銀河英雄伝説<軍務省中心>短編集
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Frohe Weihnachten !!~聖夜の杯~
前書き
軍務省のおしどりコンビは、クリスマスの夜も相変わらずのようです。
新帝国暦1年12月。大本営のフェザーン移転に伴って、未曾有の大移動を終えた軍務省は、少しずつ平静を取り戻していた。しかしながら、惑星ハイネセン高等弁務官レンネンカンプを拉致したヤン・ウェンリー一党が、長きに渡る空白の時を経てエル・ファシルに姿を現したのが、ほんの二週間ほど前のことである。イゼルローン要塞方面への警戒、自由惑星同盟との、恐らくは最後になるであろう決戦の時が近づくのを、誰もが皮膚で感じ取っているこの時期、帝国軍の要である軍務省に休息の暇はなかった。
足早に廊下を駆けてくる士官を見つけて、アントン・フェルナー准将は鋭い視線を送った。その士官は軍務尚書執務室の入り口を陣取っているフェルナーを不審げに見つめながらも、書類ファイルを片手に敬礼を施した。
「年明けの出兵に関する艦隊編成案の修正が上がってまいりました。至急に軍務尚書閣下の御裁可を頂きたく存じます」
またかと、フェルナーは内心で幾度目になるか分からない溜息を吐く。
「軍務尚書閣下はご多忙だ。出兵計画については既に尚書閣下も裁可されている。その範囲を逸脱しない修正であれば、実践指揮官たちの裁量に任せるべきであり、任せられるか否かの判断をするのが、卿ら軍務省の中級士官の任務ではないか」
彼らの尊敬する帝国随一の正論家にも劣らぬ正論を、にべもなく突きつけられた士官は、たちまちに表情をこわばらせた。
「……はぁ、そんな顔するなよ。判断を委ねられるということは、閣下からの信頼の証だ。だから、閣下にこれ以上負担をおかけするな」
それでもその士官から報告書を受け取ると、さっと目を通して返してやる。
「問題ないだろう。ご苦労さん」
フェルナーが先ほどとは打って変わって卒のない笑みを浮かべる。
「はっ!ありがとうございます」
軍務尚書直属の実力者のお墨付きを得て、その士官はあからさまにホッとした顔で踵を返して行った。その若い士官の後ろ姿を見やりながら、フェルナーは自分の背後の扉の先で、今も激務に堪えている上官を思いやった。
「部下たちに不安を抱かせないのも、俺の役目というわけですか」
もう軍務尚書を訪ねてくる客もないだろうと、すっかり闇色に染まった窓の外を眺めて勘定した。今日一日、尚書執務室の前に簡易テーブルを置いて己の職務をこなしつつ、こうして上官を訪ねてくる客たちの審問をしていた。本当に通す必要のある人物のみを選り分け、極力軍務尚書に時間を割かせないようにするためである。
「今日のところはいい加減に帰りたいものだな」
嵌め殺しの大窓から、入るはずもない冷気を感じて軽く身震いすると、そうぼやいて執務室の扉を開けた。
コツコツと軍靴の音を立てながら、真っ直ぐと上官へ近付くが、当の上官パウル・フォン・オーベルシュタインはちらりとも顔を上げなかった。両足を揃えて敬礼する。
「閣下、無防備ですよ。私でなかったらどうなさるおつもりですか」
揶揄するように微笑む銀髪の部下に、オーベルシュタインはようやく顔を上げた。
「卿であることは分かっていた。ゆえに、確認の必要がなかっただけのことだ」
ちらりと部下の表情を見やってから、すでに視線の先は手元の書類へ戻っている。
「おや、閣下には小官の足音がお分かりになるのですか」
まるで猫のようですねと言いかけたところで、冷たい否定の言葉が浴びせられる。
「卿のぼやきが聞こえた」
入り口で様子をうかがっていた秘書官のシュルツが、笑いをかみ殺す。フェルナーは憮然としながらも、
「失礼いたしました、以後気をつけます」
と、軽く頭を下げた。
「いや……」
オーベルシュタインは再び顔を上げ、視線だけで秘書官を退室させると、両手を顎の下で組んだ。
