ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
穹色の風
閃光と轟音、そして耳をつんざく破砕音。それは、また一人のプレイヤーが世界から永遠にログアウトしたことを意味していた。
戦況は最悪だった。あまりにもインパクトのありすぎたボスの形態変化と仲間の死で走った動揺が抜けないうちに、今までとは別次元の機動性を見せたボスの攻撃によってさらに二人の前衛が死亡。ようやく現状を把握しだしたプレイヤー側は前衛をフォローして態勢を立て直そうとするが、それが整わないうちにボスにタンク部隊の壁を突破され、その先のアタッカー数人が被弾。命を散らした。
そして、プレイヤーの中の動揺は、その一瞬で恐怖へと変わった。制御しきれない恐怖の渦に飲み込まれたプレイヤーはパニックを引き起こし、ボス近くの比較的体力に余裕のあったはずのプレイヤーが、我先にと転移結晶で離脱した。目先の攻撃目標を失った仏像は、次なる獲物を探しつつ後衛に近付いていく。
「むん!」
このまま壊滅か……と、最悪の未来がプレイヤーたちの頭をよぎった瞬間。突如ボスの目の前に紅い光が割り込んだかと思うと、手に持った十字盾でボスの一撃を受け止めた。聖騎士・ヒースクリフだ。
彼は圧倒的な防御力とプレイヤースキルでボスの攻撃を受け止め、受け流し、たった一人で戦線を支え始める。
その間にアスナなど数人が必死に留まるよう呼びかけるが、既に恐怖に呑まれていたプレイヤーに届くはずもなく、逆にこれ幸いと一気に離脱していく。
気付けば、残っているのはヒースクリフとマサキ、エミ、アスナ、あの四人組と、残りたった十人未満という惨状だった。
「マサキさん……」
不安に押し潰されそうな声で、四人組の紅一点、アミが呟いた。他の三人も、どうすればいいのか分からず、困惑したような視線をマサキに向ける。
「……来てくれ」
マサキは一言だけ言うと、必死に統制を取ろうとしているアスナとエミの二人に駆け寄った。すると、こちらに気付いたアスナが厳しい顔で口を開いた。
「……この状態では、戦線を支えることは困難です。よって、現状での攻略は不可能と判断し、撤退します。あなたたちも、団長がボスを引き付けている間に脱出してください」
「だろうな。そう言うと思った。……だが駄目だ」
「え……!?」
まさか反対されるとは思わなかったのだろう。アスナが、そしてエミたちも揃って驚きの色を見せる。
「正気ですか!? 今撤退しないと――」
「今撤退したら、攻略組全体の士気が著しく下がる。「勝てない」という思いが刷り込まれ、ネガティブな心理状態でボスと向き合うことになる。そうなれば誰もが前に出ることを嫌い、連携面で大きな穴を抱えることになる。当然、勝算はかなり低くなるだろう」
「それは……」
「それに、軍の二の舞になることを嫌った攻略ギルドが、精鋭の攻略参加を出し渋る可能性もある。下手をすれば、攻略自体がここで頓挫しかねない」
「…………」
押し黙ったアスナを見て説き伏せたと判断したのか、マサキは急に振り向いて、ジュンたち四人に向き直った。
「お前たちは今すぐここから転移で脱出しろ。正直、お前たちのレベルとスキルではこの相手は厳しすぎる。恐らく今頃、援護隊が慌てて出発しようとしているはずだ。彼らに今の詳細な状況を伝えてくれ。……エミはアスナと一緒に、まだ戦えそうなプレイヤーを掻き集めてポーションで回復。援護隊の到着を待って、再び加勢しろ」
「……分かった。でも、それじゃあマサキ君は……?」
「いくらヒースクリフとは言え、一人であの相手は手に余るだろう。俺も向かって、二人で時間を稼ぐ」
「そんな……! だったら、俺たちも残ります! マサキさんが戦ってるのに、俺たちだけ逃げるなんて……!」
心配そうなジュンの言葉に、他の三人も頷く。そんな彼らを見て、マサキは呆れたように頭を掻いた。
「言っただろう。お前たちでは力不足、足手まといだ。それに、戦況を正しく伝えることは重要な仕事だ」
「…………」
