Trick or treat?
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女の子と狼の子
前書き
名もなき小さな村に一軒の洋菓子店がありました。この店の若きパティシエのルヴァーナ(16)は兄のアズウェル(18)と共に今日も自然にこの村に甘い香りを届けています。
昔々、あるところに一匹の狼の子供が泣いてました。
「どうして泣いているの?」
女の子は尋ねました。
すると、耳をぴくりとさせ、狼の子供はこちらに恐る恐ると言った調子で振り返ります。
振り返った顔はおぞましく、今にも突き出した口を開けその鋭い牙で噛みつかれそうでしたがその目は真っ赤で、涙をいくつもいくつも流していました。
「この森では狼はもう僕ひとりだけ。でも、みんな……みんな、僕のことをいじめるんだ。みんな、僕なんて嫌いなんだ」
「そんなことはないよ」
女の子は震える狼の子供の頭を撫でてやりました。
女の子は知らなかったのです。
狼と言う生き物の恐ろしさを、ずる賢さを。
けれど、心の優しい女の子はたとえ知っていたとしても声を掛けていたでしょう。
なぜなら、女の子もこの広い世界にただひとりだったのですから。
「ねえ、狼さん。それなら私のおうちに来ませんか?そうすればもう寂しくないよ」
「いいの?」
「はい」
こうして狼さんと女の子はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
秋色も次第に濃くなり、あと何日かでクリスマスキャロルが聞こえてくる十一月下旬、昨日の明け方から群を率いた雨雲が夕暮れの空をグレーに染めていた。
明日は朝から晴れるだろうか、そんな期待を自宅兼洋菓子店を営むルヴァーナは洗濯物を畳みながら微笑んでいた。
秋は日に日に成りを潜め、気がついた頃には虫の声はどこかへ消え失せていた。
ハンガーに掛けたままの男物の白いYシャツの乾き具合を確かめようと手を伸ばせば、微かに残る陽の温かさと仄かな香りが小さな胸をいっぱいにさせる。
「あっ、こんなことをしてる場合じゃなかったんだっけ」
そう言うが早いか、残ったタオルを畳むと戸締りを確認し、忙しなくリビングからカウンターに顔を出してはみるが、目の前に広がる世界は洗濯物を取り込みに行く前と何ら変わらず……いや、余計華やいでいた。
「アズウェル様。私、クッキーを焼いてきたのですが……よろしければ」
「ありがとう、後で食べさせてもらうよ」
小さな紙袋を受け取ると、鼻を近づけ目を細める。
その様はさながら一輪の名の知らない花の香りを楽しんでいるようで、その場にいる一同が胸をときめかすが、当の本人は全くそれに気づいていない様子で上品に微笑む。
「これは…シナモンだね」
「はっはい!妹さんには敵いませんが、以前お好きだと伺ったものですから」
「僕が言ったそんな些細なことを覚えていてくれるなんて……嬉しいよ」
黄色い歓声とその裏で早くも嫉妬の炎が燃え滾っていることを知らないのは、この村では口角を上げて笑う彼しかいないだろう。
店の紙袋を大事そうに両腕で抱く彼女たちを見ていると憎らしくもあり、また嬉しくもある何とも複雑な気持ちが綯い交ぜとなって、目の前の自分とは違う癖の無いまっすぐな美しい髪に向かっていた。
「……こほんっ。そろそろ私がいることに気づいてくれない?」
「ミレイザっ!?」
聞き覚えのある声がする方を見ると、カウンターの直ぐ横で呆れた様子でこちらを見ているお腹の大きい女性が一人いた。
「やっと気づいてくれた?」
「もうっ!言ってくれればいいのにっ」
「あら、言ってもいいのかしら?」
「っ!?……いじわるっ」
頬を膨らませると彼女はふふっと、いかにも貴婦人のように笑う。
「それで今日は何をお求めでしょうか、マダム?」
「ふふっ……そうね。では、いつものとこちらの秋季限定のモンブランロールを頂こうかしら」
「かしこまりました……って太るよ?」
「まっ、失礼ね。いいのよ、妊娠中はここのお菓子しか食べないことにしているし医者に「もっと栄養を摂りなさい」って言われてるし。それに元々太りにくい体質ですもの。このくらいなんてことは無いわ」
「はいはい、解りましたよ。ラムレーズンクリームとモンブランロールね」
常連客のみしか知られていないカウンターの奥の棚には何種類ものジャムやクリームがある。