「卿にかかる負担は承知しているつもりだ。今日のところは帰ったらどうだ」
抑揚のない労いの言葉を吐く当人が、ひどく覇気のない表情だった。元々細い指も滑らかさが失われており、目元のくまや深く刻み込まれた眉間の皺が、あからさまな疲労の色を感じさせる。
「閣下が残られるのに、小官が帰ろうなどとは思っておりません。ですが、閣下もそろそろお帰りになられてはいかがですか。失礼ですが、このところまともに帰宅していらっしゃらないでしょう」
上官は答えずに手元の書類をめくった。フェルナーはしばらくオーベルシュタインの返答を待ったが、やがて上官の背後にある大窓へと目を向けた。
官庁街は思いのほか静かである。付近のビルの灯りは疾うに消えており、帰宅を急ぐ省員たちの姿もまばらであった。その数少ない道行く人々は、皆一様に首をすぼめて外套の襟を立てている。
「今日は寒そうですよ。これ以上遅くなったら、お身体に応えるでしょう」
僅かに身を乗り出して、オーベルシュタインのめくろうとした書類に手を置いて言う。口元は微笑んでいたが、鋭い瞳は真剣そのものだった。
「……老体には応えると言いたいのか」
顔の筋肉は微塵も動かさず、視線だけをフェルナーへ向ける。フェルナーもまた、その挑戦的な表情のまま上官を見つめた。
「ご冗談を。三日以上もほぼ徹夜で仕事をこなされ、しかも作業効率を落とさない方に、老体とは申せません。……ですがそろそろ、『人間』には限界なのではと愚考したまでです」
「……。」
書類の上の手をどかす様子のない部下に、軽く溜息を漏らす。その後に続く言葉を、フェルナーはほぼ正確に予測していた。
「分かった、卿の助言にしたがおう。ゆえに、卿も早々に帰宅するように」
ほとんど動かすことのない頬の筋肉を微かに上げて、オーベルシュタインは口うるさい部下へと言い置いた。
「承知しました」
手早く書類をしまい込む上官を横目で見ながら、フェルナーは二人分の軍用コートをロッカールームから持ち出し、一方を自分で羽織り、もう一方と鞄を手にして上官の帰り支度を待った。オーベルシュタインは引き出しと端末にパスロックをかけると、フェルナーからコートを受け取った。
「何度も言うようだが、卿が私を待つ必要はない」
歩き出しながら、すぐ後ろに続く部下へ呆れたように言葉を投げる。
「……はい」
フェルナーは早足の上官を追いながら苦笑した。上官のこの台詞こそ、必要のないものだからだ。そして上官の不要で棘のある発言は、大抵、謝辞の裏返しであることをフェルナーは知っている。
「素直でないお人だからな」
フェルナーの独り言を聞きとったか定かではないが、オーベルシュタインは黙々と軍務省の玄関口へ向かった。
歩哨の手で玄関扉が開かれると、一気に真冬の寒気が軍用コートの隙間から体の隅々へと忍び込んできた。
「確かに冷えるな」
黒革の手袋をしたオーベルシュタインは、まるで冷え切った空気を咎めるように呟いた。吐息が白く二人の前を曇らせ、より一層寒さを実感させる。
「閣下のお車はどちらに?」
通常であればオーベルシュタインがここへ辿り着く前に待機しているはずの、高級士官用の軍の地上車が見当たらず、フェルナーは首をかしげた。
「今日は帰るつもりがなかったから、いらぬと伝えてしまった。……歩いても大した距離ではない」
そう言って歩き出そうとする上官を、フェルナーは目を剥いて引きとめた。
「お待ち下さい。お屋敷まで、閣下の足でも30分はかかるでしょう。この寒さですし、今日は小官の車でお送りしましょう」
がしりと左腕を掴まれたオーベルシュタインは、迷惑そうにお節介な部下を睨みつけながら、溜息まじりに小さく首を振った。
「無用だ」
それ以上説明する気もないのか、フェルナーの手を振りほどいて進行方向に向き直る。「では」と右手を掲げると、視界に白いものが映り込んだ。
「ああ、閣下、雪ですよ」
