に乗るよう勧めた。
「悪いな」
 村山は涙ぐんでいた。彼もまたこの幕引きに泣いていた。
「村山、今までようやった!」
「御前のことは絶対に忘れんからな!」
 ファンは口々に自分達の前に来た村山にそう声をかけた。村山はもう感無量だった。
「わしは幸せモンや。こんなに愛してもらって」
「はい」
 村山は泣いていた。いつも野球を、そして阪神を心から愛していた。
「江夏、あとは頼むで」
「わかりました」
 江夏は頷いた。だが彼は南海に放出された。
「これが阪神のお家騒動か」
 これはこの時から有名であった。阪神といえばお家騒動であった。
 かって毎日に多くの主力選手を引き抜かれていた頃からそれはあった。常にフロント内部の醜い権力闘争に選手達が巻き込まれていた。
 選手達の派閥まで作られた。またマスコミもそれに入った。阪神が長い間思うように強くならなかったのはこうした複雑な事情もあったのだ。
 ともあれ南海に来た。彼はそこで監督兼任でキャッチャーを務めていた野村に出会った。
「野球を変えてみる気はあらへんか?」
 野村は江夏のボールを受けて思わせぶりに言った。
「野球をですか!?」
「そうや、革命を起こすんや」
 彼はニヤリ、と笑った。
「ストッパーになるんや。試合の最後を締める男にな」
「最後をですか」
「どうや、やってみるか?」
「少し考えさせて下さい」
 江夏は考えた。そして遂に決心した。
「どや、どないするんや?」
「やらせてもらいます」
「よっしゃ、そう言うと思ったで」
 野村は笑顔で彼を迎えた。それから彼は常にベンチにいた。そして最後になるとマウンドに立った。日本ではじめての本格的なストッパーと言ってよかった。
 彼はあらたな居場所を見つけたと思った。野村は腹の黒い狸かと思っていたら違っていた。実は繊細で心優しい寂しがり屋の男であったのだ。
「あの男は人に理解されにくい奴や」
 当時近鉄の監督をしていた西本幸雄は野村を評してこう言った。
「素直やないし、外見も野暮ったいしな。けれど本当は違うんやな」
 弱小球団を一から鍛え上げ、優勝させてきた男である。それだけにその言葉には重みがあった。
「西本さんがそんなこと言うてますよ」
 ある日記者の一人が野村にそんな話をした。江夏は丁度彼と打ち合わせを終えた直後であった。
「ほう、あの人がか」
 野村はそれを聞くと少し嬉しそうな顔をした。
「またえらくわしを買い被ってくれとるな」
 あえて嫌味を言うがいつもの切れ味はなかった。
「おだてても何も出えへんとだけ伝えてくれ」
 野村はそう言って記者を帰らせた。
「じゃあわしも休憩するか」
 そう言ってベンチの奥に消える彼の背中を見た。
「何か少しウキウキしとるな」
 野村はあまり褒められることがなかった。常に日陰者であった。生まれた時から苦労し、幾ら打ってもサブマリンのプリンス杉浦忠がいたから人気もそれ程なかった。鶴岡一人監督に可愛がられるのもいつも杉浦であった。チームの外では巨人だ。王や長嶋ばかりであった。正当に評価されているとはとても思えなかった。
「わしは所詮月見草や」
 彼は自嘲気味にそう言うのであった。
「パリーグやしな。それもキャッチャーや。誰も見てくれへんわ」
 だが西本は違った。彼は野村を公平に見ていた。
 それはよくわかっていた。だから野村もまた西本を認めていた。だからこそ嬉しかったのだ。
「西本さんの下でやりたいな」
 そう思う時もあった。後に阪神の監督になった時も阪神OBに対しては頑なだったが、西本には違っていた。
「私なぞよりこのチームのことをご存知ですから何かとアドバイスしていただければと思っています」
 あの野村からは考えられない程謙虚な物腰であり言葉だった。
 それは本心からの言葉だった。彼は西本には敬意を忘れなかった。
 江夏もそれは知っていた。彼も西本の下で野球をやりたいと思ったことがある。だがそれは残念なことに適うことはなかった。
「人の巡り合わせっちゅうのはわからんもんや」
 その言葉は皮肉であった。彼は野村と別れることになった。
 野村が南海の監督を解任されたのだ。江夏は今度は広島に来た。
「よりによって阪神の敵チームか」
 そう思っていても受け入れた。それがプロの世界だとこの時にはもうわかっていた。
 甲子園のマウンドに敵として立つのは不思議な気持ちだった。だが彼は沈黙したまま阪神に対して投げた。
「これも人生や」
 広島では高橋慶彦、衣笠祥雄、大野豊等と会った。特に衣笠、大野とは馬が合った。ここで初めての日本一も経験した。プロに入ってはじめて味合う美酒であった。
 だがここも彼の安住の地ではなかった。今度は日本ハムであった。
(ここでこの人に巡り合うたんや)
 そして大沢を見た。彼は豪放磊落ながら細かい気配りもできるさばけた男であった。
「わかったな、おめえはよくやってくれたよ。このシーズンを通してな」
「はい」
 彼は決して江夏を攻めなかった。どの選手も責めたりはしなかった。
 それどころかこう言ったのだ。
「どうだ、工藤のピッチングよかっただろうが」
 彼は工藤を褒め称えたのだった。
「よく投げてくれたぜ。痛そうな顔一つせずにな。緩急もよくつけたし、落ち着いたものだった」
「確かによかったですね」
 記者達もそれは認めた。
 大沢の奇策は失敗に終わった。広岡の奇策は成功した。だが大沢は胸を張っていた。
「負けたのは確かに残念だ。俺が至らなかったせいだ。しかしな」
 彼はここでニヤリと笑った。
「話題づくりにはなったな」
「え、ええ」
 記者達は大沢のこの言葉に驚いた。
「プロ野球は何だ」
 と言われれば答えは決まっている。
「お客さんを楽しませるもの」
 である。大沢はそれがよくわかっていた。
「これでパリーグの野球の面白さが皆にちょっとは知ってもらえたと思うよ。俺はパリーグの宣伝部長になれればそれで満足さ。確かに負けたのは悔しいが」
 ここで邪気のない顔になった。
「お客さんに楽しんでもらえることがまず肝心だ。そして選手がよくやってくれりゃあいい。勝ち負けは常だからな」
 そう言って彼は悠然とその場をあとにした。その背は敗者のそれではなかった。
「相変わらず見事な人だな」
 記者達もその背を見て思わず感嘆の言葉を漏らした。大沢は記者達の心をも掴んでいたのだ。パリーグの野球、パリーグの人間、大沢は常にそう言っていた。そして今でも野球を純粋に愛し、パリーグを暖かい目で見守っているのだ。大沢啓二、彼もまた一代の名将であった。


奇策   完


                  2004・8・18
 
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