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カナリア三浪

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カナリア三浪

 彼女、大事な日を一緒に過ごさないと言った。小さな雪のカケラが風に吹かれて転がってゆく。それは次第に大きくなって、人の目を引くほどになったところで止まる。それ以上大きくなってはいけない。それは自分の意識を守るためにブレーキをかけて止められたのだろうか? 何故この雪玉が出来たのか知る人はいない。自身でも分らないのだから。心のままに生きてゆくのはとても危険。それは権力の無い無邪気な子供にだけ許されることだ。わかってる。大事な日を一緒に過ごさないと言った。胸の奥から温かい空気が漏れ出てしまう。体から輪郭を持った魂が持っていかれる。俺がずれる。
冷える空気は頬の感覚を麻痺させる。鼻から冷たい液が垂れているような気がした。この街の冬は俺に根性を与える。

 空気も切れそなこの目力は
 お前などは関係ない
 キレてもキレても意味がない
 クラクション鳴らすこの市内
 なんだか腹が立ってない?

 夏の思い出 消えるほど
 この冬の深さよ
 高地で過ごすランナーの魂
 吸い取られた血液が
 戻って来るとき
 世界を凌駕

「足ネェ」と、すれ違った男が言う。若い三人。このデニムは股上が深くて、腰で履くと足が一割短く見える。眠りにつく前、腿に手を挟んで感じる。足が体の三分の一位しかないのではないか。若い男の影、薄暮の街で遠ざかる。その長身を一つ、魂の拠りどころとして敵を撥ねる。身長はある程度の大きさを越えたら意味を持たなくなると思っている。六尺では足らないだろうか? 
 ゆるやかにスカイラインが通り過ぎる。その赤い、丸いテールランプが威圧感を与える。その男、額に垂れる髪の毛を指先でなでてとろけるような視線だった。男、その車を降りても強いだろうか? 角を曲がって向かい風。曲がる前も向かってなかったか。誰のいたずらこの街風。何故か台風は日本を通る。

階段を上がり「おはようございます」と声を張る。控え室にまっすぐ進む。「あれ? 今日は用事ないの?」とバーテンのテツさんが声をかけてきた。「フラレたんですよ」と唇だけで笑った。スノーシューズを脱いで上がるこの部屋のカーペットは黒いシミで汚れている。いくらフロアが綺麗でも、裏がこれなら色気を失うぜ。人間みたいにさ。俺はダウンとタートルネックを脱いで、タンクトップ姿を鏡に映す。肩の筋肉が程よく盛り上がっている。確認しなければ気が済まない。男はイチモツの大きさを日々気にしてしまうからね。白いシャツに黒いベスト、黒のスラックスに黒の革靴。蝶ネクタイを締めてフロアに向かう。

「今日はイブなので、お客さん結構来ると思うよ」店長がミーティングを始めた。「シャンパン出るよ」笑う店長の瞳が片方、良くない。昔、怪我をして弱視になったらしい。各自の年末の行方を聞きながら、マネージャーがシフトを組んでゆく。傍から見ればなんと言うこともないミーティング。しかし、そこには血が通う。人の顔があり、湿り気を持った声があり、若干の金の匂いがする。そこにあるのものが間違いでも、肉体の持つ迫力は、それを否定するものを押し黙らせる。俺が歌を歌い始めて気づいたことだ。年末、実家に帰ると言ったアイちゃん。風俗嬢である。
「シャンパン、倉庫に山積み」テツさんがニコニコしている。「開店準備」その声で、皆 掃除を始める。
「花瓶、磨いて」とダスターを放られた。それは俺の手元でひらりと開き、左手の指で摘み取られる。俺、才能ある。何の? 知らん。坊主頭のウドの大木が掃除機をかけている。この男、開店から閉店までフロアに棒立ちである。格闘技を志していたとか。ひどく頭をやられたてそうなった、ないしはもともと鈍い頭に誰かが毒を盛るようにそれを勧めたのか。この男の鈍さなら『羊のアレは人間より気持ちいいらしいぜ』を真に受けそうだ。
 花屋が来た。盛りに盛った花を抱えた、これは感じやすい男だ。細い顎と繊細な眉がそれを物語っている。花の美しさ、俺 知らない。この世の中で花の本当の美しさを知るものがどれだけいるか。浅い感性で、知識を振りまく連中はこの世界の空を低くする。俺は小説を読まない。どうしても彼らは天井を設けてしまう。歌うたいもそうだが、誰が一番高い天井を張るか競っているみたいでさ。息苦しいじゃないか、人の造った空なんて。『美しさ』それを知るのはラッキーだ。複雑な迷路をたどって意識の芯に差し込もうとするその光は、たいてい人間の心の闇に絡め取られて消えてしまう。花屋は俺が磨いた花瓶から、軽くしずくを拭いて帰っていった。俺が『美しさ』について考えていることも知らずに。
カウンターのスツールを磨く。端から一つ一つ。三つ目で想いを入れる。おっちゃんの席だ。「端っこに座ったら、霊感の強い人間だと思われちまうじゃないか。でも、真ん中に座ったらふてぶてしいだろ? 端っこに座りたい女の子来たらどうする? 隣の席に座るか? 一個空けてお互いの領海を侵さないようにするのよ」それでおっちゃんは端から三つ目のスツールにこだわる。この店の常連。たまに深い話をする。
 カウンターの傷跡、あまた。残念と思う。これじゃ魔法にかからないだろう。美しい酒と美しい空気。それを突き詰めなきゃエンターテイメントではないではないか。そう思うのは俺がまだ若いからか。店長はこの傷を微笑ましく思うかもしれない。仲のいい夫婦みたいだろうな、この店と店長。
 店の裏で氷を割る。アイスピックの尻で叩き割って砕く。バケツに入ったそれを手洗いに持ってゆき、男子の便器に盛る。におい対策ね。教えてもらった時うれしかった。行き届く喜び。それがなきゃね。脳裏に陰毛の整えられた女が浮かんだ。あれは良かった。
 午後五時、温かい色の行灯を出す。オレンジ色のそれに刻まれた店名は、ほとんどの人に浅く刻まれる。オーナーが好きな南米の街の名前だそうだ。『こだわり』見られないから心の奥に密やかに灯る火。遠くからではその匂いは分らない。この行灯はたまに見るなら温かい。オーナーのこだわりは客の傍らを通り過ぎてゆくかも。冷えた俺が、その冷えた行灯を灯す。

「ねぇ、サブちゃん。火ぃつけてよ」

 まだ汚れていない手で
 君と手をつないで
 この街を歩きたい♪

 俺は笑っている。ふいごみたいに、太い息を吐きながら。縄跳びをしているようだ。
「キレイごと歌うな」おっちゃんが言った。「汚い奴らはキレイごと言う。自分が汚れているからキレイな物に心奪われちまうの」そう言うおっちゃんの顔の上で醜さと美しさが戦っていた。最終的にはどちらが勝つのだろう。
 俺の顔には笑顔が残り、胸の奥には澱みが生み出す引力を感じる。とても綺麗な声で鳴き、そのあと訪れる羞恥心。いっとき空を飛んで、地に落ちる。縄跳びである。
 大学にいた時の、一番印象に残っている言葉がある。「世の中の幸福の量は決まっている」もし本当のことなら、俺が自分の声に喜びを感じている限り、客は喜びを感じられないのではないか。俺は自分の声に幾分惚れすぎている。この鳥の鳴くような声に優越感を拭えない。優越感はいつも俺を空に舞い上げる。まるで妄想で跳ぶハイジャンプのように心地よい。そして同時に羞恥心をあおった。寒くて可笑しい。震えながら笑う俺は醜い。何故笑えるのか俺は知らない。
「跳び上がれば、いつか堕ちなきゃならないだろう」
「打ち上げ花火に過ぎないんだよ」
「気をつけなきゃ足元をすくわれるぜ」まとわりつくいい訳のような言葉たち。俺はおっちゃんに話を振った。
「世の中の幸福の量は決まっているらしいですよ」
「じゃぁ、幸福の量は増えたと思うよ」おっちゃんは言う。「俺が生きてる限りな」
「それ、どういう意味ですか?」
「俺がたっぷり不幸を吸い込んだからさ」
 グラスを磨きながら女に目をくれると、連れの男と戯れている。
「カナリアって呼ばれてたんだよね?」
 うれしそうに言う彼女はライブハウス通いが好きな女で、そこで俺のことを知った。今日の彼女はドレッシーな格好で谷間があらわである。隣の男は頭の形を露にした短髪。血色の良い手で、何故か女の腰に手を回している。彼の理性は鋼みたいに硬いのかも知れない。強い欲には強い理性が必要だ。男として負けたくないから、いくつもの魂が入れ替わり立ち代り胸を突き破らんとしてドギマギした。俺は眉間から記憶をふわっと出して、体にまとわりつかせる。それによって守られた事あまた。そして「こんな男はイケスカねぇ」と思い直し地上に落ちる。また縄跳びである。記憶。いい女を抱いた記憶である。そこには神様の木の実を戴いたおっぱいがあった。
「これからパーティーなの」女が言う。「パーティーッ!」
 俺は磨いたグラスをオレンジ色のライトにかざす。透明なグラスが光を曲げて美麗なシルエットを映し出す。理想だ。光を集めた体で美しい紋様の歌を奏でる。
「シャンパンはいかがですか?」とバーテンのテツさん。
「ウィスキーでいい」とおっちゃん。「兄ちゃんは酒、作れるようになったか」と俺に振る。
「水割りだけなら」と俺。若いバーテンの教育係、ちょっとひねている。この店に入りたての頃、シェイカーを振らせてもらった。見よう見まねでシェイカーを振ると、出てきたカクテルはみぞれみたいになってた。「何でかわかる?」と言われて、ぼんやり考えた。「わかるまで酒、教えないよ」その態度にはバーテンごとき、という劣等感と 先人のいささかのプライド。追い越されまいとするいじましさを感じる。俺、すぐ気づいた。シェイカーはきちんと上まで氷を入れなければ、シェイクしたとき氷が激しく打ち付けられ、砕けてかき氷みたいなカクテルになってしまうのだ。気づいたが言わなかった。ずっとグラスを洗っていよう。
「団体さん来るよ」店長が電話を切って言う。「十四人、ビップ」

店長 脳みそ パラボラアンテナ
どれだけ人を集められるでしょう
この店があなたの汚れを吸い取るまで
誰かが造った愛をあげましょう

 団体さんは若かった。その笑顔にスカしたところが見えなかったから、気心の知れた仲間なのだろう。「一人、一本!」とシャンパンを注文した。店長は喜ぶだろうな。
 笑い話はセックスみたいなもんだ。声を潜めてクライマックスの爆発まで我慢しなきゃならない。今夜の客は少しせっかちだ。
 客席からのお酒を求める声は、俺をすり抜けてゆき、若いバーテンと、ベテランのテツさんに届く。俺も責任を感じないわけではないから、グラス磨きに没頭しながらも心が動く。「いい、いい、気持ちいい!」と叫ぶ人々。幸福を感じ取る心の枝葉が発達している。その一方で、俺みたいな創造性を失っているか。流れたくない。馬鹿騒ぎしたくない。俺も失われてしまうから。脳天より撃ち出される悦楽の花火よ、神様に届いたら、そのため息で消し飛ばされるかも。自分の中にいつも畏怖があるのを感じる。同時に破廉恥なほど騒いでも失われない、太い幸運の光の柱が天までつながっていることを望む。
 時はざわめきの中で浪費され、神様は彼らに毛布をかける。次第に静まる。まどろむような深い声で、無意識から言葉を発する人々よ。本人の記憶に残らないそれは外野席に刻まれる。
「俺のいない間に何燃やしたの?」

 俺のいない間 あなた何燃やしたの?