「でも、そんなことして、マサキ君が死んじゃったら……!」
痛いところを突かれて押し黙った四人の代わりに、今度はエミが噛み付いた。不安そうな声に、マサキは一瞬考えるような仕草を見せる。
だが。
「死ぬ……。……そうか、そうだったな……」
続くマサキの反応は、エミが思っていたよりもずっとあっさりとしたものだった。斜め上の反応に、エミたちは揃って毒気を抜かれたようにキョトンと驚く。
「……とにかく、時間は何とかする。後は言った通りにやってくれ」
そうとだけ言い残すと、マサキは尚も止めようとするジュンたちを振り切って駆け出した。一気にトップスピードまで到達すると、腰元の鞘から再び蒼風を抜き放ち、高々と跳躍。ボスの胸程度の高さまでジャンプすると、身体を捻りながら地面に対して垂直に刀を一回転させるように振るう。その途端、水色の光が残る軌道から空気の奔流があふれ出し、やがてそれは巨大な竜巻となってマサキの姿を覆い隠す。
風刀スキル単発攻撃技《旋花》。本来は作り出した竜巻を相手にぶつけて攻撃する技だが、マサキは自らその中心部に飛び込むと、中心部の強烈な気流を利用して、カタパルトのように自身を射出した。そして空中で技後硬直が解けるや否や、風刀スキル最大の攻撃力を誇る重攻撃技《神風》を発動。空気を切り裂く轟音と衝撃波を撒き散らしながら、吹き荒れる暴風とライトエフェクトを纏った刀身を、猛々しい筋肉を晒した胸部へと突き立てる。
「ギェァァァァァッ!?!?」
強烈な一撃を胸に受けた仏像は、僅かによろけながら苦悶の叫びを上げた。手痛い一撃を喰らわせた相手を睨みつけ、硬直中のマサキにを葬ろうと、自身の持つ半分、数にして二十五本もの振り上げる。
だが、マサキは死を恐れていないかのように獰猛に笑うと、《夕凪》で硬直をキャンセル。脳の回転速度を一気に跳ね上げた。ボスが持つ腕すべての筋肉の動きを瞬時に計算し、攻撃予測点を詳細に割り出す。
「……ふっ」
マサキは短く息を吐きながら刀を抜くと、まず振り下ろされた薙刀をかわすために飛びずさった。直後、マサキのいた空間を鮮血色の光をぶちまけながら薙刀が切り裂く。続けて、緩やかに落下を始めたマサキの頭上から、光を纏った攻撃が流星群の如く殺到する。
――右、右、前、左、後ろ、前――!
だが、マサキはその全ての軌道を正確に読み取ると、何もないはずの空中を蹴り飛ばした。存在し得る全ての座標――例えそれが空中であろうと――を駆け抜けながら攻撃できる十四連撃技《嶺渡》を発動させたマサキは、そこに見えない地面があるのではないかとさえ思えるほど繊細、かつ迅速に空中を駆け巡り、ボスの攻撃をかわし続けるどころか、逆に振り下ろした腕をカウンターで斬りつけていく。
「ギアアァァァァァァッ!!」
全く攻撃が当たらないマサキに痺れを切らしたのか、ボスは更に攻撃用の腕を追加すると、マサキの周囲全方向から全方位攻撃を繰り出した。マサキを囲むように配置された刀剣類が、逃げ場を奪いながら迫っていく。
だが、そんなことはとっくにお見通しだったマサキは、表情一つ変えずに、よける素振りすら見せることなく突き進む。直撃を確信したのか、能面めいた顔を不気味に歪めてほくそ笑みながら、仏像は一気に腕を振り切ろうとする。
そして、幾十もの刀身がマサキを切り刻もうとした、その直前。複数の風が迫り来る腕の前に現れ、動きを阻害した。風を相手にぶつけることで相手の行動を阻害する風刀スキル特殊技《荒神風鎖》が《嶺渡》と重複して発動し、敵の攻撃速度を僅かに緩める。
そして、マサキの敏捷値にとって、そうして出来た一瞬の隙は、迫り来る剣の雨を掻い潜るには十分すぎた。
――SAOでソードスキルを発動させるために必要なのは、たった一つ、初動のモーションである。ソードスキルにはその全てにそれぞれ技を起こすためのモーションが設定されており、そのモーションを認識したときにのみソードスキルが発動する。当然モーションが同じ技は二つとないため、複数の技が同時に発動することはありえない。
