銀河英雄伝説~悪夢編
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第五十三話 忠告は遅かった
帝国暦 489年 4月 8日 オーディン カール・グスタフ・ケンプ
家に帰ると妻が“お帰りなさい”と言って出迎えてくれた。
「子供達は眠ったのか」
「ええ、ほんの少し前まで貴方の御帰りを待っていたのですけど……」
「そうか、残念だな」
少し飲み過ぎたか、いや話しが弾み過ぎたな。次はもう少し早めに切り上げよう。上着を脱ぎ、居間で寛いでいると妻が冷たい水を持ってきてくれた。
「今日も憲兵隊が来ていたのか?」
「はい」
「そうか、色々と不自由かもしれんが我慢してくれ」
「いいえ、守って頂けるのですもの、有難い事だと思っています。それより貴方は大丈夫なのですか?」
妻が不安そうな表情をしている。
「まあ心配はいらん。俺達は殆ど一人になるという事が無いからな。それに一応は白兵戦技を学んでいる。女子供に負ける様な事は無いさ」
「それなら宜しいのですけど」
いかんな、良い女房なのだがちょっと心配性なところが欠点だ。それだけ情が濃いという事なのだろうが。
「何時まで続くのでしょう?」
“護衛の事か”と訊くと妻が頷いた。
「はっきりとしたことは言えん。帝国はアルバート・ベネディクトの引き渡しをフェザーンに対して要求した。フェザーンがそれに従えば警備は解除されるのではないかと思うが……」
妻の表情が曇っている。そうそう簡単にフェザーンがベネディクトの引き渡しに応じることは無いと考えているのだろう。その通りだ、何と言っても海千山千のフェザーンなのだ、一筋縄では行かない。引き渡しを要求しているのはオスマイヤー内務尚書だがフェザーンの対応にかなり手古摺っていると聞いている。
「最高司令官閣下は如何お過ごしですか?」
「うん……」
「伯爵夫人がお亡くなりになられて……」
「まあ心配はいらん、執務に精を出しておいでだ」
心配はいらない、ケスラー憲兵総監も言っていた。最高司令官は極めて冷徹だと。
「ですが、あのような……」
「已むを得ん事だ。お前は女だから酷い事だと思うのかもしれんが、最高司令官閣下はあれを行う事であの女の後に続く者を防ごうとしたのだ。我々を守るために行った事、非難は許さんぞ」
「はい、申し訳ありません」
“帝国の安全を守り皆の安全を守るためなら私は悪評など恐れはしません。権力者に必要なのは信頼される事であって愛される事では無い。その覚悟の無い者は権力など求めるべきではない”
ケスラー憲兵総監から聞いた、最高司令官はそう言ったそうだ。海鷲(ゼーアドラー)で飲んでいる時だったが皆が沈黙した事を覚えている。閣下の言う通りだ、俺は最高司令官を信頼している。いや、信頼出来る。
「身辺には注意しろ、気が付けば俺も上級大将だ、お前や子供達が狙われる可能性は有る」
「はい、気を付けます。子供達にも注意しておきますわ」
「うん……」
「貴方?」
妻が訝しげに俺を見ている。
「いや不自由になったものだと思ったのだ」
「……」
「昔は出世したいと思ったが今思えば何も分かっていなかったな」
俺の言葉に妻が頷いた。妻も出世する事の窮屈さを感じているのだろう……。
帝国暦 489年 4月 10日 フェザーン 自治領主府 ラインハルト・フォン・ミューゼル
「ケッセルリンク補佐官、アルバート・ベネディクトの引き渡しの件、フェザーンはどのようにお考えかな?」
俺が言葉をかけると正面に座ったルパート・ケッセルリンクは愛想の良い笑みを顔に浮かべた。もっとも目には何処かこちらを馬鹿にしたような光が有る。慇懃無礼という言葉を人間にすれば目の前の男になるだろう、好きになれない奴だ。応接室に通されてもこいつが相手かと思うとウンザリする。
「帝国政府からの要請ですから当然重く受け止めています。それにミューゼル少将にとってはグリューネワルト伯爵夫人はたった一人の肉親と聞いています。なんとかお気持ちに沿いたいとは思いますが……」
「……」
「少々難しいと言わざるを得ません」
少々? 物は言い様だな、ケッセルリンク。姉上の事を口にしたのは俺を挑発するつもりか? 今回でお前と話すのが何度目だと思っている、もうその手には乗らん。というより今では姉上を殺された悔しさよりお前に対する腹立たしさの方が上だ。
「難しいと言うと?」
「エルフリーデ・フォン・コールラウシュですか、いささか取り調べが強引ではありませんかな。自白したという事ですが信憑性に欠けます、それだけで引き渡す事は……」
ケッセルリンクが首を横に振っている。
「つまり引き渡しは出来ないと」
「そうは言いません。アルバート・ベネディクトが伯爵夫人の殺人に関与しているのであれば帝国に御引渡しします。そのためにもこちらでベネディクトを調べたいと思います。もう少しお時間を頂きたい」