 歌のフレーズになる。
女はもう帰ってしまった。店が静かな色気を醸し出しているのが好きなようだ。カウンターの前のボックス席にオーナーが腰を下ろしていた。両脇に女をはべらせている。その女は、一階のキャバクラ嬢らしい。店長が棒立ちの坊主頭に指を指す。彼は換えの灰皿を持って、奥のビップ席に行った。「カルーアミルク」と、女の声がした。坊主頭が注文を知らせにきた。その位は出来るんだな。灰皿には誰かの名刺が燃え残っていた。
「にいちゃん。酒作れるか?」オーナーが俺に注文した。
「水割りですか?」と問えば手招きをする。
 俺はカウンターの端っこにある戸口を、ものすごく狭く、カウンターをくぐるような戸口を出る。これはフロアで問題が起こった時、彼らがこちらに入ってこないようになっているらしい。
「濃い目に作ってくれ」
 一杯目を飲み終えたグラスに氷を足して、ウィスキーを注ぐ。グラス半分。そして水で割り、マドラーを差し込み指の間で回す。滴がたれないように、マドラーをグラスにそってゆっくり持ち上げる。出来上がった水割りのグラスの下の方を持って差し出す。無心である。
「出来るじゃないか」
「マティーニ」
「テキーラサンライズ」
 注文表を出す。後ろを振り返ると、テツさんが「いいよ」と言う。オーナーだから会計は無いのだ。裏に帰りまたグラスを磨きはじめる。
 同性からうとんじられるその引力は、社会の裏側をかじりながら歳を重ねることで、一層力を増す。この子らはまだはじけるように若いから、緊張感が無くしなだれかかっているが、数年もすればいっちょ前の女になるのだろう。そんな引力を持った女と遊びつくして、オーナーの顔は黒くなりつつある。ふと思う。この男に降っているのは幸運ではなく、不運の雨なのではないだろうか。俺が雨の中で創作するように、雨にうたれながら優しさを搾り出し、これらの女を惹き付けているのではないか。その雨は無意識の扉を叩き、理屈がたどり着くより早く唇から、指先から愛を奏でる。そう考えた後で「これは心の隙だ」と思い直した。あらゆる事を肯定すると魔が入る。この男の背後にある黒い力をぼんやり想像した。距離を取る。

「お前は世界を汚してるぞ!」
「秘密なんてもう無いからな!」
「アイドルとヤるぞー!」
団体さんが帰る。これは歌にならない。
「この洗い物 済んだら休憩入って」
 グラスを洗剤で洗い、湯に漬けて裏に引っ込んだ。グラスを湯に漬けると引き上げた後乾きが早い。今日のまかないはウニパスタだった。一階のキャバクラの厨房が二階のバーの厨房を兼務している。飯が美味い。彼らの腕は良いらしいが顔は見た事が無い。愛は味で伝わる。

 今年の冬は寒いので
 買ってきた電機カーペットの上で
 猫みたいに丸まってます
 太ももに手を挟むと
 少し太ったみたいです

 彼女からのメールだった。かわいい。ほくそ笑みながら、この寒い冬にウニがあるのが不思議に思う。冬でもウニが食べたいからって、客に尽くさなくてもいいのではないか。今ここに無いものを求めるから経済は活発に回るのではないか。いつでも手に入るものなら、前頭葉が萎えちまう。一冬ウニから離れても、ウニを忘れる奴はいないだろう。でも、この冬のウニ、美味だね。意識の端っこでウニ問屋が俺を見つめて微笑んでいる。この寒い夜にノーセックス。いっぱいいるだろうな。腹の奥がアツい。彼女は地味な女だけれど、抱きしめるとスポンジみたいに色気が染み出す。この前抱いた記憶は、まだ溶け残っているようだ。
ああ、彼女が大事な日を一緒に過ごさないのは、自分が絶対的な存在になっちまって、馴れ合いになるのが嫌なんだな。いつもピンとしたシャツみたいに、シャキッとしていたいんだな。オーナーの連れている女のゆるみ方を見てそう思った。アレした後に体を洗わないのは俺も趣味じゃない。彼女は体を洗うのに少し時間がかかるだけだ。

 幸せにあこがれているけど
 そのあこがれの
 すがたかたちが
 うまく見えないのです

 詩的な返事を打って、休憩が終わった。でくのぼうが部屋に入ってきた。
「氷割っといてくれ」と頼むと。
「いいッスよ」と軽く返事した。
軽い返事と軽い脳みそ。俺の胸は穏やかになる。「幸せの姿、形が見えないのです」か。彼女、いい具合に痛むだろうか?

「さっきの女の人、タイプなんですか?」と訊く俺に、「いやぁ、俺の恋心なんてさ」と笑うテツさんの頬に幾筋かのしわがよっている。顎を引きながら酒を作るテツさんは、何度も叩かれたイジメられっ子みたいに見える。俺にその女の事を聞いてくるのだ。オナニーが我慢できない中学生みたいに女の胸の谷間が忘れられないのだろう。良くあることだ。

 当たり前のジントニックを
 彼女が口をつけて飲んだら
 それは別の飲み物に変わった
 素敵な魔法をかけるのは
 僕の方だったのに

「これ、良い詩だろ?」テツさんが詠った。
「いいですね」
 テツさんが酒を注ぐ音が色気を増した店内で小さく響く。酒の瓶は何故こんな良い音を鳴らすのだろう。息を吐きながら喉でゆっくり震わす。酒瓶とシンクロ。店はアルコールで程よく染まり、たまに破裂する笑い声のほかは、柔らかい和音で満たされている。
「夢があるから希望が持てる、頑張れる。それだけじゃないだろ?」おっちゃんが若いバーテンに食ってかかっている。「たいていの奴は金を求めて穴を掘る。上に行くには金が必要だって。お前の言うこともわかるよ。金の稼ぎ方だろ? でも、一見綺麗な金でも、社会に交われば必ず黒くなるんだぞ。遠く、遠くを見れば完璧に綺麗な金なんて存在しないんだから。綺麗な金ってのは、汚れを恐れる臆病者の話だ。何せ金って物には黒い人間のネバネバした欲が絡みついているから。人間の美しさだって金になるんだからしょうもない」若いバーテンはじっと聴いていた。眼差しの奥には、若者らしい正義心の産む澱みをたたえている。「ある奴は目標も無く穴を掘り続ける。そういうボクサーがいたよ。そいつなんて言ったと思う? 『早く自分になりたかったんですよね』そう言った。周りの皆は自分を飾る方に穴を掘ったのに、そいつは自分自身になるために穴を掘ったんだよ。お前どっちだ?」
「どっちでもないですね」若いバーテンは答えを持ち合わせていないようだった。夢はあったけど消えた方だろな。誰にも言わないナイーブな夢が、お花畑みたいに広がっていたのかも。
「そいつどうなったと思う? そいつは最終的に信頼を勝ち取ったんだよ。そいつの稼ぐ金にいちゃもんをつけるやつは誰もいなかったな。飾りたてるんじゃなく、削ったんだ」
「夢、あったんですか?」と俺は話を向ける。
「夢が終わった瞬間体が粟立ったよ」
「夢、見たんですね」
「ああ、見たよ。俺の言葉がこの脳内から漏れ出たとたん、千変万化して世の中を変えちまうような夢だ。それは固い夢だったからさ。心がうきうきするような夢は、傘に守られている子供のもんだから。俺の夢は大人の夢だから。そいつは俺の姿を随分変えちまった」ロックのウィスキーをなめたおっちゃんの顔が白んでいる。後ろを振り返って付け足した。「夢を見るって事は、ハラワタをさらせって事だ」ボックス席にはもうオーナーはいなかった。時計を見ると、もうじきクリスマスだった。

 女を抱けるようになってから、彼女たちのアラを柔らかく許せるようになっていた。それは真っ当な性欲が壁を突き破ったから。その向こうには寛容がある。
会計に向かう男の後を歩く女の背中から滲む経験の匂いが、何故か気になった。俺の寛容も単なる鎧かと思う。ふわりと童貞の心持がした。いや、このあいだ抱いたばっかりだ。体の髄から感じやすい『プルプル』がはみ出しているような感触。俺の縄跳びの訳がここにもやってくるか。
 自分を出せば出すほど、裏返って羞恥を誘う。恥じらいは、はじめ体を縮めるようにあり、その後大胆を要求して射精のような震えを起こし、最終的には俺の心を麻痺させる。それは新鮮な魂の息吹を駄目にしちまう。俺はまだ若いから、コツコツやれば新鮮な魂を集めることが出来る。そいつは恥じらいと上手く混じり合い、弾けるようなエナジーをあふれさせる。でもやはりそれは三杯目のビールみたいに味を失う。恥じらいと麻痺の追いかけっこである。
 『プルプル』は昔からあった。それを楽しんでいた。それはステージに立つときには『他人と違う感性』を、俺に与えてくれていた。全然苦じゃなかった。感じやすいことで俺は客と同じ目線に立ち、彼らの心を塞ぐ毛布を吹き飛ばすことが出来た。俺、偉い。でも、全然 偉ぶっていない。誇りだったのだ。それが、今 感じる『プルプル』は、何故か俺を殺してしまう。

 午前二時に店が閉まり、倉庫の中から店長のお気に入りのシャンパンが2ダースほどなくなって、洗い物が客の記憶をなくする。坊主頭は、トイレを掃除しに行き、マネージャーは金の勘定を始める。店が閉まっても、そこにある空気は変わらない。俺たちは裏から出てきて、裏の空気を撒き散らしている。しかしながら客はそれに気づかず美味しい酒を飲んだのかな。天に舞い上がるような笑い声を、今夜も遠くから眺めた。それは何も今夜のことだけじゃなく、世界のありとあらゆるもの。心の外にあるものを心の内に映したら何せ自分の色になっちまうから。キーボードみたいに『I』を打ち込んだらそのまま伝わるなんてこと、人間には無いんだからさ。透明に見えるグラスだって、光を曲げて己を飾る。俺は客の打ち上げ花火を見ている。それを創作に織り込む。