だが、風刀の場合は違う。風刀スキルの技は使用者のイメージによってのみ発動し、モーションは関係がない。
ならばイメージを複数重ねればソードスキルが幾つも発動するのではと思うかも知れないが、もちろんそう簡単に上手くいくほど茅場晶彦は馬鹿ではなかった。例え複数のイメージを同時に入力したとしても、発動するのはカーディナルが認識した一番強いイメージの技一つのみ。あるいは、一つ一つのイメージが粗ければそもそも技が発動しないことさえある。
……だが、しかし。複数のイメージを十分に、かつカーディナルが認識できないほど同レベルの強さで入力した場合にのみ。カーディナルは出力させる技を選ぶことが出来なくなり、結果、複数の技が同時に発動する。
無論、だからと言って即座に狙えるようなものではない。が、マサキはそれをやってのけた。マサキだけが、風刀にだけ使うことの出来るシステム外スキル、その名も《デュアル・キャスト》――。
「せあぁぁっ!!」
ボスの必死の攻撃をもかわして見せたマサキは、そのまま全速力で空を駆け抜け、蒼風を横薙ぎに振るいながら斬り抜けた。先ほどマサキを逃した腕たちが血眼になって追撃を始めたが、繰り出す攻撃は、まるでマサキを嫌うかのように悉く虚空を切り裂いていく。《荒神風鎖》で作り出せる風の強さは筋力値に比例するため、マサキが起こせる強さでは腕の動きを止めたりすることは出来ないが、横から煽ることにより僅かに軌道をずらす程度なら余裕で出来る。そして、マサキにはその僅かで十分だった。
スキルと技、スピードで相手の攻撃を回避、撹乱しつつ、手札の多さと敏捷性で一方的に攻撃する、変則的高速高機動型三次元戦闘。それが、《穹色の風》マサキの真骨頂なのだ。
「すげぇ……」
「あれが……穹色の風……」
マサキの圧倒的とも言える戦闘を前に、ジュンたちは次々に賛嘆の声を口にした。長い間憧れていた人物が必死に戦う姿に、尊敬と、自分たちだけが逃げ帰ることへの後ろめたさが同時に沸き上がってくる。確かにマサキの言うとおり、自分たちの実力ではあのボスと対峙することは難しいし、援護隊に状況を伝えることも重要な役割だろう。今この間にも、援護隊はこの部屋を目指そうとしているのだ。ぐずぐずしていたら自分たちの転移より先に出発してしまいかねない。
「……なあ、ジュン」
そして、刻限と感情の狭間で迷った末、彼らはマサキの命令を半分《・》だけ破った。
「……俺たちは三人でここに残る。ジュンは一度帰って、援護隊に状況を伝えるんだ」
「そんな!?」
「違うんだ、ジュン。確かにジュンは一度帰るけど、それで終わりじゃない。援護隊に状況を伝えたら、一緒に戻ってくるんだ。俺たちはここでそれを待って、エミさんたちと一緒にボスに最後のとどめを刺す。これなら、俺たちにも出来るはずだ」
「皆……分かった。俺、行って来るよ。――転移! アルゲード!」
ジュンは真剣な顔で頷くと、たった二人でボスと渡り合い続けるマサキを凝視しながら転移して行った。後にアインクラッド史上でも有数の激戦として知られることになる戦いの終焉を告げるカウントダウンは、今も刻一刻と時を刻んでいた。
「……ッ!」
もう幾度放ったのかすら分からない《嶺渡》で、マサキはボスを背中から斬りつけた。どうやら先ほど鎧を脱ぎ捨てた対価はかなり高いらしく、最初は殆ど減らなかったHPバーが今の一撃で目に見えて減少する。ボスのHPは残り一割を切り、もうこのまま二人で倒せてしまうのではというようにさえ見える。
「……っと」
残り連撃数が一になったマサキは、追撃してくる腕をかわしながら着地して、最後の一撃をわざと空振りした。こうすることで、回避機動を取りながら離脱することが可能になるためだ。
だが、それでも技後硬直まで消すことは出来ず、ここぞとばかりに頭上から雨あられの如く剣筋が降り注ぐ。そして、最初に振り下ろされた槍の穂先がマサキを捉える寸前、真紅の盾がその間に割り込み、神掛かった盾捌きでその全てを跳ね返す。
「……相変わらず、馬鹿げた防御力だな。少しくらい分けていただきたいものだ」