ミレイザとは両親の生前からの付き合いで、その頃から何かと気に掛けてくれる。
しっかり者の彼女と泣き虫の自分は傍から見れば仲の良い姉妹のようだと、言われているのが当時は嫌だった
だが、今はそれさえも良い思い出だと受け止められる。
木製の台をギシギシ言わせて手を伸ばすその先に、きれいな指が目的の小瓶を掴み持って行ってしまう。
こんな鮮やかなことをやるのは一人しかいない。
「お兄ちゃんっ!」
「危ない!」
勢いよく振り返ろうとして足元の台がそれに追いついて行けず、バランスを崩したそれはミレイザが短く叫ぶ前に一度バウンドしてから床に力無げに倒れた。
「まったく……いつも僕に頼って欲しいって言ってるだろ。ルヴァーナ」
耳元を掠める声は笑っているように聞こえる。
恐る恐る顔を上げると、こちらを心配そうに見下ろしている黒い瞳と目が合った。
カウンターに振り向いた状態でバランスを崩した彼女を半ば、抱き上げるように腰に片腕を回している仕草には全くいやらしさを覚えない。
「ごめんなさい…」
解れば宜しいと、満足げに微笑み、そっと床に下ろしてくれた。
いつまでアズウェルは自身のことを『兄』と呼ばせてくれるのだろうか。
早くに両親を亡くした自分に残されたのは、先祖代々営んできたお菓子屋兼自宅だけだった。
小さい頃からよく店の手伝いをしていたのでレシピは何となく体に染み付いていたが、しばらくボーっと過ごしていたある日、村の近くにある森の中の花畑で一人の少年が泣いていたのだ。
『どうして泣いているの?』
声を掛けるのに躊躇いはなかった。
一瞬びくっと強張ったが、恐る恐る顔を上げた彼にドキリとした。
涙をいっぱいにしてこちらを見る少年は、今のルヴァーナと同じくこれからどうすればいいのか不安で支配されていた。
同い年か、二つ三つ上くらいの彼は村の誰とも違う何かを纏っているような気がした。
『この森にはもう僕一人だけになっちゃたんだ』
『じゃあ、私と一緒に来ませんか?そうしたらもう寂しくないよ』
『いいの?』
『はい』
………………今思い出しても自分はなんて大胆なことをしてしまったのだろうと後悔している。
(あれではまるでプロポーズでしょ!)
妹が初めて出会った時のことを思い出しているなんて微塵も気づいていないであろうアズウェルは器用にオーダーの商品を別々に包み、紙袋を大事そうに片腕に抱くと呼び鈴のついた店のドアを開けてこちらに振り向いた。
「送っていくよ。大事な体だからね、小さな荷物でもどこでどうなるか解らないし」
ドアを開けたことにより、夕暮れで更に冴え冴えとした風が青年の黒髪と亜麻色の緩くウェーブの掛かった少女の髪が靡いた。
その様は一枚の絵画のようで、見ているこちらは何故だがいつも置いていかれた気分になる。
いつか二人に並んでみたいなんて夢を見る歳はとっくに過ぎているし、端から張り合おうとは思ってはいない。
それなのに寂しいなんて、自分はいつになったら甘えた気分が抜けるのだろうと、こんな時まざまざと思い知らされる。
不意に顔を上げるとアズウェルと目が合い、ドキリとして思わず顔が熱くなる。
いけないと解っていながらも、その視線からは逃れられずに余計に心拍数が上がり、堪らず俯いてしまうのが習慣になってしまっていった。
彼はどう受け取ったのかくすりと笑い、ミレイザは年頃の少女らしくニヤニヤと笑っているのを当の本人はまたバカにしてと、しか考えが回らないでいる。
「あら、ありがとう。でも、今日はいいわ。ちょうどいい荷物持ちがいるの」
入ってと、軽やかに言う彼女とは違い、随分と気だるそうな少年がアズウェルの横を素通りしてその隣に立ち止まる。
「義姉さん、遅すぎ」
「ちょうどいいわ。ウチの旦那の末の弟でコンラッドって言うの。普段は森の中の小屋に住んでいるんだけど、私がこんなお腹でしょ?だから、この間から家に来て貰ってるのよ」
仲良くしてやってねと、一向に不機嫌そうに突っ立ったままの彼の頭を圧して下ろさせる姿はさながら歳の離れた弟を持つ姉のようだ。
ミレイザは猟師を生業としている家の娘だが昔から血生臭いものが大嫌いで、小さい頃は良くあんな家なんて出たいと、言っていたのを良く覚えている。
彼女を含め子供は七人いるがそのどれもが娘で、一向に跡継ぎが産まれない事で家庭は崩壊状態だったが長女であるミレイザが腕利きの猟師と結婚したことで少しずつ治まりつつある。