 息子は田舎のヤリチンで 東京に行った
 娘は間違った男と寝て 誰かの因縁をかった

 息子は大きな街で涙を流している
 娘は大きな人が好きだと言った

 息子は自分より悲しい男を見つけた
 娘は考えることを止めてしまった

 私の人生はゆっくりと その歩みを遅くして
 薄闇が柔らかくまとわりついている

 今日の収穫である。耳を叩いた言葉たち、静けさの中で顕になる。
「今日はこれで失礼します」
「サブちゃん、歩いて帰るの?」
「人 待たせてます」
「女 いるじゃん」
「明日休みなの?」
 俺は、午前三時のマクドナルドに向かった。新しいボーカルに会いに行く。

 首の太い男だった。顔の大きさとそれのバランスが良い。
「『遠いさよなら』って神様への歌ですよね。あれ、好きなんです。歌わなくなった理由、聞きました。捧げたんですよね。自分のふがいなさとプライドを…神に届いて欲しい思いで。最後のライブその歌でしめたんですよね」
「午前三時に悪いね」と言って、俺は少し黙った。誰がそんなことを吹聴したのだろう? この男は肌がスベスベしていて柔らかく、表情筋もうまい具合に発達している。モテる。『その歌』は一回だけ寝た、極上の女にしたためたものだ。
「夢、あるか?」と話を向けた。
「精一杯ですね。今」
「今の状態?」
「精一杯です。夢を語る余裕なんてないです」
「ステージに立つことは、もう誰かの夢なんだけどな。こんな自分でもここまで来れるんだから、みんなも諦めるなよ! みたいな心ないの?」
「ないですよ、多分。僕の来た道は、どこまで行っても僕の色しかないですからね」
 しばらく黙っていた。「夢を見る事は、ハラワタをさらせって事だ」と、おっちゃんの言葉を借りてちょっと上に立ちたかったのだが、こいつは優等生だった。
 歌いはじめた理由を訊いた。合唱コンクールだそうだ。馴染まないハスキーな声が、自分一人だけ浮いているのを感じて、ひどく気落ちした後、むくむくと反発心が胸を叩いたらしい。今は国立大学の軽音サークルにいる。俺はハスキーな声を聴くと、どうしても声の幅が気になり、その幅の一番高いところに音程をとってしまうんだと言った。それは耳が高い音に特別反応しやすいのではないかと言うから、また優等生である。
「俺、精通に似ていると思ったんだよね」
「セイツウ?」
「白いのが出る奴だよ…。高校のとき、初めて友達とカラオケ行って、上手く音程が取れなくって、どんどんキーが高くなるんだ。それを聴いてみんな笑ってたけど、高くなるにつれて声がピンとハリを持ち始めてさ」そこまで言って、その過去に慢心がないか探った。「女性アーティストの高い声が出るのがうれしかったかな。それは、歌じゃなくて歓喜の声だったよね。出ちゃうよね、中身がね」
「何でサブローなんですか?」
「三浪したからだよ」俺は、君のいる大学に入りたかったんだよ。話そらすね。
「なぁ、いつの時代の歌が一番心にくる?」
 AORだと彼は即答した。俺はその時代のことあまり知らない。彼もあまり知らないと言う。体に馴染むメロディーが好きで、それをまねる時、自分じゃなくなる、ないしは誰かになったとき歌いたくなるらしい。
「歌って、旅だと思うんですよね。歌うほど思うんですけど、リアルに過去が過去になるんですよ。誰かとつながりたいと思って歌うんですけど、結局その後すべてが切れるような気がするんです。別人になってしまった後で、どうやって元の自分に戻れっていうのか、分らないんですよね。歌う度に新しい事を考えて、意味のあった過去が新しい今の目線で見ると違ったものに見えるんですよ。過去にあった事を分って欲しくて歌うのに、終わったらなんでもなくなる。過去って、自分を表すのに意味があると思うんですけど、歌うとズンズンそれが遠ざかって、なんともない風な顔で自分を見ているんですよ」
「歌で洗い流せるから歌うの?」
「無意識で怖いのかもしれないですけど、過去…」
 俺の『遠いさよなら』は経験の塊だ。この男は違うのか。俺は経験に強く惹きつけられ過ぎる。しかしながら、ある飽和点を超えたら、湯水のように心があふれ出すような気もしている。
「それって、過去より歌っている今の方が比重、大きいってこと?」
「いや、過去って人とのつながりであるものじゃないですか。歌うってそのつながりを変えるっていうか、正すっていうか―」
「それって、最終的にカリスマになるってこと?」
「カリスマ?」
「自分の歌で世界変えるのだろ?」

「兄貴、俺 潔癖症だからコンドーさん心配っスよ。オタマジャクシがコンドーさんの分子の間かきわけるんじゃないかって」
「そりゃ、すげぇパワーだな。何しろあのトロっとしたものから人間生まれる時代だからな」ついたての向こうで笑い声がはじけたから、店の空気がひどく若くなった。

「ドラム、馬鹿だからね。ベース、人当たりがいいよ。ギター、無干渉だね」
「あの詩は書けねぇって、言ってましたよ」
「俺の?」
「人が触れたがらないこと書いてるからって」
 しばらく黙っていた。俺の詩をほめる奴、誰だ。俺たちは一緒にいた時はお互いをほめあうことはなかった。けなすこともなかった。俺たちの上には大きな太陽があった。それが『宝くじにはどうせ恵まれないよ』という様な諦めと、でも目の前の階段を昇ったらどこかにたどり着ける、そんな大いなるロマンを与えてくれていたから。
「それで話なんですけど」彼は鞄の中から紙を出して言う。「この詩をですね、歌にしてもらいたいんですよね」
「あいつら、俺の存在が入ってくるの嫌がるだろう?」
「それは、僕が押しますから」
 俺はじっと、プリントアウトされた紙を見ていた。実は俺の中に、彼らから「嫌われる」という実感が無かった。俺は傲慢なのか? あいつらより上にいるのか? いや、ツボが少しずれているからだな。あいつらの嫌悪は俺を通り越し、遠い国の塩の湖に触れる。そして俺の立場をしょっぱいと感じるだろう。

 この世には時代の流れってのがあるだろう? あの二十一世紀の始まりを燃やしたのは誰なんだよっー! ドラムを殴った後、最後のライブでそう叫んだ。あの女は、その時代を燃やしたエネルギーの賜物だと思ったんだ。
俺がこの声で女落としたのがそんなに気に食わないか、と言って殴った。みんな、あの女に惚れていると思っちまった。それは小さな自己弁護。俺はステージに立っているとき、心が空っぽになっていることに気づき始めていた。その空っぽの隙間に、少女が降りてきたんだ。見たこともない半透明の少女。俺はその少女の内側をのぞくことになった。その少女はひどく照れ屋で、俺を引きずり込んで耐え難い羞恥心を植えつけた。それは強くはなかったけれど、ひどく効いた。ステージの途中で笑いが止まらなくなり、にやけた顔でぶち壊しになることもあった。がっかりしたのは誰よりもこの俺だったから、二度とあいつらと会えやしない。
 帰りのタクシーの中でベースのコウちゃんに電話しようとした。「新しいボーカルの子いいね」と。彼なら今でも電話できる。薄い闇の中で渡された詩を読んでいる。

 あらゆる人間
 生まれたからには
 魂にある真実がありまして
 それはきらめくような輝きをもって
 人を一時 惹き付けるのです
 それがいわゆる結ばれるということでは
 ないでしょうか

 いざ結ばれたらば
 その人間の灰汁を
 愛すべき味として
 受け入れなければ
 いけないのです

 あなたの優しさと呼ばれる
 柔らかいところで

それは霧のように世界を包み
 俗にまみれた景色を
 密かに未来につなぐのです

 しかしながら私はその
 一皮をむき取って
 正義というものに
 変えたいのです

 私の優しさは少し
 諦めに似ている
 ものですから

 タクシーで部屋に帰り、暖房をつけて部屋が暖まる間に、キッチンで酒を作った。甘い、琥珀色の酒を入れたシェイカーを振る。それをカクテルグラスに注いだ後、ミルクと酸味のある酒をまた振って、グラスの端から流し込む。琥珀色の酒の下に白いヨーグルトのようにトロリとした雲海が広がる。『上空三万五千フィートの夕暮れ』俺が作ったカクテル。
このカクテルは、あの有名な強姦サークルで重宝がられた酒より美味いだろうか。あの人らは間違った燃え方をした。世紀末から数年間、俺を燃やしたあの音楽の熱。その熱はひどく俗でありながら、どこまでも手が届くような錯覚―今では錯覚と言い切れるが―を撒き散らした。万能感である。
 畑を耕すみたいに、地味で感性がこわばるような仕事を黙々とこなす人がいれば、その頭に乗り、波乗りさながらに享楽をむさぼる人がいる。享楽はひどく引力を強めて、畑を耕す人を横目に見ながら、パイの取り分ばかりを気にしている人々を飲み込む。俺はそれが怖いことだと思っていた。歌のフレーズが思い出される。
―君に悪い気がする

『君』もちろん、畑を耕す人である。
「ハラワタをさらせ」おっちゃんの言葉が浮かぶ。俺はハラワタ、さらしたのか? 冷たいカクテルをなめる。これは本当に口当たりがよいね。そう、この喜び、ハラワタの喜び。あの女を抱いた時の喜び。享楽とは実は「ハラワタをさらす」事なんだな。俺は、じっと天井を見て、どのくらいまで深く俺がのぞかれているか考えている。それは一瞬 恐怖に感じるけれど、すぐ溶けて無くなる。

 もう僕の羊はあの夏の七色じゃない
 光と偽った絵の具の色をしているのに
 あなたはまだそれを抱きしめているのですか
 僕は静かにあなたを見ています ♪

『遠いさよなら』の一節。神にささげた歌か。そう聴こえてもおかしくないな。
 目を閉じてハミングすると、前頭葉に光を感じる。この体は、音を出すとほめられるか。

 何だ お前
いつもちん玉握って
プライド保ってるのか

おい お前よ
今まで好きになった女
思い出して腕立て伏せしてみろ

どうだお前
その真白な世界で
まだ何かに憧れるのか

ほら お前も
タバコ咥えて
悪魔吸ってみろ

おや お前の
向こう側から
名作が聴こえてくるぞ

ああ お前の
真白なところ
虹色の愛で
耕されていく

もし お前の
過去の日々に
心地よい未練と自尊心が
風のようにそよいだならば

そしたらお前
望み通りの
タフボーイ

俺は言葉が好きだ。言葉が意味を持っているのではない。意味あるものが言葉を求めたのだ。この歌を、明日歌わなければならない。意味ある俺に、寄ってきた言葉たち。
 シャワーを浴びる。
 日々降り注ぐ目に見えぬ雨によりこの心は円く整えられ、その発する声が震わす魂たちと深く共鳴。削られて、芯の顕になったそれはいともたやすく真実に触れる。吟醸、吟醸。訳も知らず酔う体は、過去を忘れて今に溺れる。隠していたトゲを突き刺して明日に向かう勇気を知らせる。溜まっている膿みに突き立てる正しきトゲは、世の中に印す歴史の足跡。それは彼らの後光の一筋。神に通じる道しるべ。行き止まりはほぐされて、慈愛の深みが。醜き心いっとき消え去り、美しき子供産まれる。
 ベッドにもぐりこみ、あくびをすると、涙が冷たく流れる。新しいボーカル。風景を変えるステージ。着替えの終わったかつての仲間たち。彼らは俺の昔の歌を歌うだろうか? この手の中で輝いた物は、こぼれ落ちたあとどんな光を放つだろう。彼らの中でも輝けばそいつはきっと永遠だ。そう思いながら、心の一部が死んだような気がする。そしてボーカルの子の詩を思い出す。『灰汁』の話だ。灰になった心の一部分にふいごで風を送る。つながりを変える心。心細い分かれ道であることに気づく。

 僕が踊っている間
 あなた 何燃やしたの?

