剣の丘に花は咲く
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第十章 イーヴァルディの勇者
第七話 矛盾が消えるとき
前書き
士郎たち一行潜入開始。
ハルケギニアの大国ガリアにある数多の城の中でも、アーハンブラ城ほど珍しい城はないと言っても良かった。何が珍しいのかと言えば、幾つもあるが、特に珍しいのは、アーハンブラ城は人の手によって造られたものではなく、エルフの手によって造られたという点である。
元々はこの砂漠の小高い丘の上に建てられたアーハンブラ城は、今から千年前ハルケギニアの聖地回復連合軍が多くの犠牲をもってエルフから奪った城であった。アーハンブラ城を奪った聖地回復連合軍は、その先に国境を制定し、半ば強引にエルフたちにそれを認めさせることに成功した。エルフとの国境の境に建つアーハンブラ城は、それから千年の間、幾度となく行われた聖地回復と言う名の下に行われた戦いの拠点として使われ、戦いの度にエルフに取り返されたり奪い返したりを繰り返された。しかし、生地回復連合軍がアーハンブラ城を奪い返した数百年前の聖戦が最後となり、現在はガリア王国の城の一つとして扱われていた。その聖戦が行われていないこの数百年の間、アーハンブラ城は城砦としては規模が小さいという点により、軍事上の拠点から外れたために、今では城は廃城として扱われるようになってしまったが、城が建つ丘の麓に広がるオアシスがあったことから、段々と宿場が増えていき、今ではそれなりの大きさの交易地となっていた。
エルフの手による細部まで作りこまれた幾何学模様の彫刻が刻まれたアーハンブラ城の城壁は、夜の空に輝く満点の星と二つの月の光を受け、淡く幻想的な光を発していた。そんな光に照らされた、異国情緒に満ちたアーハンブラ城の麓に広がる宿場町にある小さな一軒の居酒屋『ヨーゼフ親父の砂漠の扉』亭に訪れる客の口からは、最近アーハンブラ城についてのある噂がよく酒の肴としてよく口に上がっていた。それも旅行客や旅の者の口からではなく、この宿場町に住む地元の者の口からであった。
いくら古くエルフが建てたとは言え、アーハンブラ城は既に廃城であり、異国の者ならばともかく、地元の者にとっては見慣れたものであるため、わざわざそれが話題になることはなかった。では何故そんなことになっているのかといえば、つい先日のことであるが、王軍の一部隊が城に入城したためである。
酒の肴として上がるくらいである。アーハンブラ城の噂は幾つもありそして突飛なモノが多かった。
そんな中、一人の商人が、酒を片手に店の主人に顔を寄せにやにやと笑いながら声を掛けていた。
「なあなあ親父知ってるか? 今噂で持ち切りのアーハンブラ城に兵士がやって来た理由をなぁ」
居酒屋の主人はグラスを拭きながら、カウンターの向こうを横目でチラリと見る。商人の顔はこれまで飲んだ酒により顔が赤く染まり、目は揺れて濁っていた。主人は内心溜め息を吐きながら商人に顔を向ける。こういう手合いは相手をすれば際限なくぐだぐたと話し続ける―――とは言え、無視をするのは客商売として駄目だ。そのため、主人は内心溜め息を吐き続けながらも、商人が望む答えを返す。
「知らないね」
「そうかそうか。なら教えて差し上げようかな。ここらのもんは何やら宝物でも発掘しに来たんじゃないかと言ってるがね。実を言うとなぁ~~」
「はいはい」
顔を商人に向けても視線は手元のグラスに落としたままで、居酒屋の主人は商人の言葉にうんうんと頷く。明らかに話を聞いていない。
これは商人の話が興味がないという以前に、若い頃は旅を続け苦労の末に居酒屋を開いた主人は、余計な好奇心は身を滅ぼすということを身をもって知っていたからだ。
「ん~どうしようなぁ~そうだなぁ~一杯奢ってくれるなら、話してやってもいいけどなぁ~」
「結構だ」
「ちっ」
商人は先程までの酒に酔った姿から素面に一変させると、舌打ちを一つ打ち顔を背ける。それを横目で見た主人は、これだから油断が出来ないと溜め息を飲み下す。話は終わりだと主人が拭き終えたグラスを置くと、新たなグラスを手に取る。商人は手に持ったグラスに残った酒の少なさに大きく息を吐く。そんな時、商人の横に座った砂塵よけのフードがついたローブに身を包んだ女が座った。女は、商人が吐いたため息に被せるように、カウンターに肘を着けると隣りに座る商人に声を掛けた。
「あら、わたしは興味があるわ。ご主人。この方にエールを一杯差し上げて」
突然の女の声に主人と商人二人の視線が女に集まる。フードを被った女の顔は、フードの隙間から覗く褐色の肌と赤い唇しかわからなかったが、整った唇とほっそりとした顎のラインと、漂う香水と女の香りが混じった甘やかな香り、そして耳元を心地よくくすぐる蜜のような声に、客商売の二人の目が、女が相当の美人であると判断した。
思わず生唾を飲み込みながらも、主人は空になりかけた商人のグラスになみなみとエールをつぎ足す。その際、必要以上にカウンターに身を乗り出し、女の身体に視線を這わす。女の身体はローブに包まれていてもなお、その大きな胸が自己主張していた。その事に気付いた主人と商人の喉が再度動く。
