月見草
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第一章
第一章
月見草
「わしはあれじゃ」
野村克也はいつも自嘲めかして言っていた。
「月見草や」
「月見草ですか」
「そや。長嶋がひまわりや」
そのミスタープロ野球である。言わずと知れたスーパースターだ。
「あれが大輪のひまわりや。それに対してわしは寂しく咲いてる月見草や」
その野暮ったい顔でいつも言っていた。それで誰もが彼を月見草と言うようになった。
彼は南海の正捕手だった。テスト生から入り解雇される危機を超えて何とかレギュラーになった。
相手の研究を続けバッティングもキャッチャーとしても評価を得た。結果も残した。南海の不動の四番として打ちまくった。まさに大選手だった。
しかし当時はマスコミ全盛期である。その呆れるまでに長く栄華を誇りそれ以上に腐敗し堕落しきったマスコミの黄金時代であった。その腐敗し堕落しきったマスコミが持て囃すのは巨人であった。
その巨人の看板選手は最早言うまでもなかった。長嶋茂雄である。
攻守に渡り華麗なプレイを見せここぞという時に打つ。彼は確かにスーパースターだった。
しかし野村はそれに決して劣っていたわけではない。だが世の人はマスコミを信じる。だから長嶋ばかり見て野村が見られることは少なかった。
「わしはいつも二番手や」
そしてこうも言う野村だった。
「何でもかんでも二番手なんや」
まずはキャッチャーというポジションがそうだった。田淵幸一の様に天性のスターならともかく野村は野暮ったい。それではキャッチャーになっているとどうしても目立たない。ただピッチャーのボールを受ける壁役としか思われないのが当時の実状であった。
南海のスター選手は杉浦忠だ。長嶋と同じ立教大学出身で黒縁眼鏡の知的な外見の美男子だ。華麗なアンダースローから繰り出されるストレートとカーブ、シュートは極めつけだった。まさに大投手でありスターであった。その彼がまずいたのである。
野村は四番だったがやはり杉浦には大きく劣った。誰もが認めるところだった。
南海の監督であり監督を退いても関西球界に大きな発言力を持った鶴岡一人も杉浦を可愛がった。それに対して野村には冷たかった。
結果として野村は自分を月見草と言うようになった。どれだけ結果を残してもその結果通りに評価されない。そう強く意識していた。
しかしであった。見ている者はいた。それは。
西本幸雄であった。大毎、阪急の監督をしていた彼は野村と常に対峙してきた。その彼は野村を見てこう言ったのである。
「あれだけ見事な選手はおらん」
敵としてでなく選手として、野球人としての野村を見ての言葉である。
「ああいう選手にならなあかんのや」
こう言うのだった。そして監督としての彼も見てまた言うのだった。
「手強いで。あれは」
「何や?西本さんはわしにお金でも借りたいんか」
野村は西本が自分を褒めているということを聞いて笑って言った。
「わしはお金は貸すことはせんで。それはな」
「西本さんってそういう人ですか?」
「他の人からお金借りたいします?」
「いや、それは」
そう言われるとだった。野村もこう返した。
「ないな。あの人はそういう人やない」
「それにお世辞も言いませんよね」
「そうしたことも」
「そやな。そやったら」
ここでわかったのだった。実は最初からわかっていたのだが。
「ほんまにそう思ってるんやな、あの人は」
「見ている人は見ているってことですかね」
「西本さんは」
「わしみたいなモン見ても何もないで」
それでもこうした言葉を出すのが野村だった。
「まあ西本さんはお姉ちゃん見るような人でもあらへんけれどな。けれどわしなんか見てほんまに何考えてるんやろな、あの人も」
また自嘲めかして言うのだった。その西本とは何度も戦った。しかしお互いに何かを話す機会は少なかった。敵味方に分かれていたことが大きかった。
やがて西本は阪急から近鉄に移った。この時野村はぽつりと言った。
「阪急がもう一つできるわ」
当時阪急はパリーグの強豪球団だった。その強豪がもう一つできるというのだ。
「近鉄は変わるで。これでな」
「阪急みたいにですか」
「変わるんですね」
「西本さんは本物や」
またぽつりと言ったのだ。
「あの人で変わらんことはあらへん。近鉄はつようなんで」
その言葉通り近鉄は次第に、確実に強くなってきていた。結果はまだ満足には出ていないがそれでも強くなってきていたのは間違いなかった。
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