 ここから始めよう。

 あくる朝の十一時に体育館のトレーニング室に向かった。ここは開館直後の九時には人で埋まる。一番風呂が好きな人達だ。人がまばらになった昼前のそこで、光を集める。正しく言えば、ここに来るまでも集める。地下鉄の中で偶然出会う人から、すれ違う人から。たまに声が聴こえる。「おお、君いいね」するりと体にまとう目に見えない力たち。それは、人間の潜在的な魅力、可能性に惹かれるらしい。人間の心が気ままなのは、絶えずまとう光が入れ替わっているからだ。それを集めて、纏め上げるのは根性だ。意思と根性のない所に花は咲かない。堕落して輝くのは一時の責任放棄である。もしくは宇宙の不思議。ワームホールを通って運がテクテク歩いて、あらゆる所からか集まってしまったのだ。俺は、鏡の前で筋肉を確かめる。
 俺の体のちょっと前に、好ましい俺がいる。俺がちょっと前に進んだら、好ましい俺はまた少し前を行く。それが定石だ。
「日本人九秒台出ないかな?」陸上の話である。俺の鍛えた魂たちが彼らに力を与えて、そこには神の祝福があればいいのに。有能な魂を研磨して、人にそっと受け渡す。その魂、彼らの肉体を駆け巡り、未知の世界へと誘う。日々精錬に磨き上げられた強い魂たちに活躍の場を。魂のやり取りの話。
肘の内側、くぼみがある。じっと見つめる。ここをキレキレにすると、マイクを持った逆の腕を伸ばして力んだ時、客に驚きを与えないか? 俺は今までマイクを持った腕が折りたたまれた時の、筋肉の『はみ出し』を意識していた。ダンベルを持って、前腕を鍛える。後背筋を鍛えすぎると脇が閉まらなくなる。肩の前部を鍛えるため、ベンチプレスをする。あのでぐの坊は何キロ挙げるだろうか? 格闘技はそんなに単純なパワー勝負ではないからそうでもないか。七〇㌔を挙げる。何度も挙げる。声が近づいてくる。
「俺は強い。俺はモテる。俺は強い。俺はモテる」体に疲労が溜まると声は大きくなり、限界でピタリと心にフィットする。そして力を抜いて放す。何とも思わない。否定も肯定もない。声がただ寄り添っただけだ。腹に力を蓄えるために、持久力を鍛える。上半身を鍛えすぎては、気が上がってしまう。下半身を鍛えなければ力が満遍なく行き渡らない。
 周りを見れば、歳を重ねた人ばかりだ。彼らはまだ燃え残る可能性を輝かせて、光を集める。決して、もう派手な花を咲かせはしない可能性。それを磨くことがどんな気持ちであるか、よく分らない。いや、もしかして…。
 五十分のワークアウトを終えて、シャワーで体を流し、女にメールした。

 今、筋トレをして光を集めてきました。

 缶コーヒーを飲んでまどろんでいる。歌詞のことを考えていた。トレーニングをした後の、空っぽな頭。風の吹かない片田舎のような意識。平和? 歌にしたくない。何せ攻撃的な行為の後の平穏だから、十分もすれば嘘に変わる。女から返信があった。早い。

 地下街でお尻を丸出して歩いている人を見ました。
 あれ位アグレッシブだと人生を間違えそうです。

 俺の大事な光。「美女を好きになるってのは進化だと思うんだよね」ベースのコウちゃんが言ってた。俺にあてつける様に、そしてかばうように。
『進化』
ボーカルの子の詩に『正義』ってあったか。優しさをひと皮剥いた正義だったか。正義について考える。常に人の一歩未来を行くのが正義の旗印か? では進化ということか? 人間を信じるなら進化が正義だわな。『進化』ちょっと使おう。

 進化の途中で見たよ
 誰かのぬくもりが
 あのひとの灰汁を
 包み込んでいた

 携帯にメモしておいた。『進化』の後はツルリと落ちてきた。空っぽの意識が真空のように言葉を寄せた。

こぼさないように
 運んでいるから
 周りから笑われていたけど

 大学時代、黒曜石の交易についてレポートした。
 過去の日々が解ると同時に、何故人はそれが現代に通じると知ると、落ち着くのだろうか。現代の資源の集中が世界の舵取りに深くかかわっているなら、この現代の病が過去の日からもう既に始まっていたのだ。人間の欲のなせる技だと言えないだろうか。過去の日から、現代に至るまで、人間の欲が造った道を通って、便利が運ばれてゆく。それを見た時にわが身を振り返り、自らに過ちがないかを考えないのはどれほど滑稽な事だろうか。
 何故思い出したのか。今日はクリスマス。この特別な日もまた資源であるから。

 部屋に帰って、スーパーで買ってきた和牛ステーキ肉を焼いた。塩と胡椒を振った物を、ワサビで食べる。二切れ目が特に美味だった。手作りのおにぎりを二つ食べて、パックの野菜ジュースを飲む。
鉄製のフライパンを金タワシで洗い、空焼きする。端の方から水が踊りだす。水がだんだん小さくなる。「どんどん小さくなってゆくね。冬のペニスみたいだね。どんどんね」
ベッドに横たわり静かにまぶたを閉じている。俺の肉になれ。
 細い足首をつかんで、折りたたみ、そのはみ出たふくらはぎを愛撫して、すべての嫉妬に負けないようにペニスを硬くすることに集中する。もう濡れていたから、差し入れる。奥まで突き抜けて、興奮が体を満たすから、仰向けでも崩れない南国の知らない大きい木の実のような胸を鷲づかんだ。『勝った』と想った。前頭葉の隅から隅まで俺以外の誰でも無かった。そこに誰の疑念も入り込む余地は無かった。
記憶はすべてつながっている。そのはずなのに誰かがそれを偽物と入れ替えたり、色を塗り替えたりして台無しにしてしまう。その人を俺は最悪の創作家と呼ぶ。彼は記憶から意味をもぎ取り、無味乾燥なものにして、人から生きる気力を奪い取ってしまう。この女の記憶も例外なく塗り替えられているから、たまにその色を塗り直す。意識に残る素晴らしい思い出は、すべての起点であり、終点である。美しい物語りが汚されれば、立ち上がり、美しい結末まで歩みを進めなければならないんだ。例えその記憶を思い出さなくても。渇きとはそういう物だと思わない? 記憶が汚れると顔の筋肉が歪む。俺はクワっと力を込めて、悪い創作家を押しのける。

 夜の帳が下りるころ、地下鉄に乗ってすすきのに向かった。地下鉄の中には幸福と平坦な道がある。ある人は幸せを疑いもしない。またある人は頑なに歩くことを止めない。平坦な道。それはきれいな歌で飾られなければならない。何もジェットコースターみたいな恋を歌い上げる事だけが俺たちの仕事じゃないんだ。平凡な毎日に雨上がりの虹を架けるのもいいじゃないか。彼らの無意識に引っかかるこの社会の諸事情に石を投げよう。そして、心拍数を少しあげる。
魂のつながりでフィクションが書ける。ミュージシャンとしての自論。誰かがつなげた空の下で俺たちは出会い、すれ違ったとしてもその匂いで名曲が生まれる。それは人々の心の隙間を埋める。俺たちはそのわずかな匂いを感じるカナリアです。しかしながら、今夜の俺は鼻が利かない。体の中にある、不幸を感じる器官がぴくぴくと反応しないと詩はかけないのだね。それはたまに怒りであったり、諦めであったりして人を慰める。これからライブハウスに向かう俺は、見えない力で守られている。それは俺に抱かれる女がいる事と似ている。

俺は地下に入り、千円を払ってドリンクを貰った。フロアの重い扉を開けて端っこのスツールに座る。スミノフを飲んで米神の緊張をゆるめた。俺の出番はすぐやってくる。受験みたいにすぐやって来るんだ。俺の前には高校時代の友人が座っている。ライブが始まった時にはもういたらしい。暗いフロアで彼を見つけるのは容易だった。青白く、坊主頭だったから。ステージから跳ね返る照明が彼の疲れを照らしていた。酒を飲むと疲れるらしい。彼女に呼ばれて、友人の肩をなでてステージに向かった。
歌っているうちに自分の声ではないような気がして、俺はまるで可愛い女の子みたいになった。俺は怖くて硬くなってしまう。それでも絞りだした声は、昼間蓄えた光とともに観客に届いたみたいだった。数人の顔が、目をきらきらさせて呆けているのが見えた。俺にとってこの声は人並みはずれたペニスなんだな。びっくり箱みたいなもんだ。
「この歌、クリスマスっぽくない? でもね、彼の声、神様に通じるようなクリアな声でしょ? そしたらさ、なんだか〝M″な神様が降りてきたって感じじゃない? 体に染み入るのが痛くて心地いいみたいな」
 俺がステージを降りた後、彼女は宝石みたいなジャジーなクリスマスソングを歌った。彼女の声は俺の心を、バイオリンの弦のようになでて震わす。意識にまとわりつく『プルプル』それを壊さないように優しくなでるのです。その声は雪の結晶みたいに確かな輪郭があった。守らなければならないんだな、と反射的に思った。フロアを見ると、柔らかな、また真剣な表情で人々が彼女を見つめている。観客は彼女に与えられながら、同時に彼女を守っている。
 
わかりやすい答えばかり
 選んじまったら
 真実が目の前にあっても
 理解できやしない
 幸せと不幸せが
 どっちの目がいいか
 競っている
 光はガラスを通って
 少し曲がっているようだ