「じゃあ、聞かせていただけます? 先程のお話を、ね」
誘うように長い足を組みながら、女はフードから覗く唇で弧を描いた。
「ざっとこんなものね」
商人から話を聞き出したキュルケが、士郎たち一同が座るテーブルの前に戻ると両手を広げてみせる。芸を披露した大道芸人のように両手を広げて喝采を望むキュルケに、士郎たちは賞賛の声と拍手をもって迎え入れた。士郎たちはキュルケと同じように、砂漠用のローブを羽織っている。
オルレアンの屋敷でタバサたちの居場所が判明した後、士郎たちは一週間を掛けてこの宿場町に辿り着いた。昨晩宿場町に着いた士郎たちが、まず最初に始めたのが情報収集であった。だが、貴族を主にしたこの一行で、情報収集が出来る人員はいるのかと疑問が浮かぶ。しかし、実際にこの一行での情報収集には、士郎とキュルケ、ロングビルと他一名の四人―――一行の半分以上が情報収集が可能であり、その四人での情報収集は上手くいき、今回キュルケが手に入れた情報により一応の終了となる予定であった。
「で、どうだったの?」
両手に持ったグラスに唇をつけ、ちびちびとその中身を飲みながらルイズが上目遣いでキュルケを見る。
「ん~、ま、これで間違いないことがわかったわ」
キュルケは空いた椅子に腰掛けながら、チラリと視線をカウンターに突っ伏し眠りこけている商人に向けた。散々キュルケに情報を搾り取られた商人は、最後には何時の間にか持ち金さえ搾り取られ最後には心も財布もカラカラに枯れ果ててしまっていた。
顔面の穴という穴から汁を流しながらカウンターに突っ伏す商人の姿に、キュルケは口元を微かに上に持ち上げると、匂い立つほどの色気を漂わせながら首を居酒屋の二階へと向かう階段に振る。
商人の財布と心を絞り枯らして笑うキュルケの姿に、若干身体を引かせたながらも士郎たちは椅子から立ち上がり、人目を避けるため二階へと移動を始めた。居酒屋の二階にとった一室に入ると、キュルケは部屋の隅に設置されたベッドに腰掛けながら士郎たちを見回した。
「タバサがここの城にいるのは間違いないようね」
「理由は?」
腕を組んだロングビルが壁を背に促す。
「あの商人が言うには、アーハンブラ城に駐屯する兵士たちはとある『貴人』を守るためにいるんだって。で、その『貴人』は没落した王族らしいけど、重要なのはそこじゃなくて、その『貴人』とやらが『親子』という点よ」
「その情報の確度はどうなの?」
ルイズが問う。
「高いでしょうね。商人は城に駐屯している兵士から直接聞いたそうよ」
「間違いない、か」
士郎が頷くと、タイミングを図ったように部屋の扉が開き、マリコルヌが入ってきた。
「ただいま。あ~全く苦労したよ」
片手に何枚もの羊皮紙を握りしめたマリコルヌは、部屋の中心に置かれたテーブルの前にある椅子にドカリと腰を下ろすと、テーブルの上に手に持った羊皮紙を投げ出した。
遠見の魔法や姿隠しの魔法等、情報収集に適した風系統のメイジであるマリコルヌは、宿場町に到着した時点で、士郎から魔法によるアーハンブラ城の情報収集を命じていた。上空からの情報収集に長けたシルフィードであるが、その姿ゆえ隠密をよしとする情報収集には適しないため、今も人間の姿で士郎たちに混じっていた。だが、人間に変身するのはかなりの消耗となるのか、何時もの元気は何処へやったのかキュルケが腰掛ける横で寝息を立て眠りこけていた。
「へぇ、中々上手じゃない」
テーブルに広げられた羊皮紙の一枚を手にとったロングビルが感嘆の声を上げる。羊皮紙には、アーハンブラ城と思われる城の見取り図が描かれていた。城の内部の絵は一枚もないが、外から確認できる城壁や中庭、天守や塔などが描かれている。細部まで事細かに描かれたそれは、ある程度の画力があることを示していた。
「まぁ。これも貴族の嗜みだしね。で、駐屯しているガリア軍のことだけど、あれは一個中隊どころの話じゃないよ。少なくても二個中隊はいたね。兵隊が三百に貴族の将校が十人ちょいってところじゃないかな」
「に、二個中隊って……」
マリコルヌの言葉に、ギーシュが青い顔でガクガクと身体を震わせる。
その横で平然とした顔で士郎がこくりと頷く。
「そうか、だがまあ、これで必要な情報は全て手に入ったな」
「でも三百人は多いわよ。こちらは全員メイジで、シロウもいるから倒すことは不可能じゃないけど、倒している間に援軍が呼ばれるだろうし、タバサを盾にされるかもしれない。別の場所へ連れ去られるかも……。救出のチャンスは一度しかないし……強行突破する?」
士郎の横に立つルイズが、チラリと士郎を見上げる。
「いや、それは危険だ。そう、だな。確か眠りの魔法があったな、それで城砦にいる全員を眠らせるか」
「眠らせるって、流石にそれは無理だよ。数が多すぎる。スリープ・クラウドを使っても全員を一度に眠らせることは不可能だし」
ギーシュが首を振り士郎の言葉を否定する。が、腰掛けたベッドをギシリと軋ませて立ち上がったキュルケが、壁に寄りかかったロングビルに視線を向けて口を開いた。
「眠らせるのは魔法だけじゃないわよ。でしょうロングビル」
「眠り薬かい? 用意は出来るけど、どうやって飲ませるつもり? 井戸に放り投げたとしても直ぐにバレるわよ」
