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浮橋

作者:斉藤
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後編

 
前書き
未来捏造
 
 
  

 
 彼に連れられ道を行く。祖父の家に向かうのだと言っていた。駅から下りてからというもの、住宅地を縫うように歩いている。家々に鯉幟が泳いでいるのを横目に捉えた。空は快晴。風は涼やかだが、日差しがやや強い。
 5月5日。その日進藤は、よほどのことが無い限り、必ずその祖父の家を訪れるという。
「と、と、と」
「なんだよ、じーちゃん」
「と、塔矢アキラ七段~?!」
「そんな驚くことないだろ?いつも俺話してるじゃんか」
「話で聞いているからといってなあ!…はあ~本当だったんじゃなあ」
「本当って。…じーちゃん、数年前までずっと北斗杯見にきてたくせに!まあそれはいいからさ」
「そうじゃな。ささ、お上がり下さい」
「あ、俺たちまず蔵行ってくるから!」
「え?蔵?おい、ヒカル!」
 挨拶するタイミングを得られないまま、手を引かれ庭に出る。そこには、言っていたものだろう蔵があった。
「お、ちゃんと開けてくれてんな」
 観音開きの重厚な扉はすでに開ききっており、進藤は内戸を開けて、僕を中に招き入れる。中は薄暗く、小窓から入り込む光が中を照らしていた。壁には、簡易な電灯が備え付けられていたが、進藤は灯りをつける気がないらしい。迷い無く階段を上がって行くのを見て、僕は後ろ手に戸を閉じてから、その後姿に続く。昔ながらの造りらしく、階段というには傾斜が急で、進藤に習って、梯子のように手をつきながら登る。
 蔵の中はよく整理されていて、床に置いてあるものは少ない。和箪笥や壺、積まれた書物が、この空間を囲うように配されており、自然、部屋中央においてある碁盤に目がいった。進藤は駆け寄り、碁盤の前に屈む。
「やっぱ、いねえな」
 小さくそう呟いたと思ったら、振り返って誤魔化すように微笑むと、進藤はこちらに向き直り、どっかりとその場に座り込んだ。その碁盤を横に据えて。
 進藤と長年付き合う内に慣れてきたのもあって、進藤の目配せ通り、僕自身はこの床へ直に座るのは気後れするものの、腰を据えることにする。
「あーあー正座なんてすんな、かたっくるしい」
「僕にはこれが一番座りやすいんだ」
「そうかよ」
 向かい合って、言葉を待つ。しかし、しばらくしても、進藤はなかなか口を開かない。先ほどまでの勢いは何処へやら。僕には、進藤が何から話し始めようか、ここまできてもなお、悩んでいるのが手に取るようにわかってしまった。待つしかないと、この5年間、言い聞かせてきはしたが。
「今日は、」
 僕の一声に、進藤は目に見えて体を揺らす。
「話して、くれるんだろう?」
「あ、ああ」
 それでも進藤は、言葉を詰まらせ、唸るばかり。
「進藤。君が話せるようになるまで、質問させてもらっていいだろうか」
「え?」
「答えにくかったら無言でも。イエス・ノーだけでもいいから」
「お、おう」
 話の主導権を譲ってもらえはしたものの、向かい合う進藤は体を強張らせていて、見る限りでは、話そうという意思が見受けられないのだが。
「今まで僕に届けてくれたあの棋譜は、今日話すことに関係ある?」
 僕の言葉に、少しはほっとしたようだった。
「イエス」
「今日は君にとって特別な日?」
「イエス」
「君のお祖父さんには、この後、挨拶させてくれる?」
「…お前、そういうところ、どうにかした方がいいぞ。イエス」
 そう悪態をつきながらも、受け答えをするうちに、少し顔の強張りが緩んだように感じる。
「君が碁をはじめたのは、あの棋譜の打ち手と関係ある?」
「…いえす。というか、そうじゃなきゃ一生碁に縁がなかった」
「あの棋譜の打ち手は、ネット碁しかできない?」
「うーんイエス?…非公式?というか、そこらへんでならちょいちょい」
