ついでに引退
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第一章
ついでに引退
福本豊といえばまさに誰もが知っている選手だった。
阪急ブレーブス、いやプロ野球最高のトップバッターと言っていい、十三年連続盗塁王に千盗塁、まさに前人未到の記録だ。
小柄だがバッティングもよく守備もいい、二千本安打に何度もゴールデングラブ賞を受賞している。外野手としてもかなりのものだった。
だが、だ。福本自身はというと。
「国民栄誉賞ですか」
「はい、千盗塁を達成されましたから」
親しい記者が福本にこのことを話すのだった。
「そんな話が出てますよ」
「あはは、そんなんいりませんわ」
福本は明るく笑って記者に答えた。
「別に」
「いいんですか?」
「だって国民栄誉賞って何か大層ですやん」
「それはそうですね」
相当なものであることは言うまでもない、その大きさはかなりのものだ。
「確かに」
「そんなん貰ったら立ちしょんも出来ませんやん」
「立ちしょんですか」
「そやないですか、そんな大層なもんもらったら」
こう明るく言うのだった。
「いりませんわ」
「そうですか」
「わしはそんなんいりませんわ」
その屈託のない顔での言葉だ。
「別に」
「そうなんですね」
「このまま気楽に生きていたいですから」
「だからですね」
「そういうことですわ」
こう言うのだった、国民栄誉賞だのそういうものには興味のない屈託がなく飾らない性格だった。それ故にファン達からも愛されていた。
だがその福本も年齢には逆らえない、年齢が来れば衰えていくのがスポーツ選手の逃れられぬ宿命だ。
まずは彼がタイトルを独占していた盗塁王、これからだった。
十三年連続で手に入れたタイトルがだ、遂に。
近鉄の一番セカンド大石大二郎に奪われた、昭和五十八年のことだ。
昨年新人王も獲得している若きトップバッターの盗塁を守備位置のセンターで観た後にだ、福本はベンチに戻ってこう言った。
「わしより凄いわ」
「えっ、フクさんよりもですか」
「凄いんですかあいつ」
「若い頃のわしより凄いかもな」
シーズン百六盗塁を達成したその頃の彼よりもだというのだ。
「あの盗塁は」
「いや、それでも盗塁王は福本さんですよ」
「今年も」
「甘いわ、あいつはわし以上やで」
少なくとも今の自分以上だというのだ。
「まだいけると思うてたけどな」
「今年はですか」
「盗塁王は」
「あかんわ、あいつに取られるわ」
明るいが何処か寂しい笑顔での言葉だった。
「残念やけどな」
「まさか福本さん以外の奴が盗塁王になるなんて」
「嘘みたいですな」
「何言うてるんや、王さんかてずっとホームラン王ちゃうかったやろ」
王も最後の三年はホームラン王にはなっていない、三十八歳からは。
「わしも一緒や」
「最後まで盗塁王でいられないですか」
「フクさんも」
「わしも歳やしもっと凄い奴も出て来るわ」
それが自分の目の前で見事な盗塁を決めた大石だというのだ。
「スポーツってのはそういうもんや」
「ううん、そうですか」
「そういうものですか」
「まあ長い間盗塁王やったし」
欲のない顔でだ、福本はこうも言った。
「満足しとかなあかんな」
今は守備位置、セカンドにいる大石を見ての言葉だった。外野と内野の違いはあるが大石は守備も見事だった、彼はそこにも世代交代を見ていた。
その守備もだ、やがて。
監督である上田利治にだ、直接言われたのだった。
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