「ん~ま、大丈夫じゃない? 大量の強力な眠り薬とお酒、そしてシロウの料理があれば、ね」
パチリとウインクしながら士郎に身を寄せたロングビルが笑う。
「眠り薬? 酒に混ぜるのか? しかし、兵士にどうやって飲ませるんだい?」
「だから大丈夫だって言ってるでしょ。あんたはいいから酒を買ってきなさい。ほら財布。全部使ってもいいからこの辺りの酒を買い占めなさい。あとマリコルヌ。引き続き城砦の監視をお願いするわ」
「へ? いやぼくまだ食事とっていな―――」
椅子に座ったまま顔を振り向かせ見上げてくるマリコルヌに、キュルケはすっと目を細め唇を歪ませる。
「あら? 豚が人間に歯向かうの?」
「ごちそうさまでしたああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~……」
破壊する勢いでドアを開け放ち飛び出していくマリコルヌ。ドップラー効果で残っていた声に喜色が混じっているように感じるのは間違いではないなと、マリコルヌが部屋を出て行く際、満面の笑みを浮かべていた顔を見た士郎が内心で溜め息を吐く。
「で、シロウは休んでて。後で色々やってもらうから今のうちに、ね」
「色々って」
「ま、色々よ。い・ろ・い・ろ」
「…………」
腕を胸で挟むように士郎の腕を抱きかかえたキュルケが、上目遣いでぱちりとウインクする。
士郎をベッドに引きずっていくと、キュルケは半ば強制的に士郎をベッドの上に転がす。
「はぁ、でお前たちはその間どうするんだ?」
「それでちょっと聞きたいんだけど、この前士郎が作ってくれたあの料理。あの潰れたパンの上にチーズが乗った……あ~……ま、その料理だけど、材料って小麦粉とチーズと……」
ベッドに腰掛けた士郎の前に立ったキュルケは、必要なことを聞き出すと、ロングビルとルイズを連れたって部屋から出て行く。
部屋に残った士郎は、顔を士郎側に向けベッドで眠りこけているシルフィードを見下ろすと、小さく溜め息を吐くとごそごそと横になった。
「ありがと、ね」
「……起きてたのか」
隣で寝ていた筈のシルフィードから瞼を開いて士郎を見る。士郎は顔を天井に向けたまま返事を返した。
「みんなお姉さまを助けようと凄く頑張ってくれてるのね。すっごくすっごく嬉しいのね。お姉さまも、きっとみんなが助けに来たって知ったら凄く喜ぶのね」
「そうか」
「そうなのね。お姉さま何時も黙ってるから冷たく見えるけどね。本当はとってもとっても優しいのね。お姉さまは何にも言ってくれないけど、でも、シルフィは知ってるのね。お姉さまがシルフィのことが大好きってことを……ね。シルフィはお姉さまの使い魔だから……伝わっているのね」
「ああ。そうだな……タバサは優しい子だ……よく……知ってる」
「…………ん……お、願い、ね……お、ねえ、さまを……救って…………」
部屋の中に、小さな寝息が一つ……響き始める。
横から聞こえる微かな寝息を耳に、士郎は天井を見つめていた目の上に、瞼を被せだす。
「救う……か…………救うさ……救ってみせる……俺は……正義の味方だから、な」
買い出しのため、部屋から出たキュルケとルイズ、ロングビルの三人。居酒屋から外に出ると、ルイズは誰ともなくポツリと声をこぼした。
「シロウ……無茶しないかな」
「するでしょうね」
「そう、よね」
ジロリとキュルケの視線がルイズを見下ろす。
「そんな目で見ないでよ。最初からシロウが無理することは知ってるわよ……ただ……言ってみただけ」
「ふ~ん……ねぇ。どうしてシロウはあんなに無理をするのかしら」
「『正義の味方』になるため?」
「で、しょうね。けど、『正義の味方』かぁ~……父親との約束とは言え、何でシロウはそんなきついのを目指すのかしら。しかもただの『正義の味方』じゃなくて『全てを救う正義の味方』なんて矛盾したものになりたいって言うし……はぁ……全て……か」
キュルケが真上に登った二つの月を見上げ溜め息を吐くと、それまで黙り込んでいたロングビルがポツリと声を零す。
「『悲しい』からだってシロウは言ってたよ」
「え?」
「ロングビル?」
キュルケとルイズの視線が隣を歩くロングビルに向く。
ロングビルはキュルケと入れ替わるかのように夜空を見上げ双月を見つめ。煌々と輝く二つの月の姿に、眩しげに目を細めたロングビルの視界に、士郎の姿が過ぎる。
「一人でも見捨てたら自分がなりたい正義の味方になれないからって、ね」
「なりたい正義の味方って……『全てを救う正義の味方』のこと?」
「いいや……あれは……多分違うね……シロウはあの時、『悲しい』からだと言った……だから見捨てないと……」
「悲しいから見捨てないって……どう言う意味?」
眉を寄せながら唸り声を上げるルイズに、ロングビルは星空を見上げたまま溜め息を吐くように言葉を紡ぐ。
「さて、ね。シロウは『守りたいものがある』とは言ってたから……その守りたいものが答えだと思うけど……それが何なのかは……」
「守りたいものねぇ……命とか?」
「わからないさそんなこと。わたしにも……ただ、それを守ることがシロウが目指す『正義の味方』だってこと以外は……」
「『全てを救う正義の味方』がシロウの目指す『正義の味方』じゃなかったの?」