 意識が不意に遠くなって詩を吟じてしまった。予想以上に緊張していたのかもしれない。

「感じるだけの肉袋だよ」友人の、彼女への賞賛を聞いてそう言った。「女の感性をフルに活かしたら、素晴らしい芸術が生まれる。そんなコメントを昔、本で読んだんだ。俺はクラスの女子を思い出していたんだよ。彼女たちの感受性は、醜いものを排斥するために使われていたからさ」俺と友人はバーで酒を飲み交わしていた。
「でも お前、女子から嫌われていなかったじゃない」
「醜いものを疎んじる力は、同時に醜いものを生む」
「何それ? 自論?」
「ちゃちな正義心かも」
「量子力学じゃない?」そういって友人は笑う。
「彼女、美しかったか?」
友人は「うん」と、短く答えて「何で?」と訊いた。
「水晶ってあるだろ? あれ、邪気を吸い取るんだってな。だったらその邪気はその後どこに行くんだ?」
「罪のある人のところだよ」さらりと言った友人の目が潤んだ。「歌の話していい? あのさ、観客が持っているパワーがさ、太陽の光でさ、それで輝くのがお前じゃない? それ逆? でもさ、太陽の厳しさを柔らかくして、その意味を知らせるのが月じゃない? つまりはアーティストは月なんだなと思ったわけよ」
 俺は笑う。この男の言葉はなんだか底知れぬ力があって、俺は理性の乏しい笑い方をしてしまった。そして、言葉を反芻する。
「俺はちっちゃいけど、恒星だな」
「ちっちゃい? なんで? その、卑屈が消えたら死んでた部分よみがえるよ。心のひだ、機微みたいなもんが復活するよ」
 俺は、さっきまでステージにいた彼女にメールを打とうと思う。

 負けたくない。

 彼女は俺のことをよく知っていた。自分の声にわらけてしまうことや。いい女と寝たこと。自身が性の対象であった事を。俺は何度も彼女と寝ようと試みた。
「彼女を口説こうとすると、分離するんだ。欲と理性。タッグを組んでなきゃいけない奴らが喧嘩するんだな」
「ねぇ、欲って太陽かな、月かな」友人が問う。
「太陽な気もするけど、月かもな」
 友人は今夜のライブをほめながら、俺を持ち上げるようなことも口にして終始上機嫌だった。こんなにも毒を吐かず、他人の良いところを、一見無価値な骨董品を鑑定するみたいに見つめて、疲れないのだろうかと思う。誰しも、どっかで他人を軽んじて、けなして心地よくなる事もあるだろに。彼は他人をほめる事に快感を覚えているかのように笑顔で酒を飲み、語るのである。その顔は二十代にしては老けていて、とても幸福を享受しているとは思えなかった。どちらかというと不運な方だと思う。今まで一人の女しか抱いたことはなかったし。ペニスもそれほど大きくはない。だらしなく唇が歪んでいるところもある。俺もたまに他人をほめるが、それは理性の輝きを楽しんでいるふしがある。
 みんな自分の飛び出たところをバネにして宙に舞い上がり、下にある風景を笑いながら眺めている。たとえ自分にあからさまな勝ちがなくとも、仲間で笑いあえるネタがあれば雲の上を飛ぶことができる。
 この男、勇気はあるだろうか? 人間、自分を信じてこだわりの世界へ入って行くのは怖いだろう。俺はカナリアみたいな声を持って世界に入っていった。その世界へ入って行けた時の快感は、薄い膜の向こうにも酸素があった、というような喜び。告白が受け入れられた後の、意識の広がり。そして幸せの沈黙。瑣末なことへの辟易。勇気を持って世界に挑めば、どんな結果でも腹の座った奴になるのだけれど。こいつももっと醒めないだろうか。醒めた奴の方が一緒にいて落ち着く。
「俺の感性は何も、新しい世界を切り開く物ではないよ。あの世紀をまたいだ爆発的魂を醒めた目線で見つめたものだよ」そう言って。話を軽くいなした。友人は俺をほめ続けていたから。これ以上は持ち上げられまい。「燃えちまったんだな。俺」
「燃えていいじゃない」
「あの、胸に刺さる、本物の叫びが…俺も叫びたかったんだな」
「今日もいい歌だったじゃない」
「どこに向かうんだか」
 俺たちは再会を軽く約束して別れた。男女がお互いに飽きて別れるような別れ方だった。風が心地よい。

 もうクリスマスは終わるよ。会えるかな?

 女にメールした。返事はすぐ返ってきた。彼女の所に向かう。

 彼女が俺の間合いに入る時、笑顔とともに目をしばたかせる。薄いビニールを破るみたいに。そんな境目があるのだろうな。それはもしかすると女心の中にあるずるさを隠すものかもしれないけど。または『苦しい時こそ笑え』というムエタイ魂か。そんなことを考えて彼女の部屋まで歩く。

 彼女は『アッ』と鳴き、股間は『ペッペッペ』と鳴く。アッペッペッペッペッペアッアッペッペアッアッアッ! と愛し合った。愛の交わりにふさわしくない『ペッペッペ』という音は、人間であることから逃れることが出来ない肉体の音。

「本当の意味で愛し合うって、国境の線を引くことだと思う」彼女がギロチンみたいな名前のコーヒーメーカーでコーヒーを淹れるとき言う。「それは相手を愛して浮気しないこととは違うよ。でもね、平和すぎる夢の中から出て行って、体の中に確かなボーダーラインを引くことなの。これは愛で、あれは愛じゃないという国境。それがはっきりするの」
彼女の中でははっきりしているかもしれないが、俺には馴染まないセリフだった。何せ今さっきまでエクスタシーを感じていたのだから。出し切ってしまった体に、国境は無いように思える。
彼女の姿は愛し合った後、都会の月みたいだった。精錬な光を受けて俺のところに何かの答えを届けにきた人。何かに気づかなければ渇いてゆくわよ。そう言われている気がしたのは、生気を使い果たした後のことだから。
「私がどうしてこの人が好きか知ってる?」ラジオのDJの話らしい。「この人さ、愛と嘘、別けること出来るんだよね」
 オレンジ色のスタンドを消して、カーテンを開けて外を眺めると、黄色い街灯に照らされて、雪が濃く降っている。世界は閉じていた。
彼女に会うと高校時代に戻る。自分の中に真実を知らないという不安があって、出口を求める若さが感じられる。何かを知っているようで、大事なことを見過ごしてしまっているのではないか。その不安が少し臆病に、謙虚にさせる。抱いた後の彼女は世の中の広がりと行き止まりを同時に表す。
「閉じている世界が好きかも」彼女に言った。
「開いていなきゃ他人の事わからないよ」
「俺は、いい詩が浮かぶ時 閉じている感じだな」
「それは開いてるよ」
「いや、閉じてる。的を射るには他人じゃなく自分を見るんだ」自分の言葉を理解しようとして難儀する。自分の中に他人とリンクすることがなかったら、単なる独りよがりという意味かな。それとも他人とつながっている部分を、うまい具合に和解に持ってゆきたいという意味か。その考えは異国の料理みたいに、その味を理解することができない。「愛が、嘘と真実を別ける? そう言った?」
「正義が好きかも」
「その答えに至るまでどんな行程があったの?」
「セックスの回数だけ」彼女は笑っている。
「他人とつながるって心地いいの?」
「そんな人、少ない」
「俺のアレが間違いなら、いずれ腐り落ちてしまうの?」
 俺の体に嘘はないだろうか? 誰が自分の存在の嘘の部分。それを理解できるだろう。彼女は体を重ねるたび、どんな確信を深めているのだろうか? 
翌朝、地下鉄で帰る。早朝の地下鉄で、朝帰りの若い女が汚い言葉で知らない誰かを貶め続けている。数々のミュージシャンが心を込めて歌った歌で育ったのがこれである。その笑い声、気に障る怪鳥音。
あ、そうだ、コーヒーメーカーの名前『デロンギ』だった。知らない人に『東南アジアにいる怪鳥の名前だよ』といったらそのまま通じるだろう。
あまやかな毛布が降りてきて体を包み、隣に座った女への好意をすすめる。体の内に錆があるのを感じる。じっとしている。もしかすると、彼女は俺の中に密かに国境の線を引いたのかもしれない。

 気高い生き物みたいに
 愛し合っているうちに
 あの人の顔が
 サルに見えてくる

 君への愛で
明日まで行けたら
 僕ら何になれる

 携帯にメモしておいた。『僕ら何になれる』本当に何になれるのだろう? 

 サブローはグラスの首を持ってクルリと返し、白い布きんで拭いている。
 
この国の花火師は良い腕を持っていて、多くの人を裏返す。自分がシロであると知った時、打ち上げ花火は咲くのです。

「もう慣れたかい?」おっちゃんが尋ねる。「酒は作らねぇのか」
「飽きるまで磨きますよ」サブローは答える。
 
磨き上げた脳みそは、天に届く柱になる。その柱、心をつなぐような甘いことはいたしません。すべてばらばらにして、等しく天からの罰を配るのです。

「さっきからグラス、ライトにかざしてるけど何だ?」
「この、柔らかい布きんでも、傷つかないのかなって」

柔らかい声が好きな愛欲に狂った人。まとわりつくから大火のように焼いてしまいました。

「男が仕事に燃えなきゃ何に燃える?」おっちゃんが尋ねる。
「グラス、溶けるまで燃えますよ」サブローは笑っている。

 世紀を超えた炎で燃えた記憶。その炎で溶け出した鉄が、今は冷えて意識を固めています。

「石炭って燃えると白くなるんですか?」サブローが尋ねる。
「いや、しらねぇ。いや、白くなる。小さい頃、学校で燃やしてた」おっちゃんが答える。「炭って圧かけるとダイヤになるってな。そしたら黒人に圧かけたらキラキラ光るんでねぇか?」
「黒人すごいッスよ。馬鹿にしちゃ駄目ですよ」

 あつれきの中で生まれた声、助けを求めて響きました。その声は世の中の仕組みを変えよ、と神様の知らせ。みなで一所懸命燃やしたのです。その声、新しいつながりにたどり着き、熱は冷えゆく。

サブローは『楊貴妃』のグラスを出して、若いバーテンに渡した。カウンターには幸せそうな二人連れがいる。サブローはこのカクテルの造り方は知らない。複雑な形をしたグラスだけれど、磨くのに時間がかかるから暇つぶしにはなるんじゃないかなとだけ思う。まだカクテルを進んでは覚えない。プライドなのだろうか。サブローの中に意固地な彫刻家の姿が浮かぶ。石の中にすべての念を注ぎ込むよに、とても遠回りな世の中への反骨心。

 誰かを動かしたという実感は、確かに間違いを犯すのです。天から授かった真実あらば、それを共有する友 現れ道を同じくするでしょう。

「歌わなくなってなんぼになる?」おっちゃんが尋ねる。
「歌ってますよ。ちょくちょく」サブローが答える。
自分だけが売れる事を望んでしまうことを隠している。

 競争はもう始まっていて、風の噂では五百万人が参加しているということです。ゴールは神の頬に触れることを許されることだそうです。

「歌、考えてくれって頼まれているんですけどね」
「キレイごとじゃねぇだろうな」おっちゃんはその話に敏感だ。

炎には様々な意味があります。その熱で巻き上がった煙を、神様に届けることも一つ。花火のように心を打ち上げて、眼のよい人に歌われることも一つ。魂の色を眺める人多し。

「近道はねぇ」おっちゃんが言う。
「近くないですよ」サブローが言う。

 トンネルがあることを知った不満者が腹の奥から望むことは、一足飛びに天まで跳ね上がることですから、人の期待を背負う人は気をつけなければなりません。あなたの頭にも人が乗り、燃えるような邪気を放つでしょう。