フェルナーが頭上を見上げて声を上げる。降り始めたばかりの雪は、たちまち花吹雪のように乱れ散り、二人の肩を濡らした。
「帝都では、あまり見なかったな」
オーベルシュタインも顔を上げて、街灯の下に舞う綿色の花びらを眺めた。その横顔が、雪の中に溶けてしまいそうなほどに白く、フェルナーは密かに戦慄が走るのを感じた。
「このまま30分も歩けば濡れてしまいますよ。今日は大人しく、小官の車でお帰り下さい」
しばし呆けたように目を細めて空を見上げる上官に、銀髪の部下は柔らかく言って自らの駐車スペースへと促した。
「ああ」
今度はさしたる抵抗も受けず、冷徹非道と名高い軍務尚書は部下の地上車の後部座席へと乗り込んだ。普段オーベルシュタインが使用している地上車に比べれば、遥かに安くて小さいが、長身の二人が窮屈しない程度には作られている。
「閣下の自宅は、と」
目的地を入力して自動運転に切り替えようとするフェルナーの後ろから、上官の手が伸びた。
「世話をかけるな」
行き先を入力すると、ゆったりとしたシートに体を沈めて深く息を吐く。静かに走り出した地上車は、官庁街からバスターミナルの通りを経て、華やかな飲食店が軒を連ねる市街地へと出た。店や街路樹のそこここに、煌びやかな装飾が施されている。
「ずいぶんと賑やかだな」
見慣れぬ賑わいに目を見張って、オーベルシュタインは怪訝そうに呟いた。フェルナーもはてと首をかしげたが、地上車のデジタル時計で日時を確認して得心がいった。
「大昔、この季節はキリストの生誕祭をしていたそうです。キリスト教が絶えた後も、祭の風習のみがしばらく存在したようですが、やがて滅んでしまったようです。それが、フェザーンには今でも残っていると耳にしたことがありますので、おそらくこの派手な装飾も……」
フェルナーの説明に、オーベルシュタインも納得したように肯く。
「商魂逞しいフェザーン人は、滅んだ宗教さえも商売の道具にするというわけか」
「そういったところでしょうな」
他愛ないやり取りを交わして、しばらく二人は黙ったままイルミネーションの明かりに照らされていた。やがて地上車が緩やかに速度を落とし、食事や買い物を楽しむ人々のための有料パーキングに入った。
「コンピュータの故障でしょうか」
フェルナーが不思議そうに眉を寄せて操作卓を叩くのを、オーベルシュタインは小さく笑いながら眺めた。
「コンピュータのせいではない。……ついて来てもらおうか」
オーベルシュタインは軍用コートの襟を立てて車から降りると、部下の方を振り返ることもなく、しかし心なしかいつもよりゆっくりとした歩調で歩き出した。フェルナーも慌ててコートのボタンを留めると、スラリとした姿勢の良い上官の背中を追いかけた。
街は装飾だけでなく、明るい音楽でも道往く人の心を躍らせていた。巧みに人波をすり抜けていくオーベルシュタインを、ともすれば見失いそうになって、フェルナーはやや足を速めた。
「待って下さいよ、閣下」
呼びかけた途端に黒い背中が静止して、フェルナーをちらりと見やった。
「ここだ」
二人の目の前には、象牙色の外壁を主体とした落ち着いた雰囲気のレストランがあった。客の入りも良いようで、犬を連れた老夫婦が彼らの目の前を横切って、その店へと入って行った。義眼の軍務尚書は眩しげな表情をしてその店の方を示すと、ポカンとしているフェルナーを横目で促した。
「卿には苦労をかけている」
オーベルシュタインはまるで言い訳のようにそう呟いて、ついと目をそらすと、店の中へと入って行った。
「え?閣下?」
今日は追いかけてばかりだと内心で苦笑しながら、フェルナーも足早に上官の後へと続いた。良く磨かれた大理石の床が、コツコツと小気味良い足音を響かせる。店員に誘導されて、二人は窓の見えない奥まった席へと腰を落ち着けた。
「お気遣い感謝いたします」