「なら私は、君の敏捷値を頂こうか」
今もなお断続的に殺到する攻撃を完璧に捌きながら、ヒースクリフは軽口を返して見せた。数多の攻撃を掻い潜ってボスにダメージを与えるマサキも流石だが、マサキが戦いやすいようにボスの攻撃を出来るだけ引き付け、マサキの硬直時には必ずフォローに回るヒースクリフも圧巻の一言だ。しかも、それだけの攻撃を受けながら、彼はHPを八割も残している。彼がアインクラッド最強と言われているのにも頷ける。
「さて……どうだね、マサキ君。まだいけるか?」
「ああ、問題ない。そろそろ、援護隊も到着する頃だからな」
ヒースクリフの問いに肯定で返しつつも、マサキの顔つきは若干厳しそうだった。それもそのはず、腕一本でさえそれなりの負荷が掛かる筋肉演算を五十本分、さらに《デュアル・キャスト》まで併用した状態の戦闘を、マサキはかれこれ三十分以上も続けているのだ。いくら彼の頭脳が超人的とは言え、限界はある。どんなに長くとも、あと五分持つか持たないか、といったところだろう。
だが、それは決して無謀な賭けではなかった。今マサキが言ったとおり、もういつ援護部隊が到着してもおかしくない時間帯なのだ。
そして実際に、その時はすぐにやってきた。《嶺渡》での攻撃に敵AIが慣れてきたことを感じて攻撃に使う技を《雪風》に変えたマサキの三撃目がボスの左足を捉えた瞬間。巨大な喊声を上げながら、数十人の軍団が部屋に駆け入ってきたのだ。既に限界間近だったマサキは、ボスの攻撃に全神経を傾けながら離脱を開始する。
――だが。
「マサキさん! 今行きますッ!!」
「な……ッ!?」
聞き覚えのある声にマサキが驚いて振り向くと、到着した援護隊の一番前でジュンが刀を振り上げながら駆け寄ろうとしていた。更に、残りの三人にいたっては誰よりも先行してこちらに走ってくるではないか。
「馬鹿! 来るんじゃない! こいつはお前たちが敵う相手じゃ「マサキさん後ろ!!」――!?」
彼らが転移していなかったことに気付いたマサキが何とか突撃を止めさせようと叫んだ一瞬の隙を突いて、仏像は巨大な鎌を振り下ろした。マサキは咄嗟に蒼風でガードを試みるが、筋力値の差によって大きく弾かれ、さらに発動していた《雪風》もキャンセルさせられてしまう。
「しま……っ!?」
そして、この仏像がマサキが見せた最大の隙を見逃すはずもなく。マサキは横薙ぎに振るわれた槌に全身を思い切り殴られる。
「ぐ……がはっ……!?」
くの字に折られたマサキの体が地面と平行に吹き飛ばされ、一気に減ったHPが残り一ドットを残して辛うじて止まる。
……しかし、不幸はそれだけでは終わらなかった。
「え……?」
マサキが吹き飛んだ先に待ち受けていたのは、壁でも石床でもなく、あの三人組だった。彼らは突然高速で飛んできたマサキをよけることも受け止めることも出来ず、三人一緒に巻き添えを喰らって吹き飛んだ。
「ぐ……あぁ……」
そして、ぐらぐらと安定しない視線を強引にまとめたマサキの視界に飛び込んできたのは、周囲で倒れている三人組と、頭上で気味の悪い笑顔を浮かべた仏像だった。ニヤリと歪んだ能面の口元に、鮮血のように真っ赤な光が迸る。
「――ッ!!」
マサキは咄嗟に蒼風を掴むと、《瞬風》で退避。直後、マサキがいた場所を紅い光が包む。
「え……?」
「あ、あれ……?」
全滅かとも思われた状況だったが、撒き散らされた光には何故か攻撃判定が存在していなかったらしく、彼らがダメージを受けることはなかった。マサキの隣まで駆け寄ってきたジュンが、それを見てほうっと息をつく。
「……帰れと言ったはずだ」
《瞬風》で遠くに飛びすぎたため座り込んだ状態で技後硬直を受けているマサキが、厳しい声色でジュンに言った。
「それは……その、マサキさんの力になりたくて……」
「その結果、俺まで危険に晒されたとしても?」
「それは……」
後ろめたさのあるジュンは、強く言い返せずに黙ってしまった。それからしばし考え込んでいたが、やがて蚊の鳴くような声で「分かりました」と言って仲間のもとへ向かっていった。