サブローは遠くを見ている。それは、最も遠い人と結ばれなければならないと、思い込むような目で。

 訳のわからない話は、人々の中で、それぞれの意味を持ち、人類が熟するのを待っている。

 あなたの黒い所
 大きくぷくぷく膨らんで
 白い私を押しのけて
 世界の中に入ってゆく
 それは痛みを伴うから
 私は助けを呼んで
 その人達が想いを打ち上げた
 この街には腕のいい職人がいて
 とても高く届いたから
 早晩メスを持った名医が舞い降りて
 国境の線を引くでしょう

サブローはグラスを磨きながら、薄い膜を破る。歌を作るにはグラス磨きがちょうどいい。国境? 解らんな。裏に下がって、まかないを食べるサブローは、下衆の脳みそから一滴何かを絞りとろうとしていた。

 あなた得意な肉体使う時、少し世界を縮めます。それは遠くにいる良き人の柔らかい心を渇かす物です。だからそれを奪います。この土地のミルクのように甘い意識を一滴あげますから、怒らないでくださいな。それは形あるものをゆっくり砕くように岩のひびに染み込んで、神の微笑むような彫刻を作り出すものですから。

 すきまを満たしていたもの消えて
 誰かの吐息が入り込む
 愛なのかアクなのか
 誰も気づかないだろう

 俺はそれを携帯にメモした。
俺は忘れるという事に魅力を感じている。俺に磨かれたグラス達は、傷をつけないように柔らかい布で磨かれ、何度でも新品みたいになる。おれ自身、記憶を失って単なる魂の通り道になって、異世界とこの世をつなぐ媒体になれないだろうか。この体は限りなく澄んで心は空になり、葡萄色の、年月を経て深みを増した酒が『つつ』と注がれ、みなそれを口にして頬をゆるめる。幾多の魂に触れながら、つるりと磨いてしまえば、またクリアな自分に戻る。
通り過ぎたことのない、理解しがたい誰かの雨は、幾人もの意識を介して俺に降る。俺が背負うのは観客の乗せるおもり。複雑に絡まりあった思考が魂に雨となって降りそそぐ。その混濁は不安を呼んで俺にバネを使わせる。俺はこの肉体ですべてを背負ってひっくり返す。すべての色を変えて、素直に何かを受け入れる心、そこにあるようにと耕す。肉体とは革命の道具。俺は観客に酒を飲ます。しかしながらその酒は彼ら自身が注いだものだ。クリスタルの器。それは口当たりの良い嘘かもしれないが、と俺は思う。何度も、何度も、ひっくり返し、真実が顕になるまでひっくり返す。そのうち俺も真実になる。
 あれ? 今、雨 降ってる? この店の客の雨、店長に降ってる。俺に降る雨は誰の雨。今は休憩中だぜ。
昔は未熟ゆえ雨が降った。この丸い鼻に、重いまぶたに。目の下の隈に。時を重ねて背が伸びて、言葉の重みを知るようになって、次第に中身が膨らんでバネを得た。「プレッシャーの無い世界で、楽々生きている奴は馬鹿だよ」そう言ったことがあった。その言葉は誰かを揶揄し、同時に誰かをリスペクトした。言葉を発するたび、心が落ち着く気がした。この雨は俺の経験に降る雨か。どこに降っている? 経験の中に魂を濁す何かがあったか?  それが分らなければ、バネの効かせようがない。意味も知らせず胸が痛くなった。
俺が思春期に外見のコンプレックスで親ともめた時、親父が言った。母さんは自分がお腹の中にいるとき美しさを求めすぎた。神に美しさをくれと頼んだから美しく生まれた。神様は次の世代から美しさを奪っていった。それだけの話だ。
 自分のことを好きになったキモい男を馬鹿にする、その心が強くなるにつれて美しさを増してゆく女がいた。
 キレイごとを歌うあいつらが、汚い心で女をいじっている。
 ペニスが心細くなるほど縮んでいる。
 胸が痛い。嗚呼。
 記憶。経験。それは濁りか? いや、研磨か。すべての経験、肉体を、お勉強を超えたらば、どこに行ける。どこかに行きたい。クリスマスソングの女。メールを送ってきやがった。

 サブちゃん、チャクラかびてるぜ。

 この女を口説けなかったのは、俺の体に廻る、魂の脈が負けていたからだな。「負けたくない」そういう意味もあったかも。彼女の方がきめ細かい魂の樹木を抱えていたんだ。自分自身に相手の心の機微を受け止める器量がなければいけない。男らしい繊細な夢である。過去の日に降りそそいだ劣等感。こつこつジャンプして別世界に行こうとした。それなりに魂が育った気がするから「負けたくない」。今、ジャンプして何に届くか分らない。もう、跳ぶ必要はないのか。昨日、抱いた女を思いだした。彼女のどこに雨が降っているのか? 分らない。実際、彼女は生きているのか? 交わりすぎてなんだか存在が希薄になってきた。しばらく欲を溜めよう。そう、それが国境の線を引くだろう。

「こう言っちゃ何だけどさ、サブちゃんのね、詩をさ、プロの手で売れ線にしたらウケるよって言われてるの」コウちゃんが電話をかけてきた。午前五時。店のみんなでの深夜の飲み会が終わった頃。コウちゃんは就職しないで深夜の警備員のバイトをしていて、その休憩中だった。仕事は七時までだそうだ。「クリスマスにステージ立ったでしょ? その時観てたらしいのね、それで回り回って俺らのところに話しきたわけ。どうして彼は抜けたのかとか、今までの曲作りはどんな分担でしてたかとか。そしたら人に会ってくれないかって言うわけ。その人がね、クリエイターとミュージシャンつなげる役割の人らしいんだ」
「俺、ボーカルの子から詩を預かってるぜ」
「それ、書き直すやつでしょ? 出来た? 出来たらすぐメール添付してよ。見せるから」
「チャンスなのか?」
「チャンスだよ」
 何のわだかまりもなかった。コウちゃんのこだわりの無い性格のおかげだ。すんなり心が動いている。胸を可能性がくすぐる。そこから緊張感のある確か、が広がり、四肢に満ちてゆく。境目が見える。その向こうには豊かな匂いのする世界がある。未来がマーブル模様。指を動かすだけで、つむじ風が起こせそうだった。
「詩は九割出来てるよ」
「すぐ送ってよ。メルアド俺のでいいから」
 信じてる。コウちゃんはそう言った。俺、自分のこと信じてる。でも、他人から信じられると、その矢印がどこを指しているのか分らなかった。カラスの鳴き声よりそれは遠い。『冷静と情熱の間』そんな映画を思い出した。部屋に帰り、すぐコウちゃんにメールを送った。

僕が踊っている間
 あなた 何燃やしたの?×2

 気高い生き物みたいに
 愛し合っているうちに
 あの人の顔が
 サルに見えてくる

 君への愛で
明日まで行けたら
 僕ら何になれるのかな

 屋根で歌っている間
 あなた 何燃やしたの?×2

進化の途中で見たよ
誰かのぬくもりが
あのひとの灰汁を
 包み込んでいた

こぼさないように
 運んでいるから
 周りから笑われていたけど

 遠い人に惚れてた時
 あなた 何燃やしたの?×2

 すきまを満たしていたもの消えて
 誰かの吐息が入り込む
 愛なのかアクなのか
 誰も気づかないだろう

 仕事お疲れさん。 サブロー

 これだけ書いて、俺は眠る。どこか遠くで不眠症の人が、強い睡眠薬を飲んでいる。俺は、ぐっすり眠る。

 昼に起きて、プールに向かった。泳いでいるうちに水が体に馴染み、境界線が無くなる。水の中にいる緊張感は薄れ、陸上より自由を味わえる。ナチュラルに息継ぎが出来ることは、子供がおねしょをしなくなるのと似ている。
この手がかく水は、手応えなく、するりと手の脇をすり抜けてゆく。水泳選手はスマートだな。より多くの水を効率よくとらえる。なんだか金を上手く稼ぐ人みたいだ。
 窓から昼の太陽光が差し込み、水を照らす。水中に光のカーテンが出来て、底がキラキラ光っている。
 今日、筋力トレーニングより水泳を選んだのは、何かを身につけるより、捨てに行く行為のほうが今の心に良いのではないかと思ったから。水泳は、何かをそぎ落とす。そんな気がする。「いいね、かっこいいね」そんな声が聴こえる。水に親和すると霊感が強まるような気がした。決して全力では泳がず、水と声と疲労感の中を漂った。
 水を飲むほど疲れたら、水から上がってサウナに入る。今朝 送ったメール。もうその人の目に触れただろうか? 威圧感を感じて肝が震える。暴力的な想像をする。その人、俺のセンスをけちょんけちょんにけなして、俺から金になる魅力を奪い取り、俺はその男の目に中指と人差し指と親指を突っ込み眼球をえぐり出す想像。身体中にアドレナリンを感じる。
 シャワーを浴びていると若い太い男がにやけながら、俺の陰茎を見ている。アホの一種だ。恋人や赤の他人には見せられるペニスも、友人や親には見せたくない。すべての人が他人ならストリーキングか。とても遠い所に友人を作りたい。その友人にはペニスのかわりに心を見せたい。

 その人からのメールが来ていた。仕事、早いね。

 おはよう。話を聞きたいと言った、鎌田といいます。
詞、読みました。初見。誰も書かないような詞だね。
 あなたは、持ち上げるのは得意かい?
 その意味は、会ったときするけど。
 仕事、夜だよね?
時間を設定するよ。
 

文末に日時と場所が書かれていた。すすきの、カラオケボックス、一月三日、午後一時。カラオケボックス? 俺の声、聴くのか。

 年越しそばを茹で上げる鍋から、もうもうと上がる湯気を見る。テレビでは空気が乾燥すると老けるから、加湿器を使おうと、マーケティングをしている。俺の歳ではピンとこない。まだ、体にはたっぷりの水があった。
俺は三浪もするバカだから、地球が渇いてゆくことの意味を知らない。それは、勝ち組と負け組みの差がどんどん開いてゆく事とどれ位違うのか。勝ち負けをなくしたら、サハラ砂漠に雨が降る。そんな気がする。
 俺は初体験を間近にしたとき、珍奇な考えにとり憑かれた。人間にとって思春期とは戦争である。現代の日本人にとって、第二次大戦とは親や世間との戦いである。それが終わるのが初体験だと思っていた。それを身長と絡めて考えた。俺の思春期はいつから始まったから、この頃には終わるはずだ。自分の現在の身長が歴史の一点を指していて、その成長の具合で、世界に刻まれた史実が、形を変え自分の身に問題を起こすと信じていた。人間は母親の胎内で進化の過程を経験するらしい。では何故生れ落ちたあと、歴史を経験しないのか? 疑問であった。思春期の不安定な心が、戦争を連想させた。閉じた世界でそう考えていたのである。自分の成長が終わったとき、俺は世界の『今』を生きることになるだろうと。身長が伸びているうちは過去だ。その過去の中にある第二次大戦が思春期なのだと。そんな風に、俺は世界と自分をつなげていた。今でもその考えをバカだと思えない。クスクスと笑えるのは、通りすぎたものの特権だと考える。
 そばつゆは、今日、お雑煮を作るから多めに。年はもう七時間前に越えている。カウンターの中で「ハッピーニューイヤー」と叫んであげた。客も叫んでいた。