ようするに帝国は信用できないというわけだ。アルバート・ベネディクトに冤罪を着させようとしている、そう言いたいのだろう。確かにあの捜査方法は非道だと非難されても仕方ない部分は有る。いかにもあの根性悪の最高司令官が行いそうな手段だ。
しかし自白が嘘だとは思えない。俺が調べてもアルバート・ベネディクトとフェザーン自治領主府は密接に繋がっている形跡が有る。フェザーンの依頼で最高司令官を暗殺して帝国を混乱させようとしたのは間違いない。連中にとって予想外だったのはあの女が姉上を標的にした事だろう。
いずれ証拠不十分、或いは冤罪だとして引き渡しを拒否するか、正面から帝国に敵対するのは拙いと考えてアルバート・ベネディクトを反乱軍の領内に逃亡させるか、そのどちらかだ。おそらくは後者だろうな。一つ釘を刺しておくか……。
「ケッセルリンク補佐官、忠告しておこう」
「忠告、ですか」
「あまり帝国を、ヴァレンシュタイン最高司令官を甘く見ない事だ。敵対する者に対しては容赦のない方だからな。今の反乱軍の混乱ぶりを見ればよく分かるはずだ」
ケッセルリンクがこちらをじっと見た。負けるものかと睨み返す。お前達も性格が悪いだろうがあの男の性格の悪さには及ばない。舐めてかかると痛い目に遭うぞ。
「……御忠告、確かに受けたまわりました。気を付けましょう」
応接室に沈黙が落ちた。お互いに相手の顔を見ている。どちらかが視線を外すか、言葉を出すべきなのだろうが黙って目を逸らすことなく相手を見ていた。どのくらい睨みあっていたか、暫くするとトントンとドアをノックする音が聞こえた。二人ともドアに視線を向けそしてまた相手を見た。
「申し訳ありませんが少し席を外します」
そう言ってケッセルリンクが席を立った。彼がドアを開け外に出るのを見てから大きく息を吐いた。何が起きたのかは知らないが奴が困る事なら大歓迎だ。意地悪くそう考えているとケッセルリンクが部屋に戻ってきた。顔が幾分強張っている。良い兆候だ。
ケッセルリンクが俺の前に座った。眼が据わっている、何が有った?
「ミューゼル閣下、残念ですがフェザーンはアルバート・ベネディクトを帝国に引き渡す事が出来なくなりました」
「……どういう事かな、ケッセルリンク補佐官」
帝国を完全に敵に回すつもりか、思わず声が低くなった。
「アルバート・ベネディクトが死んだのです」
「死んだ?」
「そうです、彼が乗っていた地上車が爆発しました。粉々に吹き飛びましたから遺体をお渡しする事も出来ませんな」
死んだ? 爆発? 自然死じゃない、暗殺……。
「口封じか! 卑怯な……」
俺の言葉にケッセルリンクが首を横に振った。
「自治領主府は何もしていません、何者かが我々の仕業に見せかけて謀殺したのだと思います。ベネディクトは敵が多かったですから」
フェザーンでは無い? 信じられんな。しかしアルバート・ベネディクトに敵が多かったのは事実だ。ケッセルリンクが俺をじっと見ている。何だ?
「思い当たる節が有るのではありませんかな、ミューゼル少将」
思い当たる節? ……まさか、帝国だというのか?
「帝国にはそのようなものは無いな。卿こそ思い当たる節が有るのではないか?」
またケッセルリンクが首を横に振った。
「私にも有りません、妙な言いがかりは迷惑です」
「卿に無くてもフェザーンが無関係だという事にはなるまい。違うかな、ケッセルリンク補佐官」
“補佐官”、その言葉に多少力を込めるとケッセルリンクが俺を睨んだ。
「それについては帝国も同様では有りませんかな、ミューゼル少将」
多少の睨みあいと嫌味の応酬を交わした後、自治領主府を後にして高等弁務官府に戻った。アルバート・ベネディクトを殺したのは誰か? ケッセルリンクの言葉が事実なら帝国という可能性も有る。俺が指示を出していない以上、命じたのはオーディンのあの男だろう。あの男ならやりかねない。
しかし俺の指摘した可能性も有るはずだ。ケッセルリンクは補佐官であって自治領主では無い。ルビンスキーが全ての秘密をケッセルリンクと共有しているとも思えない。そういう意味では腹立たしい事だが俺もケッセルリンクも帝国とフェザーンの駒の一つでしかない。
部下達にベネディクトの爆殺の事実確認を命じてからオーディンに通信を入れた。直ぐにあの男がスクリーンに映った。この男が姉上に護衛を付けていれば姉上は死なずに済んだはずだ。最初に報せてきた時は気が付けば罵声を浴びせていた。上官に対する対応では無かっただろう。
しかしこの男は何も言わなかった。黙って聞いていただけだ。何故、この男は何も言わないのか? いや何故この男は必ず自分で連絡を入れるのか? 嫌な仕事なら部下に押し付けても良さそうなものだが……、まさかとは思うが俺の反応を楽しんでいる?