キリトを始めとした第二陣やヒースクリフの奮闘もあり、現在前線は落ち着いている。転移するには安全かつ絶好のタイミングだろう。が……。
「……うん?」
何かあったとき即座に《夕凪》を発動させる準備をしつつも体の力を抜いたマサキは、戦列から一歩退いた場所で話している四人組に、ふとした違和感を覚えた。彼らはジュンの話を表面上は大人しく聞いているが、全員顔が俯き、微動だにしていない。ここで逃げ帰ることへの悔しさの類かとも思ったが、どうにも様子がおかしい。
《夕凪》を使って今すぐに声を掛けに行くべきか、マサキが僅かに考えを巡らせた……その時だった。
それまで大人しく話を聞いていた三人のうち正面の一人が、血の通った生物に見えないほどぎこちない、例えるなら、油の切れたロボットか操り糸が絡まった操り人形のような動きで、突然手を薙いだ。握られていた槍の穂先が、仄かな軌跡を残して宙を滑る。
そして、棒切れのような腕が振り切られたその瞬間。ジュンの右腕が根元から切り落とされ、蒼い光を撒き散らして消えた。
「え……?」
「逃げ……ろ……」
急転した状況についていけないジュンに追い討ちをかけるように発せられた、途切れ途切れの声。パニックで動けないジュンの前で、仲間だったはずの少年が槍を頭上に浮かぶ血飛沫色のカーソル――眼前の相手が“プレイヤー”ではなく“モンスター”である何よりの証――の更に上まで振り上げて――
「……ッ!!」
それが振り下ろされる寸前、《夕凪》で硬直を解除したマサキはポーチの回復結晶を使うと同時に素早く腰元の投剣を放った。ヒュンッ、と空気を切り裂いて、淡い光を纏った刃が彼らに肉薄する。三人組はそれを察知すると、迫る投剣を容易くかわして迎え撃つようにこちらに駆けてくる。
「ウソだろ……? 何で……こんな……」
「身体が……嫌……嫌ぁ……っ!」
この状況で一番厄介な“全員が散開して、ボスにかかりきりになっている前衛に後方から襲い掛かる”という戦術を取ってこなかったことにひとまず安堵したマサキは、次々に繰り出される攻撃を持ち前の素早さでかわしつつ、周囲の状況を確認した。脳が疲弊した今のマサキでは筋肉演算も《デュアル・キャスト》も使えないが、三人組の動きが精彩を欠いていて、かつ連携も取れていないためその程度の余裕はある。
数十メートルほど先では、駆けつけた援護部隊がヒースクリフのもとでボスと激戦を繰り広げている。怒号に咆哮が飛び交う集団は、とてもこちらに人数を割ける状態ではなく、そもそもこの騒ぎに気付いていない者も多い。後方ではエミや先ほど残った僅かのプレイヤーがポーションによる回復を待っているが、まだまだHPが戻っておらず、また仲間割れというこの状況についていけずに立ち尽くしている者もいる。当然、増援など望むべくもない。
「お願い……よけて……」
一通り周囲を見回したマサキは、身体を捻って突き出された槍を回避すると、今度は今まさに自分に刃を向けている三人組に目を向けた。真紅のカーソルや時折耳に届く言葉の端々から、この行動が本人の意思によるものではないことは明らかだ。となれば、彼らは何らかの理由により身体の自由を奪われていることになるが……。
首を刎ね飛ばそうと迫る片手剣を仰け反って避け、崩れたバランスを利用してバク転で距離を稼いだマサキは、脳内で記憶のアルバムを開いた。ボス戦が始まり、形態変化によって戦線が崩壊し、援護部隊が駆けつけた直後に一撃を喰らい、ぶつかった後逃げ遅れた三人組に正体不明の紅い光が降り注ぎ――
「あの時か……」
原因に思い至ったマサキは、元々細い切れ長の瞳を更に細めて三人を睨んだ。この場合、一番確実な対処法は、この三人組の“排除”――要するに、殺害。今は三人全員がマサキに向かってきているからいいものの、散開されて前線に奇襲をかけられたりでもすれば、戦線は完全に混乱するだろう。しかも、相手は数分前までプレイヤーだった。攻略組と言えど、冷静に対処できる人間が、果たしてどれだけいることか。