コートを預けて椅子を引きながら、フェルナーは神妙な顔で頭を下げた。自分が上官を気遣っていたつもりが、却って上官に気を遣わせていたのだ。感情の薄い上官は、曖昧に微笑んでフェルナーに着座を促した。店はかなり広々としているが、テーブル数はそれほど多くなく、ゆったりと寛げる印象だった。ひとつ気になったのは、犬連れの客の多さだ。
「ここは犬用メニューを注文できるのだ」
オーベルシュタインは部下の疑問を正しく推測したようだった。フェルナーは得心がいった様子で肯くと、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「閣下はこの店をご利用になったことがおありですか」
オーベルシュタインはアクの強い部下の意味ありげな笑みを一瞥すると、関心のなさそうな顔でメニューを開いた。関心がないのではなく、おそらくあえて無視を決め込んだのであろうと、フェルナーは日頃の様子から予想した。
「余計な詮索をする前に、注文を決めたらどうかな」
軍服の袖口から見え隠れする細い手首が、霜が降りたように青白くて、フェルナーはともかく体を温める方を優先することにした。想像しなかった上官との会食の場に、少々舞い上がっていたようだが、話などこれから飽きるほどできるはずだ。
「失礼しました。……しかし小官は、このような店には慣れておりませんので」
フェルナーもメニューを開いて、端正な顔をしかめた。彼らしくなく戸惑っている様子に、オーベルシュタインは思わず含み笑いをした。
「コースで良ければこれが良い。フェザーンの郷土料理が多く体も温まる。酒はヴォトカが合うが、少々強い。飲めぬようなら割ったものも注文できるが」
淡々と、けれどスマートにメニューを提案してくる上官もまた、彼らしくなく饒舌であった。フェルナーは嬉しげに上官の顔を見て微笑むと、閣下の勧めて下さったもので、と控えめな返答をした。日頃のオーベルシュタインであれば、決して部下の食べ物にまで口を挟まない。まして、食事に誘うなどということさえ皆無である。二人がともに食事を取る時といえば、フェルナーが強引に連れ出すか、休憩を見計らって押しかけて行くかのどちらかであり、上官がこうして自分をレストランへ連れて来て、メニュー選びの助言するなど、想像もし得ないことなのだ。だからこそ余計に上官の気遣いが伝わり、胸の奥が温かくなるのを感じた。
酒が決まったのを見計らってウエイターが現れ、オーベルシュタインが二人分の注文を済ませた。数分してヴォトカと前菜がテーブルに置かれると、オーベルシュタインは慣れた手つきでナプキンを胸にかけた。やはり貴族なのだなと、妙なところで感心する。
「先ほどの質問だが……いや、その前に」
オーベルシュタインが薄く笑みながらグラスを掲げる。フェルナーも倣って掲げながら、
「何に乾杯いたしましょうか」
と、思案顔で尋ねた。ふむ、と数瞬考える間があって、類稀なる頭脳を持つ軍師が口を開く。
「卿の作戦失敗を祝して」
「え?」
意地の悪い目で睨む上官へ、思わず瞠目して問い返してしまう。
「私を早く帰そうという当初の計画は、失敗に終わったであろう?」
フェルナーは何かを言い返そうとして断念してから、肩をすくめて笑った。つられたようにオーベルシュタインも相好を崩して、互いに相手の笑顔を目に焼き付けた。このような時間が、今後も持てるという保証はない。特に彼らは軍人であり、死と隣り合わせで生きている人種であった。おそらく今この瞬間が、ひどく貴重な存在になるのだろうと、両者は明確に理解していた。
「では、この貴重な夕食にというのはいかがですか?」
フェルナーの提案に、オーベルシュタインは小さくかぶりを振った。
「それでは、まるで吾々が食い意地の張った子どものようではないか」
そうですかと肯いて、更に思案する。
「では無難に、皇帝ラインハルト陛下のご即位を祝して……」
「今更という感が否めぬな。祝賀の会も催された後では」
間髪入れない上官の返答に、フェルナーも肯くしかなかった。何しろローエングラム王朝発足から半年が経過しているのだから、指摘どおり今更のことである。