「シロウの中じゃ、同じ意味なんじゃないかい?」
キュルケとロングビルの話し合いを横に、黙り込み顔を伏せていたルイズが顔を上げる。
「『何をもって救った』……か」
「ん? 何?」
キュルケが小首を傾げる。
「姫さまから聞いたの。シロウは全てを救うと言うけど、その『救い』というのは、一体何をもって救ったのかって……」
「何をもって救った……か」
ルイズの視線を追うように、キュルケとロングビルも夜空に輝く二つの月を見上げる。
月は高く朧に輝き、しかし、その光は遍く夜を照らし出す。
三人は無言で空に手を伸ばす。
星の海に浮かぶ二つの月を掴むように手を伸ばした三人は、広げた手の平をゆっくりと握り締める。
「ん、でも……姫さまはこうも言ってたわ……」
ポツンとルイズは呟く。
「きっと満足いくと……シロウが目指す『正義の味方』の姿に……だからきっと大丈夫……シロウは……きっと大丈夫……」
双月を見上げる三人の口元には、何時しか小さな笑みが浮かんでいた。
翌日、日の光が傾き、その輝きが中天からズレ始める頃、アーハンブラ城の城門を守る二人のガリア兵のうち一人が、傾きだした太陽を仰ぎ見た後、大きな溜め息を吐いた。大きな溜め息をつく同僚に、隣に立つ兵士がその脇腹を肘で小突く。
「しっかりしろ」
「ちっ、いいじゃねえか」
「良くねえよ。あんまり気を抜いてると、『隊長』さまにやられてちまうぜ」
「ハッ。隊長ってあのミスコール男爵のことか? ないない、それはないな。あの色ボケ、こんな辺鄙な所に任務で押し込められてからずっと部屋に閉じこもって酒をかっくらってるからな。今も酒でも飲んでんじゃね?」
「俺が言ってんのはそっちじゃねぇ。…………人間じゃない方だよ」
門に寄りかかりながら耳の穴をほじくっていた兵士は、その言葉を聞いた瞬間、ビンっと背筋を伸ばして立ち尽くした。
「ちょっ、お前何言ってんだ。んなこと言っててあいつが来たらどうすんだよっ。~~~っ始祖ブリミルよ。我が魂を守りたまえ……」
「ふんっ、俺だって言いたくねえよ。しかし、あれがどこで目を光らせてるか分かんねぇからな……だけど……はぁ~……俺もミスコール男爵みてぇに酒でも飲んで気晴らしがしてえぜ」
「そりゃ残念だな。しばらく酒は飲めそうにねえってよ」
「は? そりゃどういう事だ?」
「昼間街に飯を食いに行ったらな、酒を出せねぇって。どっかの誰かが宿場町の酒を全部買い占めたってよ。そのせいで酒場に行っても酒が飲めねぇ」
「嘘だろっ! こんな辺鄙なとこで唯一の楽しみが酒じゃねぇかっ! はぁ、たくっ何処のどいつだよ、んな最悪な奴は……」
門を守る二人の兵士は、同時に溜め息を吐くと、門に倒れこむように寄りかかった。がくりと力なく垂れ下がった兵士の顔。二人の兵士の目の端に、一台の荷車が近づいて来るのが映った。
「おい」
「わかってる」
顔を上げ、宿場町に続く坂道を登り、段々と大きくなるその姿を視界に収めた二人の兵士は、門から身体を離すと手に持った槍を握り直す。樽をこれでもかと積み込んだ荷車は、ゴロゴロと重そうな音を立てながら近づいてくる。荷車の周りには、五人の奇妙な格好をした男女の姿があった。
荷車を引く五人の男女の中で最も背の高い男が、門の前で立ち止まる。
「何者だ? ここに何のようがあってきた?」
兵士の一人が、荷車を囲む一向に手に持った槍を向ける。と、向けられた槍の穂先をそっと手で押さえながら、一人の褐色の肌を持つ赤毛の女が進み出た。女が近づくにつれ、兵士は自分の顔が熱くなるのを自覚した。
「「……ごっくん」」
兵士は一瞬女が寝巻きを着ているのかと思ってしまった。寝巻きといっても、町娘が着るような厚い不格好なものではなく。娼婦が着る男を誘うような透けて見えそうなほど薄いネグリジェのような奇妙な服を着ていた。そのネグリジェのような服は、上は手首、下は足首近くまですっぽりと身体を包んではいる。しかし、上は肘から脇下まですっぱりと切れ込みがあり、女が動く度に女の柔らかく膨らんだ双丘が覗け、下は腰横までの深いスリットが入っており、動く度に女のスラリとした足が丸見えになってしまう。更には光の反射具合によっては、その下に着た下着? が透けて見えてしまっていた。
思わずグビリと兵士の喉が動く。
そんな兵士の姿に目を細め、口の端を微かに上げた女が優雅に一礼する。
「旅芸人の一座でございます」
顔を上げた褐色の女―――キュルケはにっこりと笑顔を浮かべる。
兵士の身体の足先から頭のてっぺんまでキュルケの視線がなぞられると、兵士はまるで、濡れた指先で触れられたかのような、寒気にも似た快感が背筋を走った。
「っ、そ、そんなのはみ、見ればわかる。だが、その旅芸人がここに何の用がある?」
「そんなの決まっておりますわ。わたしたちは旅芸人。皆さまに最高の芸と最高の料理をお届けに参ったのですわ」
「芸と料理?」
首を傾げる兵士に、キュルケは浮かべた笑みをますます濃くする。
「ええ。芸と料理。そして料理といえば……」
キュルケは手を荷車に積み込まれた樽に向ける。
兵士二人の視線が樽に向けられる。内一人が荷車に近づくと、ふんふんと鼻を鳴らす。と、目を見開き憎々しげな視線を荷車を囲む一行―――士郎たちに向ける。