 誰かが創った、時間の境界線をまたぎました。
 縄跳びみたいだね。
 あけおめ。

 女からメールが来ていた。

 神は意味ある人間に時を与える。
 時が惜しいと思えれば、意味を見出すことが出来る。
 あけおめ。
 サブロー

 ネギを刻んだそばを食べて、まだある胃袋の隙間に餅を詰めようと思う。受験勉強みたいに詰め込んで、落ち着きたい。レンジに餅を二つ入れ、練り物を出汁で温め、三つ葉を傷んでいないか観察して、外を見た。太陽はもう出ているようだった。
この部屋から山が見える。その山は小さいけれど、山の向こう側では雪が降り、こちら側では降っていない。昔の人は、山が何かから自分たちを守ってくれている、そう思ったかもしれない。それとも雪を降らす霊力を山が吸い込み、春に向かって命を蓄えているのだと信じるかも。過去にここで暮らした人々に恩恵をもたらしたこの山は、神と崇められるのだろうな。
 山が何かの恩恵をもたらし、神だと言えるのなら、この工業製品も神だろう。人間の意識が係わったら、その神度は下がるのだろうか? そう思った後、自分の意識でろ過された歌が凡庸な工業製品なのかもと知る。この工業製品は電気があるから動いている。ではなぜ電気がこの世に存在するのか? なぜ音があり、声があり、歌があるのか? それは、さえぎられた世界をつなぐはかない糸ではないか。神が孤独な人間に与えた個々をつなぐための糸ではないか。そいつはもう愛ではないか。世界は何らかの形でつながって一つの生命体となるのではないか。
「奴はガンだ」この言葉に自然に含まれている社会観よ。俺、脳みそ、俺、脳みそ。出来ることなら前頭葉。俺のパワーで少子化問題、不景気すべて解決。窓に向かって指を指して「ドーン!」と叫んだら頭がスッキリした。唇を弾いて「ポンッ」と音を出した。俺の無意識に刻まれた一年が、軽く弾けた。新しい年である。

 体の中身がはみ出しているように敏感で、全身性感帯とはこんな感じかと思う。美しい女が思い出される。ステージで笑っちまった夜が浮かぶ。高く飛び跳ねて、地に落ちるイメージに取り憑かれる。敏感な心に、これはいささか厳しい。意識に一瞬ふわりと膨らみを感じる。手触りからして愛である。しかしそれは、遠くではじけた爆弾みたいにすぐ消える。
心はパイプになり洒落た店の天井みたいに。それは、いらないものを追い出すために張り巡らされる。裏方むき出しの姿は美しさの一部になる。夜の工場みたいに美しい。しかしながらその中には刺激的なものが流れている。知らずに溜め込んだ刺激的なものは、都合の良いカタルシスに任せておけばいいじゃない。誰かがうまく排泄してくれるから。職人が一生懸命パイプを張り巡らせて、生きやすい世界にしてくれるさ。自分でやれば良いじゃないって? その通りなんだけどさ。敏感なところにいつまでも刺激を与え続けるのは危険。
どんな危険な物だって、包まれていれば安心だ。そう考える科学的な人々を想う。大丈夫、放射能は漏れませんから。あの原発事故は人間の心の現われなんだな。頑丈な魂をもってして、危険をコントロール。夢だよね。あの日、不意に突き立てられたトゲ。どこで誰の心がはじけたか。
どんな経験だって心の作用で姿を変える。都合の良いお馬鹿さんが歳をとらないのはそのせいだ。昔、自分を抱いた男が、どんなに黒くても、愛があれば大丈夫と言いやがる。排気口から出た腐臭が心の鼻をつく。誰かの夜の経験の匂いだ。平気で生きてゆけばいい。俺にも排気口はある。勇気がチラリと顔を出す。汚い経験をしても輝く人間はそういう理屈だ。みんなそうなんじゃないか? うまい具合に記憶が通り過ぎる抜け道を持っているのではないか。顔がちょっと歪んでいるのは、上手いことパイプがつながらなくて、内部に漏れ出しちゃってるんだな。
 待ち合わせ場所にたどり着くまでに、敏感は勇気に替わっていた。
 鎌田さんは、すぐ俺を見つけた。ダウンジャケットにニット帽、とがった靴を履いていますと伝えておいた。鎌田さんは、背は俺より低いが、上半身にボリュームがあり、ケツが小さくパンツに押し込められている。これまでの人生で、よほど愛想笑いしてきたのだろう。目尻に深いしわが刻まれて、顔の肉が幾分硬直していた。本気で笑っても頬肉が表情を欠いていて、怖い人と思われるかも。
「歌ってよ」と鎌田さんは言う。
「テストですか?」
「聴きたいね。声をね。カナリヤって呼ばれてたんだからね。聴かないとね」
 俺もその気だったから、何を歌うか考えていた。初めジャブを喰らわすように、小池玉緒の『三国志ラブテーマ』を選ぼうとしたが、「メジャーなのが良いよ」とうながされて、ビリー・ジョエルの『ピアノマン』を選んだ。この歌はキーが上がると俺の
テンションも上がる。
鎌田さんはジャケットを脱いで腕をソファについた。ノースリーブのシャツからあらわになった上腕三等筋が威圧的に盛り上がっている。艶やかでキレた肩の筋肉からあふれ出る色気が俺の胸をえぐる。それは経験を積んでだらりと垂れ下がった陰茎ではない。若さと熟練が絶妙に混ざった琥珀色をした魅力である。好き者の女に降るような、好色の雨が、痛く俺に降る。横顔を見ると鼻筋が通っていてサメのように鋭角である。左手首に巻かれた時計。雑誌で見たことがある。パトリス・ルコントだか、フィリップモリスだか、そんな名前だ。俺は腹の奥、丹田に力を込めて歌う。たっぷりと負けん気を含んだ筋肉が心にまとわりつき、詩の儚さが次第に固い異物へと変わってゆくのが感じられた。俺の魂を拠りどころにして集まる言葉たちよ、燃えてこの波間に消えゆかぬように。俺が消えてしまうではないか。せめてロウソク岩のように光を灯したまえ。そんな心とは裏腹に、俺の魂は五〇㏄のバイクのように軽かった。歌い終わった後、「脳天から誰か生気を吸い上げませんでしたか?」と聴きたくなるくらいだ。 
「歌声ってのはさ、聴いている相手を主人公にしちまわないといけない訳だな。つまりさ、聴いている人間の心に染み入ってさ、心の核を震わして、何か目覚めるような、覚醒させるような、そんなものがないといけない訳」鎌田さんは続けた。「歌声は魂の最小公約数を含んでなきゃいけない訳さ。どれだけでかい声でも、偽者に着物着せちまっては、それはばれるのな。いつの時代の歌が好きよ?」
「九十年代から二千年代ですかね」
「歌っていて、好きなの?」
「答え出したいんですよ」
「アンサーソングみたいな?」
「あの頃の歌がなかったら、歌の世界には入らなかったから」
「その時代の何がすきなのさ」
「今、鎌田さんが言った、『主人公』の感じ…」
「そんなもんは、忘れちまえ。俺たちは今、その時代を忘れるために曲を作っているの。あの時代はいく分行き過ぎたきらいがある。人間のさ、自らの存在が絶対であると信じたいって心を爆発させちまった」
「それは聴き手を主人公にするって言う話と食い違うんじゃないですか」
「これからの時代はね、感性を空に広げることだね。天から降る雨を隙間なく音楽で受け止めて、この世界を美しいステンドグラスみたいにするの。そこに嘘があったら台無しよ。感性ってのは本当の神の光を感じるものだから。ああ、主人公にするってことはさ、ミュージシャンが火を着けた誰かの魂は嘘を突き破るべき運命にあるってことさ。この世には嘘で足を引っぱる奴がごまんといて、そいつらを引き剥がすのが目的な訳」
「ミュージシャンは嘘つかないですか」
「彼らは意識にのぼらない真実ってのをそらんじるんだよ。経験ない?」
「ほとんど経験から来てますね」
「あの詞? 君の詞はさ、気づきあるよね。共感とも慰めとも違う、ちょっと高いところにいるよ。音楽に救いを求めるみんなは、見えない重石を背負っているの。それに肩を貸すのが歌さ。でも、一過性じゃ意味ないじゃない? それで、気づきって言ったけど、『君、何か背負っているよ。気づいたら持ち上げ方わかるんじゃない?』ってのがこれから俺の行きたいところなのよ」
 俺は何のために話を聞きに来たのかを問うてみた。俺の不思議な詩を、新しいボーカル君の声の魅力と混ぜてみたい。そんな話だった。世に出ることは確からしい。何せ鎌田さんは、そのボーカルの子に惚れて付いて来たらしかったから。鎌田さんは一万円を俺に手渡した。
「せっかくだから歌いたいだけ歌いなよ。悲しい話じゃないよ。話はだれ経由がいい?」
 俺はコウちゃんの名前を出して、鎌田さんを見送った。荒井由美の「DESTINY」を歌った。何とも染み入るじゃないか。部屋のダウンライトが脳天から照らして、孤独を知らせる。ここにある空気がぴったり体に張り付いて、今以上の自分になれない事を悟る。浸透圧の問題で、流れ出ちまった。より濃い鎌田さんに吸い取られちまったんだな。それはそれは平和な気持ちだった。そんな時、女からメールが来た。

 私のこと抱く時苦しくないですか?