『どうかしましたか?』
「アルバート・ベネディクトが死にました」
俺の言葉に最高司令官は僅かに考える様なそぶりを見せた。驚いた様子は無い、それを見ればスクリーンに映るこの男が暗殺の指示を出したようにも思える。もっとも俺はこの男が驚いた所を見た事が無い。また思った、一体誰がベネディクトを殺したのか……。
『自然死ですか?』
「いえ、爆殺です。地上車ごと爆破されたそうです」
『……間違い有りませんか?』
「?」
『地上車に乗っていたのはアルバート・ベネディクト本人だったのかと訊いています』
なるほど、身代りという可能性も有るか。
「小官もケッセルリンク補佐官から聞いただけで見たわけではありません。現在、事実確認をさせています」
『なるほど』
相手が頷いた。
『事実なら口封じ、という事ですね』
「ケッセルリンク補佐官はフェザーンでは無いと言っていました。むしろ帝国ではないかと疑っておりましたが……」
俺が探りを入れると最高司令官が笑みを浮かべた。
『自分が殺したなどと素直に認める人間がいるとも思えませんが』
確かにそうだ。もう一歩踏み込んでみるか。
「閣下は何者の仕業と思われますか?」
『さて、フェザーンか、帝国か、或いはそれ以外か、何とも言えませんね』
ヴァレンシュタイン最高司令官は帝国を外さなかった。自分が手を下した可能性を否定していない……。
「それ以外、と言いますと?」
『例えば商売敵やフェザーンに居る門閥貴族の遺族が考えられます。エルフリーデ・フォン・コールラウシュが利用されたと知って報復した、可能性は有るでしょう』
ベネディクトを殺したがっていた人間は俺が考えるより多いようだ。
『ミューゼル少将は何もしていませんね?』
俺? 驚いて最高司令官を見た。相手は笑みを浮かべて俺を見ている。
「小官を疑っておいでですか?」
『アルバート・ベネディクトが死んだ以上、エルフリーデ・フォン・コールラウシュを生かしておく必要は無くなりました』
「……」
『少将にとっては一石二鳥ですね。ベネディクトを始末する事で実行犯であるエルフリーデも始末することが出来る……。動機は有るでしょう』
そうか、そういう見方も有るのか……。先程帝国を外さなかったのは自分では無く俺を疑っての事か……。
「小官はこの件に関しては一切無関係です」
幾分強い口調で言うと最高司令官が軽く笑い声を立てた。
『そうですね、ミューゼル少将は本件には関係無い、分かっています』
分かっている? スクリーンに映る最高司令官は笑みを浮かべているがその笑みが意味有り気に見えるのは気のせいだろうか。俺を見張っていた? 或いは暗殺の指示を出したのはケッセルリンクの言う通り……。最高司令官が笑みを消した。
『帝国の立場ははっきりとしています。今回の一件、フェザーンがアルバート・ベネディクトを利用して帝国を混乱させようとした。それを闇に葬るためにフェザーンが口封じをした、そういう事です』
「……」
強くは無いが冷たい口調だった。
『まあこれで自治領主府に協力する馬鹿な商人は減るでしょうし貴族達も危険だと認識するでしょう。そうは思いませんか』
「小官もそう思います」
全てが分かった。この男はフェザーンがアルバート・ベネディクトの事を引き渡すなどと期待してはいなかったのだ、最初から奴を殺すつもりだった。
引き渡しを要求したのはフェザーンが口封じをしたと皆に思わせるためだ。フェザーンが引き渡しを渋れば渋る程ベネディクトが事件の黒幕であると、フェザーンがそれに関与していると皆は思うだろう。そして口封じの疑いは強くなる。ケッセルリンク、どうやら俺の忠告は少し遅かったようだな。お前達はこの男を怒らせてしまった。これからどうなるかはオーディンのみが知る事だろう。
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