「こりゃあ酒じゃねえか……お前たちか町中の酒を買い占めたって言う奴らは」
「ふふ、そんなに怒らないでくださいな。あたしたちもギリギリなのよ。エルフの土地を巡業してきたんだけど、エルフったら全く相手にしてくれなくて……だからここで一
発逆転を狙って、ね」
兵士の腕を取り、その身体にしなだれかかりながら耳元で囁くと、雪に熱湯をかけたように兵士の顔はだらしなく溶け崩れる。
「そ、そそそ、そうか、そりゃ仕方ねえな」
「ふふふ、ありがと。で、町の料理やお酒よりもすこ~し多めにお金を払ってくれたら、サービスたっぷりの踊りを見せてあげますわ。どう、ですか?」
身体をくねらせ、服の切れ込みから褐色の双丘やら生足やらを見せつけるキュルケ。兵士の首が亀のようにキュルケに向かって伸びる。そんな兵士の様子ににやりと笑みを浮かべると、キュルケはすっと身体を引いた。
はっと我に返った兵士は、笑みを浮かべ小首を傾げるキュルケに口を開けた間抜けな顔を向けた後、小さく溜め息を吐き首を左右に軽く振ると、肩を竦めてみせた。
「くっくっくっ。いいな。気に入ったぜ姉ちゃん。俺も丁度酒が飲みたかったしな。あんたたちの商売を手伝ってやるよ」
兵士の一人が門を開けると、上官に報告するために走り出した。
残った兵士に笑顔を向けたまま、キュルケが背中に組んだ手で背後にいる士郎たちに向け手を振る。百戦錬磨の商人もかくやというキュルケの見事な交渉に、士郎たちは小さく拍手を送った。
上官に報告を終えた兵士は、帰ってくると責任者が直接話を聞くとのことで、アーハンブラ城へと士郎たちを連れ歩き出した。アーハンブラ城に駐屯する三百以上の兵士たちは、十人ほどの貴族がまとめているとのことで、その貴族たちは城のホールに入って直ぐ右隣にある客間のいくつかを士官室として使っており、士郎たちはその中の一つへと案内された。
士郎たちが士官室に入ると、そこには十人ほどのマントを着た人物たち―――貴族たちが各々ソファーや椅子などに座っていた。その中の一人。部屋の奥の中央に、窓を背にオーク材の大きな机の後ろに、革張りの椅子に深く腰を下ろした男の姿があった。その男の名はミスコール男爵と言い、この城に駐屯する兵士たちの隊長であった。ミスコール男爵は四十過ぎのでっぷりと太った男であり、頭は禿げ上がり肌は油と汗で遠目からでもテカって見えていた。
背もたれに寄りかかって興味無さげに部屋に入ってきた士郎たちを見ていたミスコール男爵だったが、士郎に続いて入ってきたキュルケとロングビルの姿が目に入るや否や椅子から立ち上がると、だらしなく目元と頬を垂らしながら近づいてきた。そんなミスコール男爵に対し、キュルケは巧みな話術でまたもや玄人裸足の交渉を行い、見事中庭での慰問会開催の許可を取り付けた。
「ほ~、料理に自信があると」
「ええ。今まで様々な料理を口にした隊長さまもきっとご満足いただけると思いますわ」
ペロリと赤い舌で唇を舐めるキュルケの姿に、ミスコールの喉がグビリと動く。
「ほ、ほおぉぉ……。そ、それは楽しみだな。だ、だがもっと美味しそうなものもあるなぁ」
ぴくぴくとこめかみを震わせながら、ミスコールの顔がググっとキュルケの身体に近付き、舐めるような目つきでその身体を見回す。今にも飛びかかりそうなミスコールを牽制するかのように、キュルケはにやりとした笑みを浮かべて身体を引いた。
「ふ、ふむ。だがわしも陛下から預かった貴重な兵士たちの安全を守らなければならない身の上。お前たちが何か企んでいないかまだわからないしな……う、うむ、そうだな、どうするか……」
ふんふんと鼻息を荒げながらチラチラとキュルケを見やるミスコールに、キュルケは流し目を送りながら身体をくねらせる様に揺らした。
「でしたら、後ほど直々に取り調べられますか?」
「そ、そうだな。わしが直接取り調べよう。そ、それに兵どもにも娯楽は必要だろう。よし。ならば、芸を一通り終えたならば、直ぐにわしの部屋に来い」
蒸気機関車の煙突から出る煙のように、鼻の穴から激しく息を漏らしながらうんうんと頷くと、周りの貴族の顔が一斉に不満の色が浮かぶ。周囲のものが醸し出す不機嫌な気配を感じ取り辺りを見回すと、こほんと一つ咳払いし、かかと笑い出した。
「いやいやこれも隊長としての職務の一つだ。仕方がないことだよあっはっはっはっはっ……」
大笑いするミスコールの姿に、部屋にいる者たちの冷めた視線が集中する。
キュルケは大笑いするミスコールに軽く肩を竦めると、くるりと身体を回すと歩き出した。
「なら、わたくしたちは準備がありますので、これで失礼させていただきますわ」
他の貴族たちに詰め寄られ何やら言い合っているミスコールを背に士郎たちは部屋を出て行くと、成功を祝うように全員が手を打ち合わせた。手を叩き喜びを分かち合ったルイズたちの前に立った士郎は、手を叩き自分に視線を集めさせると腰に手を当て目を鋭く光らせ皆を見回した。
「じゃ、準備を始めるぞ。まずはロングビル。朝説明したとおりに石窯を五つ、いや、十作ってくれ。こっちの人数は少ないから、効率良く配膳出来るように、机と椅子の配置も教えた通りに設置してくれ。俺は下ごしらえを始める。時間がないぞ。急げっ!」