「あの棋譜の打ち手は、僕と打ったことがある?」
「……打ち切らなかったものを含めて、5回、打ってる」
「僕の父とは」
「……三回」
 自分からそこまで話せるようであれば、ここからは。
「先ほど、『やはりいない』というようなことを、口走ったのは?」
 イエス・ノーで答えられないことを試しに投げかけてみる。
 すると、やっと緩んでいた緊張が一気に張り詰めてしまった。僕はやれやれと、また質問を戻す。
「その碁盤は、今日の話に関係ある?」
「…うん、大アリ」
 進藤は、一つ溜息をついて、碁盤を自身の方に引き寄せた。
「…悪ィ。向かい合って話すの、何か話しにくいや。隣来て」
 僕は立ち上がり、碁盤を挟んで、隣に腰を下ろす。そうすると、進藤が自分で言っていたように、少しは張り詰めていた空気が和らいだようだった。
「何から話したらいいかわかんなかったけど。そうだな、お前から聞きながら話せばいいよな。なあ、何から聞きたい?」
 進藤はそう言うものの、まだ聞ける様子じゃないと見計らう。
「…saiの本名」
 であるから、それは、特別知りたいと思っていた訳ではなく、あるという確証もなかった。便宜上、今後話を進める上で、名前が欲しかっただけだ。ネット上の名saiとの呼び分けのために。
 しかし進藤は即答する。
「藤原佐為」
「フジワラノ、sai?」
「うん。それがアイツの名前」
 それは、予想だにしない返答だった。だからあの名を言ってしまった。
「本因坊秀策ではなく?」
「…あ」
 そっか、そこからだよなあ。進藤は一人頷き、独り言つ。それから、また、黙りこんでしまった。進藤自身、この状況はもどかしいらしく、思い切り後ろ頭を掻いたかと思うと、ガックリと肩を落とす。
「…俺、」
「いいんだ。フジワラノサイは、君にとってそれほど大事ということなんだろう?」
 だから、焦らなくても良いと。僕はそう言うしかできない。
「うん。うん…」
 進藤はそのままうつむいてしまい、その特徴的な金色の前髪が顔にかかって、どんな顔をしているかわからない。
 彼の言葉を待つ傍ら、ふと碁盤を見やる。その碁盤は見たところ年季もので、木が所々朽ちていた。それでも古めかしさをあまり感じないのは、よく手入れされているからだろう。他の収蔵品に比べて見ても、この碁盤には埃一つ付いていない。きっと、進藤の祖父が、孫の思いを汲んで大事にしているのだ。
 そうして碁盤を観察していた事を知ってか知らずか、進藤の手が、碁盤を撫ぜる。
「…これが、全てのはじまりなんだ」
 進藤は、努めて明るく声を出していた先ほどと変わり、静かに言葉を紡ぎだしていた。
「この蔵は、アイツと出会った場所なんだ。小学生のとき、俺、じーちゃんにも内緒でここに忍び込んでさ。小遣い稼ぎにお宝を探そうと思ったんだ。はは、とんでもないクソガキだよな。…それで、この碁盤を見つけて、それで、それで……」
 彼は言ったのだ。
「佐為は、幽霊だったよ」
 口の中にひそませるように、呟く彼の言葉は、不思議な力強さをもって断じられ、確かに、僕の耳へ届いた。
「碁が好きで好きで仕方ないって。そんな奴だった。死んでも、碁を打つの、諦められなくて。碁を何にも知らない俺にまで憑いちまうぐらい。・・・藤原佐為は、俺たちと別の時代を生きた、一人の棋士だったよ」
 考えもしなかった真実に、思わず呟く。
「本当に、秀策ではないんだな・・・」
「佐為が、俺に憑く前憑いてたんだ。…碁、何にも知らなかった俺と違って、虎次郎は佐為に打たせてやってたから。だから、あれは全部、佐為なんだ」
 僕は、言葉を失っていた。
「嘘だって思うか?」
「いや…」
「別に、信じる信じないは、いいんだ。…これ以上話せることはないし。それより、俺がこうして、佐為について話す気になったのは。俺はずっと、お前に言いたい事があったからなんだ」
 雫の落ちる音がする。
「もう佐為はいない」
 僕は隣を見やり、息を飲んだ。