――『……ず、ずっと憧れてましたッ!!』
――『だから、俺はマサキに立ち直ってほしい』
――『信じてあげてください。……マサキさん自身の、繋がりを求める心を』
「…………」
握った蒼風が語りかけてくるかのように頭の中に流れ込んできた幾つもの言葉が、強制排除もやむなしとしたマサキの判断と衝突した。身体が一瞬強張り、突き出された槍への回避が遅れて肩口を浅く抉られる。
「嫌……こんな……助け……!」
涙の混じった声が脳内でぐるぐると廻り、マサキの葛藤を更に激しく煽る。
マサキは一瞬目を瞑ると、蒼風をぐっと握り締めて、
引き抜いて、
切り裂いた。
……横から突き出された、鈍色の片手剣を。
「え……?」
武器の喪失を感知したAIの困惑か、あるいは操られている少女の“素”の反応か、戸惑うように硬直した少女の脇をすり抜けて、マサキは背後から振り下ろされた大剣の軌道から身体を逸らしつつ、HPではなく耐久値に対してダメージボーナスがかかる風刀技《松涛》をその横っ腹に思い切り叩き付けた。瞬間、甲高い衝撃音がその場を駆け抜け、無骨な大剣に小さな亀裂がピシリと入る。
相手の武器を潰すことで攻撃力を取り除き、前線に向かわれた場合の脅威度を引き下げ、その上で時間があれば麻痺毒などで拘束する。その間にボスを倒せれば、彼らが元に戻る可能性もまだ残っている。
「せあぁぁぁぁぁッ!!」
遂にズキズキと悲鳴を上げ始めた脳をねじ伏せるように声を張り上げ、マサキは僅かな筋力値を振り絞った。その声に後押しされるかのようにして蒼風を握る両腕がぐっと押し込まれ、蒼い光を放ちながら徐々に大剣に食い込んでいく。
――いける。マサキがそう確信し、数ミリほどだった亀裂が大剣全体に広がっていった、その瞬間――!
――ガシッ。
「な……!?」
突如背後から伸びてきた腕が、蒼風を握る両手首を掴んだ。その途端、蒼風を包んでいたライトエフェクトが嘘のように消え失せる。手の動きを強引に抑え込まれ、《松涛》がキャンセルされたのだ。
ソードスキルがキャンセルされ、マサキに硬直が課せられる。その隙に大剣使いの少年はバックステップで距離を取り、手首を掴んでいた腕はいつしか両肩をがっちりと捕らえ、羽交い絞めの体勢に移っていた。驚きと焦りの表情を浮かべたマサキが首から上だけで振り返ると、やはりと言うべきか、ついさっき得物である片手剣を砕いた少女の顔がすぐ後ろにあった。
「クソッ……!」
毒づきながら、こうなるのなら、武器を壊した時点で麻痺させておくべきだった――、などという考えが頭をよぎるが、だからと言って状況が変わるわけでもない。
硬直が解けさえすれば、例え筋力値の差で押さえつけられていても上手く身体を捻れば拘束から抜け出すことは不可能ではない。その間に、大剣使いから一撃を浴びてしまうかもしれないが、一度なら喰らっても問題はない。マサキは即座に頭を切り替え、力の掛かり具合から抜け出すための動きを計算し始める。
だが、今が絶好の攻撃機会だと言うのに、大剣使いの少年は一向に仕掛けてこなかった。……まるで、何かを待っているみたいに。
「……まさか……」
その瞬間、マサキの顔に今までにない焦りが浮かび、頭に最悪のシナリオが流れた。途中だった計算が頭から抜け落ち、取って代わった焦燥感からマサキが振り返ると、自分を羽交い絞めにする少女の更に後ろに、一人の少年がいた。
カーソルは鮮やかな血色。ボスに身体を乗っ取られた三人のうちの一人。やがて彼が構えた槍の穂先を淡いライトエフェクトが包み始め――
「……せ……止めろ……!」
珍しく焦りが表面にまで滲み出た声だったが、その声が少年の動きを妨げることはなく。
「…………ッ!!」
少年は一気に距離を詰めると、手に持った槍を捻りながら突き出して。硬直と拘束で微動だにできないマサキの腹部を、羽交い絞めにした少女ごと貫いた。
異物を飲み込んだような違和感が下腹部に充満し、視界の隅に映るHPが滑らかに減っていく。やがてマサキのHP減少が、残り1ドットを残して止まった瞬間。