「いっそのこと、乾杯の文句は各自にいたしませんか?口にしてしまえば後戻りはできず、相手の言葉を否定することもできませんし」
いささか投げやりのようでもあったが、的を射た指摘であった。
「よかろう。……それでは」
再びグラスを持ち上げて、
「閣下のご健康に」
「卿の健やかなる未来に」
チンとグラスを触れ合わせて、度数の高い蒸留酒をそれぞれの喉に流し込む。ふっと息をついて、両者はまた小さく笑った。
「あれだけ食い違ったのに」
呆れたように笑うフェルナーへ、オーベルシュタインは真顔に戻って口を開く。
「そもそも『乾杯』の本来の意味は」
「健康を祝うものだから、ですよね」
その通りだと肯くオーベルシュタインの口元にも、柔らかな笑みが戻っていた。絶対零度の剃刀という異名からはかけ離れた、穏やかで凪いだ海面のような静かな笑みである。冷笑や苦笑の類ならともかく、上官の楽しげな笑みを目にすることは、今までに一度たりともなかった。少しは信頼された結果なのかと、フェルナーは自惚れだと自覚しながらも嬉しくてたまらなくなった。
「私がここへ赴任した一月半後、一足遅れで執事夫婦が犬を連れてフェザーンへ到着した。その時に、一度彼らと共にここで食事をしたのだ」
その時以来だと、オーベルシュタインは控えめに付け加えた。この言葉もフェルナーを喜ばす。生まれた時から仕える執事夫妻や、家族同様の愛犬と張り合うつもりはないが、その一員になれたような気がして、頬が上気してくるのを感じた。もっとこの男の話を聞きたかった。日頃は畏怖されることの多いこの上官が、どのような顔で愛犬を連れて使用人を労っているのか、叶うならば見てみたかった。
「そのような大切な場所に、よりにもよって小官をお連れ下さり、光栄の極みです。ご厚意に甘えて遠慮なく戴いているのですが、甘えついでに、もう2,3お伺いしてもよろしいですか」
もって回った言い方に、オーベルシュタインの眉間にたちまち皺が刻まれる。
「却下する」
にべもない返答に、フェルナーは殊更残念がって見せた。
「あれ、どうしてですか。せっかくの食事の席なのに」
オーベルシュタインはふんと鼻で笑うと、ナイフを使う手を止めずに言った。
「卿の目的は私を早く帰宅させることであったはずだ。であれば、効率的に食事を摂り、一刻も早く私を地上車に乗せて帰路に着くのが望ましいではないか」
正論というよりは屁理屈で応酬され、フェルナーが頬を膨らませる。
「そうおっしゃるなら、閣下こそ小官をここへお連れにならなければ良かったのではないですか」
「先ほどまで喜んでいたように見受けられたが、ずいぶんと勝手な言い草だ」
「勝手なのは閣下の方でしょう。有無を言わさずここまで来て、ご自分は早く帰りたいなど、大人げない屁理屈だとお思いになりませんか」
「ほう。卿には拒否する権利がなかったとでも?私は別に、卿の首に縄をつけて来たわけではない」
「それはそうでしょうとも。ですが私の言いたいのは……ああ、もう!!」
フェルナーの怒声と共に、オーベルシュタインがぐいとヴォトカを呷った。ドンとグラスを置くと同時に、フェルナーもぐびりと喉を鳴らして酒を飲み込む。
沈黙の時が過ぎる。しかしどちらも自ら席を立とうとせず、ただ料理と酒だけが淡々と運び込まれ、互いの胃の中へ消えて行った。フェルナーは5杯目になるヴォトカのグラスを右手に握ると、水でも浴びるかのような勢いで飲み下した。それまで何の感情も表わさずに、冷めた義眼で眺めていたオーベルシュタインが、まだ少々不機嫌そうに窘める。
「そのような飲み方をしては、体を壊すぞ」
そのぶっきらぼうな口調が癇に障った様子で、フェルナーは挑発するような視線を上官へと向けた。
「へぇ。普段から私を馬車馬のようにこき使うお方が、どの口でそのようなことをおっしゃるのでしょうね。俺はぁ、この程度の酒じゃ潰れやしませんよ。閣下に自信がおありなら、俺と勝負して下さいよ」