士郎の号令を皮切りに、ルイズたちは中庭に向け走り出す。小さくなっていくルイズたちの背に向けていた視線を外すと、士郎は年代を感じさせる城内の天井を見上げた。
「……必ず助けるからな……もう少し待っていてくれ」
赤く染まった太陽が地平線の彼方へ消えゆこうとする中、アーハンブラ城の中庭にはこの城に駐屯する全ての兵士が集まっていた。広いとはいえ三百人の兵士が集まった中庭は、間もなく始まる芸と食事の期待に満ち溢れ、大声を上げなければ会話が出来ないほどの盛り上がりを見せていた。
初めは選ばれた百人程度が参加するだけの予定だったが、急遽最低限の警備の兵だけ残したほぼ全員の参加となった。これは何もない田舎の廃城で、何の情報も与えられず警護任務にあてられたことに不満が溜まりまくり、今にも爆発しそうな兵士たちの状況を慮っての判断であり。こんな状況で仲間外れの者が出れば、下手をしなくとも暴動は必須だと考えと、隊長であるミスコールの鶴の一声によるものであった。
多くのガリアの貴族がそうであるように、元々無能王と呼ばれるジョゼフに欠片も忠誠心を持っていなかったミスコール男爵にとって、事情も殆んど聞かされずに命じられた警護任務に対しての責任感はゼロに等しかった。更にはエルフと共同での警護任務である。既にゼロと言うよりもマイナスと言ったほうが近い。
そう言った理由から、副官の兵の参加は最大でも半分でとの提案をミスコール男爵は切り捨てたのだ。
そのミスコール男爵は、今は中庭にわざわざ兵士に士官室から持ってこさせた豪華な椅子に腰掛けていた。
「しかし、珍しい旅芸人だな。芸と一緒に料理を出すとは。まあ、汚らしい旅芸人のことだ。大したものじゃな……ん?」
豪奢な椅子の背もたれに寄りかかっていたミスコール男爵は、不意に鼻をヒクつかせるとガバリと身体を起こした。
「な、何だこの匂いは? パンとチーズと……甘辛い……トマト? ん? こっちは肉の焼ける匂い。だが、これは何だ? 牛? いや、豚……か? いや、違うな……何だこれは?」
辺りに漂う煙と共に香る様々な匂いに、今まで騒いでいた兵士たちも黙り込み鼻を鳴らし出す。先程までざわついて騒がしかった中庭には、鼻を鳴らす音と喉が鳴る音が響き渡る。
ゴロゴロぎゅるぎゅると辺りに腹の虫の声が混じり始めた頃、松明を持った痩せた少年と小太りの少年が現れた。少年が現れた瞬間、中庭の兵士たちの視線が一斉に集中し、直ぐに舌打ちと共に溜め息が合唱する。
それは女が現れなかったためか、それともまた別の理由か……。
松明を持った少年二人は、用意されたかがり火のやぐらに手に持った松明を投げ込むと、もう一つの手に下げていた楽器を構えた。
痩せた少年―――ギーシュは笛を、小太りの少年―――マリコルヌは小さな太鼓を構え、互いに目を合わせる。そして、兵士たちの声が一瞬静まった瞬間を狙いギーシュが口を付けた笛から静かな音が鳴り響いた。それに合わせ、マリコルヌが太鼓を叩く。
星が満ち始めた夜の空の下、静かな曲が響き始めた。
旅芸人と聞き、激しい雑な曲だと考えていた兵士たちから、戸惑いの声と共に感嘆の声が漏れる。普段兵士たちが耳にするものとは何処か違い、何かしら気品のようなものが感じられる緩やかな旋律に、兵士たちは不満の声をあげようとしていた口を閉じ聞き入り始めた。
すると、曲に導かれるように、かがり火とかがり火の間に出来た暗闇の中から、二人の踊り子が踊りながら姿を現した。
並んで現れた踊り子の一人は、闇を照らすかがり火の炎をよりも紅い髪をもつ、グラマラスな褐色の肢体を持った女。もう一人は夜の闇に染まり深みを増した緑の髪を揺らし、熟した女の魅力が滴る身体を、何処か気品を湛えながらも妖艶に揺らす女。
二人の踊り子は同じような深い切れ込みが入った薄いネグリジェのような服を着ており、不規則な炎の明かりに照らされる度に、その奥が透けて見え。足を、手を大きく動かす度に、深く切り込まれたスリットから、汗に濡れ光る白と黒の肌が見え隠れする。
妖艶に、誘うように、二人の女は踊り続ける。
兵士たちの視線が食い入るようにキュルケたちに集まっていく。
と、不意にその視線のいくつかが踊り子から外される。彼らの視線は大きな台車を引いて現れた青髪の少女と桃色のブロンドの髪を持つ少女に集まる。いや、正確にはその少女たちが引く台車に乗せられた料理に、であった。
台車の上にはたくさんの料理と酒が乗せてあり、二人の少女はそれを手に取ると早足で兵士たちの下にそれを持っていく。机に乗せられた料理は、直ぐに兵士たちの胃の中へと消えていき、同時に配られた酒を喉に流す。少女たちは次々に料理と酒を配るが、あっと言う間に料理と酒は消えていった。
次第に料理と酒を奪い合う喧騒があちこちから生まれ―――宴が始まった。
ふと、目を開けると、窓からは太陽の眩い輝きではなく、双月から注がれる柔らかな光りが差し込んでいた。ベッド脇には、眠りに落ちてしまう前、日が落ちた際に点けたローソクの炎が揺れている。