「嫌……死にたく……ない……!」
恐怖に歪んだ少女の顔が、ノイズがかかったように乱れる。
直後、うわごとのような断末魔をマサキの耳元で囁いて、少女の身体は砕け散った。
――ああ。またなのか。
ひらひらと舞いながら消えていく蒼い破片を焦点の合わない視線で眺めながら、マサキは心の何処かでそう思ってしまった。
あの頃みたいに、信じようとしていたのに。
あの頃みたいに、手を伸ばしたのに。
あの日みたいに、零れ落ちた。
あの日みたいに、遠くに消えた。
――『マサキ……ごめん……』――
――『穹色の……風……』――
一瞬にして頭と心を支配した“無意味”の三文字が、あの日の記憶を呼び起こして。
――だったら……繋がりなんて求めたって、何の意味もないじゃないか――。
やがてそれは、そんな一つの結論を導き出した。
「ハ……ハハッ……」
ふらふらと立ち尽くしたまま、マサキは笑った。
決めたような、捨てたような。
悟ったように、諦めたように。
ふと前を見ると、大剣使いの少年が何かを喚きながら大剣を振り上げていた。マサきは無言で構えると、《春嵐》で元の二倍まで引き伸ばした半透明の刀身を振り上げた。重みと威力が増した風の刃は、一寸の狂いもなく狙った場所に命中し、大剣を握る両腕を斬り飛ばした。突然遠心力から解放された大剣は、ハンマー投げの如く十メートル余りを飛んで石畳に突き刺さる。直後、それに巻き付いていた二本の肘から先が、少女と同じ末路を辿った。
「…………!」
急に攻撃パターンが変わったマサキにAIが困惑したのか、大剣使いの少年が慌てたように後ずさろうとした。マサキはそれを察知すると、敏捷値をフルに使って前方に跳んだ。身体を貫いていた槍から強引に抜け出した瞬間には下腹部が強めの違和感を訴えたが、そんなことはどうだっていい。
マサキは一瞬にして少年の背後に回りこむと、《荒神風鎖》を使って、今まさに飛びずさろうとしている脚の膝裏を押さえた。全く予想できていなかった場所に力が加えられ、体ごと後ろに倒れこむように大きく体勢を崩す。マサキは倒れこんでくる少年の襟を掴むと、勢いを利用して背負うようにして投げ飛ばした。体術スキル《風車》を受け、目の前で頭から落ちていく少年の首を、マサキは蒼風の一閃で切り裂いた。
「…………」
ポリゴンの欠片が雪のように降る中を無言で振り返って、マサキは残った槍使いを見た。視線の先で、少年が動かされるままに構えさせられる。顔には言いようのない恐怖が植えつけられていて、今の彼の状況をこれ以上ないほど克明に教えてくれている。
僅かの間をおいて、マサキが駆け出す。
少年がパニックを起こしながら槍を突き出す。
そして、それを容易く回避して懐に潜り込んだマサキが、目にも止まらぬほどの動きで刀を振るい、少年のHPを削り切った。
それからほんの少しして、数十メートル先で一際大きな破砕音と大歓声が響いた。
ふと見ると、呆然とした瞳でこちらを睨み続けるジュンと目が合った。
「何で……何で……!」
十秒ほどの時が過ぎて、ようやく我に帰ったジュンは、無意識に泣き腫らした瞳でマサキを睨んだ。悲しみ、やるせなさ、疑念、そして怒り。全ての感情が凝縮された視線が、突っ立った、ただ倒れていないだけのマサキを捉える。
虚ろな瞳で部屋を、ジュンを見る。勝利の余韻に酔いしれていた群集が、気付いたように静まり返って視線をこちらに集中させる。
その中心で、マサキはもう一度歪に笑った。
「何で? ……ハッ、簡単なことだ。……俺が、人殺しだからだよ」
「え……?」
“人殺し”――。このSAOで最も忌避されているとも言えるその単語をマサキが紡いだ瞬間、波に打たれたように聴衆がざわめいた。目を見開いたジュンが、信じられないという風にかぶりを振る。
「そんな……ウソだ……!」
「嘘じゃない。現に、お前たちが俺を呼んでいる「穹色の風」。それは、俺がPKしたときについた名前だ」
「そんな……そんなはず……! だって、だったら、俺たちはそんな人殺しを……!」