明らかにおぼつかぬ手元と舌足らずな返答に、オーベルシュタインは呆れたように息を吐いた。もう潰れているも同様だ。
「分かった、次回は付き合おう。だから、その辺でやめておけ」
自分を窘めにかかる上官を見上げて、フェルナーはふふっと笑った。
「あ、そうやって逃げようとなさる。本当は俺に勝つ自信がないのでしょう?こうなったら朝まで……」
「分かったから、そのグラスをこちらへ寄こせ」
オーベルシュタインは頑なな部下の手を引き剥がして、まだヴォトカの入ったグラスを取り上げた。どのような苦情を言われるかと身構えたが、当事者に苦言を呈する余裕はなかったようで、そのままテーブルへ突っ伏して眠り込んでしまっていた。両者ともに知らずのうちに声量が上がっていたためか、ウエイターたちが遠巻きに二人を眺めていた。オーベルシュタインとしても、ぜひとも眺める側に回りたかったが、この事態に至った責任の一端が自分にあることは自明の理であった。理性の残っている方が事態を収拾するよりほかない。水をひと口飲みこんで呼吸を整えると、部下の肩を小さく揺すった。
「起きろ、フェルナー。私を送ってくれるのではなかったのか」
うーんという唸り声のほかは、何の反応もなかった。
「フェルナー、風邪を引くぞ」
やや強めに揺すると、ちらりと瞼を上げてうつろな視線を向けてくる。
「フェルナー……私が悪かった。卿には感謝している。次回はうまい酒にするから、起きてくれぬか」
「うまい酒ですかぁ?」
重要な部分は聞き流して、彼の中では重要だったのであろう部分を反復する。徐々に瞼が開き、上官の顔が視界に入った。
「あれぇ、閣下だ。どうしてこんなところにぃ?」
先ほどまでの口論が嘘のように嬉しげな表情で、オーベルシュタインの肩をドンと叩いてから、満足したように再び突っ伏してしまった。加減なく振り下ろされた腕は想定外の勢いであり、オーベルシュタインはしばらくのあいだ激痛に目を白黒させる羽目となった。
「仕方のない……。これでは、たとえ目を覚ましても一人では帰れぬだろうな」
溜息まじりにそう呟くと、オーベルシュタインはウエイターを呼んで会計とタクシーの手配を依頼した。
「卿の車は、明日ここへ取りに来るのだぞ」
そう言って立ち上がると、フェルナーを担ぐように支えて店の出口へと向かう。正体を失くしたフェルナーはオーベルシュタインの肩に腕を絡めたまま、ほぼ意識を手放している。やっとのことで出口まで辿り着き、タクシーの助手席へドサリと部下の体を解放した。自分は運転席に腰を下ろし、高級士官用官舎の住所を入力する。電気化されて久しい地上車は、音もなく走り出した。
「また眠ってしまったか」
小さないびきをかき始めた部下を見やって、オーベルシュタインは呟いた。自身の着て来た外套を、部下の体へと掛けてやる。銀色の髪が薄暗い街灯に照らされて、時折艶やかに輝いた。思えば、この部下は自分より遥かに年若いのだ。整った顔立ちのせいか、眠った顔は驚くほどあどけない。この彼が、自分にとって最も信頼に値する……少なくとも仕事上では……人物であると認めていながら、考えてみればただの一度も、それを言葉で表したことがなかった。今更表そうとは思わないが、せめて気持ちよく飲ませてやれば良かったと、胸の隅がチクリと痛んだ。つまらぬ意地と理屈など捨てて、彼の笑顔を見ていれば良かったのか。
オーベルシュタインは両の目を細めて、ポンポンと二度だけ部下の肩を叩いた。
「すまなかったな、フェルナー。これからも、よろしく頼んだぞ」
上官のいつになく甘い声を聞いてか聞かずか、フェルナーは一声だけ「うーん」と唸ると、再び静かな寝息を立て始めた。
時は新帝国暦1年12月24日から25日に変わる深夜のことであった。
(Ende)
後書き
ご読了ありがとうございました。
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