顔を上げてみると、視線の先には横になった母が小さく寝息を立てていた。何時の間にか寝てしまっていたと、片手に握った本をチラリと見たタバサは、母が眠るベッドに突っ伏すように倒れていた身体を起こした。微かに霞がかかる頭を軽く左右に振ることで晴らすと、最後に残った記憶を反芻する。
最後に覚えているのは、母に『イーヴァルディの勇者』を読んであげている途中、寝息が聞こえてきたところまで……どうやら自分はその寝息につられるように眠ってしまったようだと思いながら母に視線を向ける。
タバサの目が母に向けられると同時に、母の閉じた瞼がピクリと動いた。
ビクリとタバサの肩が震えた瞬間、母の瞼が開き、タバサと視線が交わる。
タバサの目が、咄嗟に手に持った『イーヴァルディの勇者』に向けられる。今の母は、シャルロットの人形か、『イーヴァルディの勇者』を読み聞かせなければ暴れだしてしまうからだ。暴れる前にタバサが人形か物語のどちらかを使おうとしたが、何時までも静かなことに気付き、ゆっくりと首を回し母を見ると、母は自分をじっと見つめたまま動かないでいた。反射的に浮かび上がるもしかしてという淡い希望を押さえ込みながら、タバサは母に呼びかける。
「かあ、さま」
呼びかけに、母は無言で応えた。何も言わず何の反応も見せずにただじっと黙って自分を見つめ続けるだけ。暫しの閒、母と見つめ合っていたタバサは、横目で鏡台に置かれた人形を見ると、小さく顎を引き顔を伏せた。
「母さま。今日もシャルロットがご本を読んでさしあげますわ」
手元に引き寄せた『イーヴァルディの勇者』に視線を落とし、ページを捲ると、タバサは朗読を始めた。
イーヴァルディは竜の住む洞窟までやってきました。従者や仲間たちは、入口で怯え始めました。漁師の一人が、イーヴァルディに言いました。
『引き返そう。竜を起こしたら、俺たちみんな死んでしまうぞ。お前は竜の怖さを知らないのだ』
イーヴァルディは言いました。
『ぼくだって怖いさ』
『だったら正直になればいい』
『でも、怖さに負けたら、ぼくはぼくじゃなくなる。そのほうが、竜に噛み殺される何倍も怖いのさ』
部屋の空気が微かに揺れたことを感じ、タバサは居室にビダーシャルが入ってきたこ戸に気付く。しかし、タバサは恐ろしいエルフが来たというにも関わらず、本から顔を上げることなく朗読を続ける。母は最初からエルフを怖がることはなく、自分ももう気にすることはなくなっていた。タバサはここに閉じ込められた十日間の閒、ずっと母に『イーヴァルディの勇者』を読んでいた。何度かほかの本を読もうとしたが、『イーヴァルディの勇者』以外の本では、母が何時ものように暴れだすことに気付いてからは、ずっと『イーヴァルディの勇者』しか読んでいなかった。そのため、タバサは今ではもう、『イーヴァルディの勇者』をほぼ全て暗記してしまっていた。
本を読むタバサに近づいて来たビダーシャルは、タバサの手に本があることに気付くと口元に笑みを浮かべた。
「随分とその本が気に入ったようだな」
背後からの声に、タバサは何の反応を見せない。ビダーシャルもまた何の反応を示すことなく『イーヴァルディの勇者』から視線を外さないタバサに近付いていく。タバサの背中に立ったビダーシャルは、タバサとベッドに眠るタバサの母を見下ろす。
「慰問に来た旅芸人が、中庭で芸と料理を振舞っているそうだ。蛮人の芸や料理に全く興味はないが、この十日間ずっとここに閉じこもって流石に気が滅入っているだろう。気晴らしに見物でもしてきたらどうだ。特別に今晩だけこの部屋を出ることを許可しよう」
タバサは何も反応を示さない。ただ母に物語を語り続けるだけ。
部屋の中にタバサの物語る声が響く。
ビダーシャルはその様子をじっと見下ろしていたが、やがて身体を翻し背中を向け、ぼそりと声を漏らした。
「明日、薬が完成する」
呟かれた声は僅かに硬かった。
物語を紡いでいた口がピタリと止まる。
「薬を飲めば、お前はお前ではなくなる。旅芸人の芸と料理でも、少しは慰めになるのではないかと思ってな」
「…………」
心の死を目前に、最後の慈悲をとのビダーシャルの言葉。
それにタバサはただ沈黙で応えた。
息を吸う音と吐く音がやけに大きく響く中、足音が一つ混じる。
扉に向かって歩き出したビダーシャルは、そのまま部屋を出ていった。
「扉は開けておく。興味が出たなら見てみればいい」
扉が完全に閉まる直前、僅かに開いた隙間からビダーシャルの声がタバサに向けられた。
タバサは、やはり何も答えることはなかった。
ただ、手元の『イーヴァルディの勇者』からベッドの上の母に移る。
物語る声が途中で止まったにもかかわらず、母は暴れることもせずただじっと自分を見つめていた。
硬く石のように冷たく硬直した顔を必死に動かし、小さな、微かな笑顔を母に向けたタバサは、震える口を小さく開き物語の続きを語りだす。
イーヴァルディは竜の洞窟の中に入っていきました。付き従うものはありませんでした。松明の明かりの中に、コケに覆われた洞窟の壁が浮かびあがりました。たくさんのコウモリが、松明の明かりに怯え、逃げ惑いました。
イーヴァルディは怖くて泣きそうになりました。皆さんが、暗い洞窟にたった一人で取り残されてしまったことを想像してください。どれほど恐ろしいことでしょう!
しかもこの先には、恐ろしい竜がひそんでいるのです!