「ああ、そうだよ。お前たちが憧れ、目標にしていた人物は、血に塗れた、薄汚い人殺しだ」
「…………!」
その瞬間、ジュンの中で何かが弾けた。膝の横の太刀を取り、雄叫びを張り上げながらマサキに斬りかかる。近くにいた数人のプレイヤーが咄嗟にジュンを床に押さえつける。ジュンはマサキを血走った目で睨みつけながら暴れるが、スピード型のジュンに数人がかりの羽交い絞めを抜け出すことなど、到底できるはずもなかった。
「放せ……放せよ! 畜生、畜生……ッ!!」
泣き喚き、もがきながら叫ぶジュンをマサキは冷ややかに見下すと。
「――転移、ウィダーヘーレン」
システムが感知できるギリギリの声量で、その場を去った。
『殺す……いつか、絶対に殺す……!』
視界が漂白される寸前にジュンが放ったその言葉が、マサキの脳内で延々と繰り返されていた。
ウィダーヘーレンに隣接した、小さな針葉樹林。その外れに位置する小高い丘に、マサキは突っ立っていた。丘の中心部には一際高いカラマツがそびえ、その根元に小さな白い花が墓標のように植えられている。何度も何度も木枯らしに吹き付けられたその花は既にしおれきっていて、今にも消えてしまいそうだった。
「……マサキ君……」
不意に、背後から声がした。首から上だけで振り向くと、心配そうな表情を浮かべたエミの姿が。
「……追けてきたのか」
「それは……ごめんなさい……」
窘めるようなマサキの視線と言葉に、エミは思わず謝ってしまう。
沈黙。
「……ねえ、マサキ君。一度、皆のところに戻ろう? 今なら皆も分かってくれるし、わたしも一緒に謝って――」
「……いや。いい」
「でも……」
「いいんだ」
エミに背中を向けたまま、マサキは強く断った。まるで、泣くのを我慢している子供のような、震えた声だった。
「……帰ってくれ」
念を押すようにマサキが言った。エミはしばし考えていたが、やがてゆっくりとその場を去った。
マサキはそれを確認すると、マツの間から覗く、星一つない虚空を見上げた。
「俺は――」
――本当に、これで良かったのか。
そう続けようとして、出来なかった。
木枯らしに揺れる小さな墓標と、少年の見せた表情だけが答えだった。
「……行くか」
泣くように呟いて、マサキは一人、林を包む闇の中に消えた。それを追うように、耐久力の尽きた花が蒼く散った。
現在時刻は午前0時。……たった今、夜は、深夜へと変わった。
後書き
いかがでしたでしょうか。何だか今回のマサキ君が第一層でのキリト君と重なるような気がしないでもありませんが……、まあ相違点もありますし、そこは見逃してやってください(オイ。
さて。今回は原作で語られなかった第五十層攻略戦を中心に、マサキ君の明かされていない謎の部分をほのめかしながら描いてみました。自らを殺人者だと打ち明けたマサキ君。彼の想いとは何なのか。彼の過去とは、一体どういったものなのか。そして、真夜中に立ち尽くしている彼に、再びの夜明けは訪れるのか。この後の展開にご注目ください。
また、今回の二話で登場し、仲間を失ってしまったジュン君。彼もまた、この物語で重要な役割を果たしていくことになります。出番自体はそこまで多いとはいえませんが、覚えておいて頂ければ幸いですね。
もう一つ。先ほどマサキ君の状況を「真夜中」と書きましたが、何も夜に光が何もないわけではありません。闇の中の主人公を照らす、一筋の光……といえば、勘のいい読者の皆さんならばピンときたのではないでしょうか。そう、恋愛です。
というわけで、次話より現在絶賛空気化中の正ヒロイン()、エミさんとマサキ君とのラブストーリーが、ようやく始まります。皆様が砂糖を吐くような展開も用意しておりますので、是非お楽しみに(笑)。
……え? エミなんていいからさっさとマサキ×トウマを見せろって? ……し、知りませんねそんなの!!←
ご意見、ご感想、OSSなどお待ちしております。
では。
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