 それだけのメールだった。

 俺、勃起障害があるんだ。

 心が腹の底まで落ちてゆき、大事な物を拾ってきた。
「すき」
抱きに行かなきゃならない。
俺たちは土星とその輪のように愛し合った。二つで一つ。美しい。俺は今、飛び上がらなくていいような気がしている。この高度を保っていれば山は越えられる。彼女の隣で考えごとをする。
俺はこのちょっと特異な声がなければ、この世界には入らなかった。この声が失われることがあっても、俺の魂は壁をスルリと抜けて別物になり、人々に触れる。この声は、わかりやすい道を避けて、薄暗いトンネルを通り、この魂を導いた。それは、隠していた輝くような肉体で金持ちの愛人になるみたいに、密やかに。俺を覆っていた薄暗い闇。そう、思い返してみれば。それを感じさせなかったのは魂の熱。ああ、かわいい俺の魂よ。
 俺はこの女となぜこんなにぴったりと愛し合ったのだろう? そこには次元を超えたトンネルがある。その仕組みは神様がなぜ電気を人に与えたか。その問いと同じくらいのもの。この声に隠れて育った詩人の魂よ。世の中に張り巡らされた配線を通ってどこかに行こう。

 それから一週間して、デモ音源が届いた。その音を聴きながら、目が据わってゆくのがわかる。理性が言葉を生む。
「いいじゃないか」 
 頭の中で、今まで使ったことのない脈が働いている。ムズムズする。本能がそれを読み取るのか否かを探っている。それは次第に思考を強ばらせて、無感動を呼ぶ。書くべき何かがあるならば、それは自然と運ばれて来るはずだ。黙り込んでベッドに寝そべり、布団を首まであげた。
 歌詞がかわっていた。
『顔の強い女が、繊細な男を見つけたが、興味を持った瞬間、彼がくすんで見える。触れたとたん嘘になる。本当のことが嘘になる。昨日の愛にアクが出ちゃってさ、やー…』そんな内容が入ってる。

 プロデューサー曰く、「ミュージシャンは因果応報の頂点にいるんだよ。100%無罪だよ。みんなで一緒に天に打ち上げるんだ。愛の不条理をさ。曇りのない心でもってね」こんな感じで導かれています。 コウタローより。

 窓の外で降る雪。触れなければわからないその冷たさは、大人になることがどういうことかを知らせる。
「頑張れ民主主義」
 誰かが耳元でささやいた。
「嘘をついてもいいんだ」

―導火線に火をつけてあげる

 どんな花火になるだろう。

「導火線の話か?」おっちゃん言った。「火がつく瞬間な。それで、みんな主人公だと思っちまうんだ。俺、ここしばらく朝九時に火ぃ着くのよ。朝ダチ」笑っている。「ちまたの噂ではよ、ホームラン打たすと金がもらえるのよ」
「それ、何の話ですか?」
「超能力よ」
「どこのだれの話」
「キャバクラで聞いた。この前、来た客が『ホームラン打て』って念じたら、ホームラン打ったちゅうんだ。プロ野球の話よ」
「金は、どこから?」
「ギャンブルよ。神の声に従ったら当たる。来るッちゅうのよ。その金で遊んでるらし。いい事すると金がもらえる。因果の話」
「ボイスですか」と、俺は訊く。
「ボイスって何よ」
「昔の映画にあったんですよ」俺は『砂の惑星』を思い出していた。その映画があったから、少し霊感を信じている。頭の片隅に火がついて念が出ちまったおっさんを想像する。
「心で念じると、その通り人が動くんですよ」
「そいつは主人公か?」
「誰がですか?」
「その、ボイスってやつ」
「ええ」と俺は答えた。「今頃その人、何しているんですかね」
「テレビに向かって『チンポ出せ』って念じているのよ」おっちゃんは苦痛らしいものを、ウィスキーを吟味するように味わっている。「主人公の苦しみを知っているか?」とたずねられた。「自分の感動をすべて捧げるのさ」
 俺は黙って、ジントニックを作っていた。若いバーテンが教えてくれたんだ。氷の下を持ち上げるようにかき混ぜるんだ。かき混ぜすぎたら炭酸抜けるからね。ジントニック。松の実。
「感動を、感性をすべてあげちゃうの。そこには快楽があるわな」
「心地良いんですか」
「何が?」
「感動もらって…」
「そんなもん気持ちよくなければ受けとらんべや。受け取った奴らはむさぼった。甘い木の実を食べるみたいに、踊り狂った。ヤリにヤリまくった。セックス。薬。快楽に溺れ足らずに、さらに火を注いでな。そこで俺は感じてたんだわな。快楽をむさぼるのが罪といえる世界は、人間に瑕疵があるからだ。快楽は人間の心が神に届く時に現れる。不完全な人間のそいつは神様の鼻をつき、その人間の人生を変えちまう。二度と、君は私のところに来るなってさ。俺はそれを感じていたんだな。人間の悪の部分をずっと感じてたんだ」
 俺はテツさんに『カシ』って何ですかと訊いた。『欠陥』と教えてくれた。
「いま、俺が酔えないのは、誰かが人生に酔っているからだ」
 おっちゃんはもう何杯ウィスキーを飲んだか。顔が青白くなっている。
「いま、あげてるんですか?」
「いまもあげてる」
「苦しいんですか」
「後頭部のあたりがな。そこはスポーツバカにあげちまった」
 俺は、汗だくのおっちゃんが舞台の上で激しくタップを踏んでいるところを想像した。おっちゃんはもしかすると童貞なのかも知れない。
「足を痛めてなお走り続ける、マラソンランナーに感動した」
「感動あげたんじゃないんですか?」
「いや、それで知ったんだ。心を捨てて頑張ると、人を感動に導くんだなと」
「それが…それが」
 おっちゃんは自分の胸に指を立てた。「全部捨てちまった」すわった目でつぶやく。「みんな金メダル…優勝請負人…」
「えっ? 何ですか?」
「今なら、レイプが罪だって言えるな」
 俺は、過去に捨てちまった物を探してみた。強く探らないと思い出せなかった。嘘をついたときの罪悪感は捨てちまったかな。その感覚は愛とセックスに混じりあって見つけることが出来なくなっていた。国境の線はますます曖昧にみえる。
「他人にあげちゃうんだから、自分は空でしょ? 感じますかね」
「失うことの恐ろしさ知らんのか」
 俺は、鎌田さんを思い出す。確か、何かを奪って行った気がす る。
「感性を失くして生きる意味を知らんのか」おっちゃんは目を丸々と開いて言う。「それはな…サンドバッグに訊いてくれ」
「おっちゃん。目尻が重力に負けてますよ。米神の所キュッと持ち上げてみてくださいよ」おっちゃんは指で目尻を上げる。
「イイッスね」俺は笑顔を作る。

 俺は裏でまかないを食べている。メールをチェックする。

 変わらない一日をひたすらに過ごすのは、境目のない世界を想像するぐらいのお馬鹿さんを生むよね。

 大人になれば、空気と馴染みが良くなるからだよ。サブロー

「お前らみたいのがいるから眠れねぇんじゃねぇか!」と怒鳴り声が聞こえた。ガタガタとテーブルが音を鳴らす。喧嘩が始まったらしい。
 俺はそれに背を向けて、まかないの五目あんかけを食べて思う。ウォン・カーウァイの『天使の涙』のラストシーンみたいだね。
『主人公』自分の中にあるような気がする。その主人公の魂。体に密着したこの生存している感覚。四肢に脈々と通う魂のエネルギー。それを人にあげる。その心、傲慢。俺の感性は他人にも通じるはずだと思う心、俺にもある。想像で俺はダイブする。観客の波に揉まれて気持ちがいい。人生すべて預けてしまう心持。目を閉じてなすがままの自分を想像して、「ゆったりしている場合じゃないぞ」とフロアに飛び出していった。そこには痛みがあるのだ。

 おっちゃんが若い男に挑んでいた。若い男はテカテカ光った短髪で、スリムなスーツを着て身なりがよかった。おっちゃんはステップを踏んでワン・ツーを繰り出す。それを若い男がパーリングで叩き落す。おっちゃんが間合いをつめると、若い男は前蹴りでおっちゃんを吹っ飛ばす。そんなことを繰り返すうち、おっちゃんの息があがってきた。そこに若い男が踏み込んで、左右の平手打ちを食らわした。俺は「骨法か」と、心の内でささやいた。おっちゃんはしりもちをつき、ふわふわとした目が死んでいた。その脇にでぐの坊が立っている。
「誰か連絡したんですか?」と、俺はテツさんに訊いた。
「いやぁ…」テツさんはボックス席で眠るオーナーを見た。
「もう、誰か連絡してますよ」俺は、店のガラス戸の向こうに立つ女を指した。彼女は携帯に耳をあてている。
 テツさんが下げた灰皿には数本の吸殻。くしゃくしゃにしたタバコのパッケージには見慣れない絵がある。もしかして大麻タバコ? 女の手を引いて店を出てゆくオーナーは、浪人生のようにダサかった。

 警察が来て事情を聞いている。マネージャーが説明をしている。
常連さんは、随分酒が入っていた。揉め事を起こしたのは常連さんで、相手は三人。二人は年齢五十過ぎで、さっき逮捕された若い男の上司みたいだった。上司の一人が携帯で大声を出していた。「ハチケイ? ハチケイ? でかい仕事するね」と、言ってメモ帳に何かをメモしていた。逃げた二人は初めての客で、面識は誰もなかったと思う。
でぐの坊にも質問している。
「君が止めに入ればよかったのに」と警官が言った。
「男には闘う心が必要なのです。優しさも、奥深さも闘った男の勲章からくるものですから」仁王立ちである。
 警官はうなずいている。馬鹿だとわかったのだろう。
「あなたたちは、そそのかしたり、煽ったりしませんでしたか。何か勘違いを生むような事、言いませんでした?」
 俺に聞くから、体が硬くなった。責任が自分に及びそうになると急におっちゃんに対しての同情が失せた。
「いえ、僕は裏でまかない食べてましたから」すまんね、おっちゃん。

 店が早く閉まった。看板を引っ込めに行ったら、ぼた雪が降っている。二月の雪は春の知らせ。
「ハチケイって何のこと?」
「数字の『8』と、アルファベットの『K』じゃない」
「『K』って何よ?」
「キログラム…キロバイト…『千』の意味じゃないですか」
「8K。八千万?」
「でかいね」
「でかいね」
 そんなことをスタッフのみんなで話していた。
「すいません。有線のチャンネル変えていいですか?」と訊いたら。「いいよ」と店長が言った。俺は裏に回り、チャンネルを変えて、リクエストの電話をした。
「四曲後にかかります。ありがとうございました」と、女の人が電話を切った。もう、彼らの曲が出ているのだ。

 空気の晴れた店内で、俺はグラスを磨いた。立ち姿、目線の柔らかさ、指先の作法。どれも好ましい。磨き終わったグラスをライトにあてて思う。『バーテンで作詞家』悪くない。ウィスキーグラスにワイルドターキーを入れて味わう。

 大人になったらわかると言われた
 強い酒で唇を濡らして
 
人間のつくる社会の複雑で生きるには
 この酒を受け入れるほどの
 忍耐力が必要だと知る

 感度のいい頭を持った人々が
 病んでいったことにも納得がいくじゃないか

 この酒を楽しむ心が
 昼間の傷を癒してくれる
 酒で消える痛みは多く
 酒があぶりだすは自らの瑕疵よ
痛みは酒で循環している

 強い酒が話している
 君の中の雑味は
 若いうちは魅力だが
 近い将来醜い皺に変わるぜ
 俺の二日酔いみたいにね

 僕は上手いことを言う酒に
 チョコレートを加えて
 入水自殺の香りを知る

 グラスを棚にしまうとき、隣のグラスにぶつかって『キィィン』と高い音で鳴った。
「いい声出すじゃない」と俺は言った。
 
 

 
後書き
落選。 
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