「どんなに、お前や、お前の親父さんや、緒方さんや、誰が望んでも、もう、いない。いないんだ」
「進藤」
 進藤は、静かに涙を流していた。
「はは。もう、こんなに経ってるのに。まだ、俺…」
 察するに、僕が思っているより随分前に、フジワラノサイはこの世を去っていたのだろう。
「…そうか。……彼はもう、いないのか」
 オウム返しのようにしか答えられない僕に、それでも進藤はうなずいた。何度も、何度も。
 進藤は顔を伏せて、手のひらで覆い、嗚咽を漏らして。咽び泣かずにはいられないというように、わなないて。全身で、その悲しみに耐えている。僕は呆然と、そんな彼を傍らで眺めるしかできないでいる。
 僕にとって。そしてきっと、お父さんや他の皆にとって、saiは強さだけの存在だった。
 僕は、進藤が……人が、こんな風に取り乱す様を知らない。人が一人いなくなったと、悲しむ人間を。その悲しみを、僕は、知ることができない。
 僕とって、saiは、その程度だ。
 saiとは、突如出現した、謎を解き明かす手がかりだった。謎とは。強さに見合わぬ稚拙な物言い、出会ったその後の棋力の差、それら過去にまつわる君の矛盾。今となってしまっては。それらが解き明かされ、謎が消滅してしまえば、僕は、それでよかったのかもしれない。君という友、生涯の好敵手と対峙する折に、君に差す得体のしれぬ影。その影がちらついて、君の姿を見定められぬぐらいなら。いっそのこと、その影が。
 そして、その影は、もう。
 一人の棋士だと明かした進藤を、「フジワラノサイ」だと言って、「アイツ」と呼んだ進藤を、…涙を流す君を、僕は、何をもって接すれば良いのだろう。
「どんな人だった」
 尋ねると、進藤は、涙で濡れた顔をこちらへ向ける。
「…碁を打つとなると、あいつ、犬っころのようにはしゃぐんだ。俺と打ってばかりなのに、俺と打つしかなかったのに、それでも、いつも楽しそうで。あんなすごい碁が打てるのに。他の奴と全然打てない事、ちょっと不満言うぐらいで、いじけるぐらいで、怒りはしなかった。優しいやつだったよ」
 話しながら、涙はまだ止まらないようだったが、進藤はその内に、少しでも気持ちがおさまったのか、表情を穏やかにさせていた。安心して、僕も頬を緩ませる。
「僕はてっきり、君は秀策の生まれ変わりなのかと思っていた」
「…ははっ!なんだそれ!」
 それは嘘だった。半分だけ。それでも、進藤は素直に僕の話にのって、目じりに雫をこぼしながらも、本当に可笑しそうに、笑った。だから僕もつられて笑ってしまう。
 僕の、君にまつわるあらゆる憶測は、きっと、君がそう笑い飛ばしてしまうぐらいに、馬鹿らしいものに違いない。
 真実は、その涙に、違いない。
 一頻り笑い終えると、進藤は袖で顔を乱暴にぬぐい、立ち上がる。
「じーちゃんに挨拶。するんだろ?」
「ああ」
 階段を下り、蔵の扉の前に差し掛かる。僕はふと不思議な名残惜しさを覚え、後ろを振り返った。
 ここから全てがはじまり。進藤が僕の目の前に現れて。僕は進藤を追い。その強さを追った。それが。
 はじまりは、幻影だったとして。
 …僕は、なんて友達甲斐のない。
 戸を開く音が背後から聞こえる。我に返り、僕は正面に直った。
「お前は覚えていてくれよ」
 冗談めかして、進藤は言う。戸から漏れる外の光がまぶしくて、僕は思わず目を細める。
「他の誰が忘れても、お前は、覚えていてくれ。アイツは確かに存在してたって。誰よりも強かったって事をさ」
 それが全てだ。何者も、否定する事はできないのだから。そして、誰もが、ネットに突如現れた鬼才を、目の当たりにしているのだから。誰よりも、僕は知っている。進藤と出会ったあの日、そこに、いたのだと。
 進藤は、僕が知っている事を、確信している。
「俺たちのライバルは、そんな奴だったんだぜ」  
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