でもイーヴァルディはくじけませんでした。
己に何度も、イーヴァルディは言い聞かせました。
『ぼくならできる。ぼくは何度も、いろんな人間を助けたじゃないか。今度だってできるさ。いいかイーヴァルディ。力があるのに、逃げ出すのは卑怯なことなんだ』
ふと顔を上げると自分を見つめていた母は、何時しか瞼を閉じ小さな寝息を立てていた。母が眠ってしまっても、タバサは物語を語るのを止めない。
物語を読みながら、タバサは母を見つめる目をそっと閉じた。瞼を閉じ、暗闇に満ちた世界が広がる。闇を見つめながら、タバサは昔、母から読み聞かせられたいた幼い頃に感じた矛盾が消えていくのに気付いた。
『イーヴァルディの勇者』というタイトルに感じていた矛盾。
幼いながらに考えていた。
何故『イーヴァルディの勇者』なのだろう? と。
イーヴァルディ―――それは地名ではなく、この物語の主役の名前であった。なら、タイトルは『イーヴァルディの勇者』ではなく『勇者イーヴァルディ』ではないのだろうか? 子供の時分、そんな疑問を抱いたタバサは、ある日母にそのことについて訪ねてみたことがあった。母はわたしの言葉に一つ頷き自分の頭を優しく撫でると、膝を曲げ目線を合わ、柔らかい笑顔を浮かべてこう言ったのを覚えている。『今は分からなくても、そのうちきっと分かるようになるわ』、と。
闇の奥に浮かんだ、かつて母が浮かべた笑みにつられるように頬を微かに緩ませたタバサの心にその続きが思い浮かぶ。
あの時、母に答えをはぐらかされた気がしたわたしは、頬を膨らませながら母に問い詰めたのだ。『そのうちっていつなの』とむくれるわたしに、母はわたしの胸に指を当てて何と言っただろうか……。
ああ、そうだ、思い出した。
そう、確か、こう言ったのだ。
伏せてしまった父王の代わりに務めた政務に疲れ果て、椅子の上で眠りこける父を愛おしげに見つめながら、母は私に言った。
『あなたが誰かを好きになった時よ』―――と。
瞼を上げ、視界に光が戻る。
最初に目に映ったのは、手に持った本のタイトル。
『イーヴァルディの勇者』
そのタイトルが刻まれた表紙を、そっと人差し指でなぞる。
幼かった頃わからなかったタイトルの意味。
何故タイトルは『イーヴァルディの勇者』ではなく『勇者イーヴァルディ』なのか。
その意味が、今は分かる。
『勇者』とは、イーヴァルディそのものを指すのではない。
少年イーヴァルディの心から生まれる衝動や決意といったあやふやな感情を纏めたものを、『勇者』という言葉で表していたのだ。
この物語で語られる少年は、きっと洞窟の暗闇や恐ろしい竜に感じる恐怖よりも強い何かがあったのだろう。
自分の身を危険に晒してでも、囚われの少女の救出に赴かせる何か。
それが何なのかは分からない。力を持ったことに対する義務感なのかもしれないし、竜に囚われた少女に対する恋心なのかもしれない。
母は言った。わたしがこの『イーヴァルディの勇者』というタイトルに感じていた疑問が解消される時は、わたしが誰かを好きになった時だと。
なら、わたしは誰かを好きになったのだろうか。
恐ろしい竜に立ち向かうための勇気を与えてくれる、誰かがいるのだろうか……。
日が落ちたことにより、炎の明かりが届かない天井を侵食する闇を見上げていたタバサの視界に、紅い残光が過ぎる。
気付けば、タバサの両手は自分の身体を抱きしめるように自分の身体に回っていた。
とある記憶が、部屋を照らす炎が揺れる度に蘇っていく。
蘇る記憶とともに身体に熱がこもる。
そんなに昔の記憶ではない。
ほんの十二、三日まえの記憶だ。
何時ものように、命令で、ある男の命を狙った。
知っている男だった。
初めて会ったのは、数ヶ月前。
最初の印象は、あまりいいものではなかった。
甘い、理想ばかりを語る男だと思った。
現実を知れば、直ぐに逃げ出すだろうと思っていた。
でも、違った。
彼は、違った。
何時も、何処でも彼は前にいた。
常に先頭に立ち、降りかかる魔法から、剣から、悪意から皆を守ってきた。
心と身体を傷つけながら、常に一人前に立っていた。
何時からか、彼の背中を追っていた。
学園を歩く時、食堂で食事を取る時、教室で授業を受けている時……彼の姿を探していた。
何故……なのかは分からない。
ただ、気付けば彼を見つめていた。
彼の姿を視界に収める度に、胸がざわついていた。
それが何なのか分からなかった。
そんな時、命令が下った。
その時には、彼の強さははっきりと分かっていた。
相手との実力差は明らか。どんな手段をとったとしても、怪我一つ負わせることも難しい程の相手であると。
だから、それなりの代償を払うことで一矢でも報えようとした。
賭けたのは自分の命。
自分の命を人質とした罠。
あの日、あの夜わたしは、自分の放った魔法である氷の矢の雨で死ぬはずだった。
でも、死ななかった。
生を諦め死を覚悟した自分を救ったのは、わたしが殺そうとした相手だった。
己の身体を盾にし、何本もの氷の矢をその背に受けながらも、彼は全身から血を流しながらも、わたしに笑いかけてきた。
殺そうとしたわたしを何故助けたのかと問うと、彼は言った。
『泣いてる女の子を助けるのに理由がいるのか?』と。
笑みを苦笑いに変えながら。
ああ、そうか、とタバサは天井の闇を見上げる視線を落とし、手に持った『イーヴァルディの勇者』を見つめる。
昔、子供の頃、この本を読んだ皆は、イーヴァルディの心に住む『勇者』に従い英雄になることに憧れていたが、自分はそうではなかった。
自分は勇者ではなく、勇者に助け出される少女に憧れていた。
絶対絶命、絶望の最中から助け出される少女に……。
……違う。
そうじゃない。
わたしが本当に憧れたのは……夢見たことは……救われる少女自身ではなく、そんなところから救い出してくれる『勇者』との出会いだった。
だから……うん……そうなんだ。
きっと……そういうこと。
ぽっ、と胸の奥に火が灯ったような暖かさを感じながら、タバサは自分の身体を抱きしめた。
心の奥に灯った火により溶け出したものが、閉じた瞼の縁から透明な雫として溢れ落ちる。
「母さま……わたし、好きな人ができました」
後書き
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