当時はあんなに嫌っていた彼女がそれで生きている男と結婚することが小さな村には一日足らずで広まり、翌日には誰もがその話しで盛り上がっていた。
家庭が家庭なだけ外見も精神面も大人びいているが年齢はまだまだ遊びたい盛りの十六歳だ、式を挙げる前にこっそり聞いてみた事があった。
「だって、可愛いんですもの。年上なのに全然偉ぶらないし、私のことを「ミレイザさん」って呼ぶし、自分のことを「僕」って言うのよ。猟師の癖に無闇に殺すのは嫌だとか熊とか自分より大きい獲物を殺すくせに虫が死ぬほど嫌いとか……ともかく、私はそんな彼の弱さを知ってしまったのよ」
ぽおっと頬に差した赤は普段大人びた彼女を一瞬で変えた。
これまでのミレイザを知っているだけに幸せになってほしい、それは式から何ヶ月経った今でも変わらない願いだ。
カウンター内から出て、お得意なポーカーフェイスを崩さない兄の隣に立ってみる。
仕事中のためヒールの高い靴を履いてはいないが身長は自分くらいのように思えた。
少し青みがかった黒髪は彼とは違い、肩までで切り揃えられてある。
幼くてもやはりと言うべきか、目つきは鋭いがそれを気にしなければ結構な顔立ちだ、娘たちが放って置くわけがない。
露骨に凝視してしまったためか何が無しに気づいたのか、何かに弾かれたように向けられた瞳には年若いコンラッドには不相応な鋭さがあった。
咄嗟に思わずアズウェルの後ろに隠れてしまう動作は二人にある記憶を思い起こさせ、ある者は少年の頭を小突き、またある者は幼子をあやすかのように優しくルヴァーナの頭を撫でるその視線は慈愛に満ちていた。
「これっ!アンタはタダでさえ目つきがキツいんだから少しは自重しなさいよ。ごめんなさいね、ウチの旦那とは違って無愛想で」
「ううん…、私こそじろじろ見ちゃってごめんなさい。えっ…と、コンラッド君……だけ?気分悪かったよね。本当にごめんなさい」
恐る恐ると言った調子で自分と同じ身長の少年を再度見る。
「……別に」
何故かその大きな目を反らされた彼女はあちゃーと心の中で呟いた。
相手があまりにも美少年だったからと言うこともあるが、他人であろうとそうでなかろうとじいっと相手を観察してしまうのが悪い癖だと良く言われていたのを後になってから思い出すなんて今の自分から脱皮するのにはまだまだ道は険しそうだ。
第一印象を最悪にしてしまった、そのショックが強すぎてその後何を話したのかはあまり覚えてはいない。
ただ、あの一言を発してくれた以降、まだあどけなさの残るハスキーヴォイスが耳を掠めることは無かった。
「はーっ……やっちゃったな。…私ってどうしてこうなんだろ」
その日の夜、伝票の整理と戸締りを確認してから自室のベッドにぼふっと少し乱暴な音を立てて横になる。
室内には幼い頃のままぬいぐるみが二十匹以上所々に設置されており、まるでルヴァーナの帰りを待っていてくれているようでこの歳になってもずっと捨てられずにいる。
「……やっぱり、嫌われちゃったかな?今度会ったらちゃんと謝らなくちゃ…」
ベッドに横になって数分もしない内に瞼が重くなってくる。
今日もいろいろあった、洋菓子屋の娘に産まれた所為か、早寝早起きが何となく癖になってしまっている。
大体の仕込みは夕食後に済ませておいた。
アズウェルは地下室に行って来ると言ってたなと思い出しながら眠りに落ちていった。
残された部屋には赤々と灯った蝋燭が困り果てて透明な涙を次から次へと零してゆく。
彼女が寝息を立て始めた頃、ドアが静かに開けられた。
それを確認するとやれやれと言った調子でルヴァーナの聖域に踏み込んできた侵入者は微笑んだ。
蝋で溢れるそれを見兼ねて長身の体を折り曲げて、その艶かしい唇でそっと吹き消す。
ようやく己も眠りに就けると安心した火は白い煙となり、暗闇の部屋の中に溶けていった。
ベッドの傍にある厚いカーテンで覆われた窓の外には美しい満月が地上を冷たい光で照らしている。
小さな体を温かい布団の中に寝かすと暫しの間影は一つになり、そして進入してきた時と同じく静かにドアを開けて廊下の方へと消えて行った。
願わくは覚めない夢を愛しい君へ…。
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