魔狼の咆哮
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第三章その五
第三章その五
「・・・手強いな」
警部と中尉が懐から拳銃を取り出した。稲妻の速さで銃弾を放つ。
銃弾は全て石像の身体を撃った。だが怪物はびくともしない。
「くっ、銃は効かないか」
そこへ斧が振り下ろされる。二人はそれを横に跳びかわす。
役が懐から何かを出した。数枚の札だった。
「行け」
札を石像へ向けて投げ付ける。中でそれは白い鳥に変化した。
鳥の嘴と爪が石像の胸や肩を打つ。いささかのダメージは与えたようだが致命傷ではなかった。
「ほう、陰陽道か」
アンリの声が笑っていた。
「面白い術を身に着けているな。だがそれでは俺の下僕は倒せん」
ダメージにひるむことなく戦斧が振られる。役はバックステップをとった。
「刀や短刀も効果は少なそうだな、これは」
構えをとりつつ本郷が不満そうに漏らした。
「じゃあ僕が行きます」
その声は巡査長だった。にこりと微笑みながら前に出る。
「おい、相手は斧を振り回す化け物だぜ、一人で大丈夫か?」
「援護を頼みます。まあ見てて下さい」
巡査長は石像の前に立った。背だけで巡査長の二倍以上はある。身体全体で見ると全く比較にならない。そえだけを見ると到底勝ち目はなさそうだった。
「行くぜ、置物」
にやりと笑うと構えを取った。
「あれは・・・」
それは柔道の構えだった。
斧が斜めに振り下ろされる。それに対し巡査長は前に跳んだ。
斧をかわし石像の懐に飛び込んだ。そしてその右腕をつかんだ。
「そおおりゃあああああ!!」
掛け声とともに思いっきり放り投げる。一本背負いだ。
普通なら到底投げられぬ相手であっただろう。しかし斧を振り下ろした力がまだ残っていた。上体を崩された石像はそのまま宙を舞った。
重く鈍い音をたて石像は大理石の床の上に落ちた。大理石の欠片が飛び散る。
「これは・・・効いたか」
役が呟いた。だがそれに反して石像は立ち上がってきた。
「流石はミノタウルスだ。そうそう簡単には倒れないな」
しかしそれなりのダメージはあったようである。動きが鈍っていた。
「よし、足にきてるな」
よろめく石像を見て巡査長は笑った。石像は明らかにバランス感覚に狂いが生じていた。上半身もふらついていた。
再び石像が斧を振り下ろした。そこへ巡査長は飛び込んだ。他の五人は血迷ったかと思った。しかしそれは巡査長の策だった。
石像が大きく跳ねた。巡査長は身を屈めただけであった。天井に達するかと思われる程高く跳んだ石像はそのまま頭から落下した。
今度は激しい地響きと衝撃が部屋に響いた。雄牛の頭が完全に砕けていた。石像の身体が崩れていく。無数の石の欠片となって床にこぼれ落ちていった。
「上手くいきましたね」
起き上がりつつ巡査長はにやりと笑った。
「空気投げか。まさかこの目で見るなんてな」
賞賛を込めた声で本郷が言った。
「柔道に伝わる伝説の大技の一つか。ヨーロッパでこの技を会得している者がいるだけでも驚きだけどな」
「実際に使ったことはほとんどありませんでした。あれだけの大物を倒すとなればそいじょそこらの技では通用しないと思いましたので」
「それにしてもこれだけの威力があるとはな。柔道とは怖ろしいものだ」
「でしょう?やってみるといいですよ」
石の破片の山と化したミノタウルスの石像を眺めつつ感嘆の言葉を漏らす警部に笑いながら言った。
「ふん、見事なものだな」
アンリの声が響いた。明らかに不快の色が滲み出ている。
「俺の芸術を壊してくれるとは。最早貴様等全てこの俺の手で屠ってやらねば気が済まん」
「ほお、じゃあ隠れてないでさっさと出て来たらどうだい」
本郷が口の端を歪めて挑発した。
「鏡の間だ」
アンリは怒りを抑えた声で言った。
「鏡の間に来い。そこでこの俺自ら相手をしてやる」
その言葉が終わると同時に幾何学模様の扉が開いた。
六人は戴冠の間へ向けて歩を進めた。罠を用心しその足取りは慎重だ。
どの間にもシャンデリアが飾られている。バロック絵画や金箔と共に部屋をみらびやかに飾っている。
美の女神の間に入る。そこには若き日のルイ十四世の銅像があった。
「まさかまた動いてくるなんてことはないだろうな」
本郷の予想は外れた。だが危機は頭上から来た。
豪奢なシャンデリアが降ってきた。六人は慌ててそれをかわす。派手に割れる音と無数の細かい輝きを発しつつシャンデリラは砕け散った。
それを合図に部屋の四方八方から異形の化け物達が姿を現した。おそらく庭にいた連中もいるのだろう。かなりの数だった。
それは狼や山猫の姿をしていた。だが決して獣などではないことはその紅く邪悪に光る眼が教えていた。
魔獣達は咆哮と共に一斉に襲い掛かってきた。まずカレーに襲い掛かる。
カレーが右手を横に振るった。氷の剣が宿る。
カレーは無言のまま氷の刃を振るった。まず狼の首が飛んだ。
だが首はそのままカレーへ向けて飛んできた。牙をむき喰いつかんとする。
カレーはその首を唐竹割で切り捨てた。二つに分かれた首が音を立てて床に落ちる。
山猫の爪をかわし身を捻るとその胴を両断した。鮮血を撒き散らしつつ山猫は床に転げた。
床に落ちた狼と山猫の骸がしゅうしゅうと音をたて溶けていく。そして割れた石の欠片となった。
「この連中もアンリがルーンの魔術で創った使い魔か」
「だとすればさして怖れる相手ではないな」
警部が蝙蝠達へ向けて銃を放つ。爆発に巻き込まれた蝙蝠達が燃え上がりつつ落ちる。
咆哮と共に襲い来る虎の首を蹴り上げると中尉は心臓に照準をあてた。一撃で虎は沈んだ。
本郷は刀と短刀で、役は拳銃と式神でルーン文字の魔獣達を倒していく。その横で巡査長が得意の柔道と空手を披露している。
この部屋から獣達の姿が消え失せるのにさして時間はかからなかった。一匹の獣もいなくなるのを認めると一行は部屋をあとにした。
ベルサイユ宮殿において最も有名な部屋と言われているのが鏡の間である。ルイ十四世の居室として使われ華やかな舞踏会が催された場所でもある。深い奥行きを持ちその名が示す通り十七の窓と対になっている大鏡の他無数の鏡を持ち天井には美しく絢爛な絵と水晶のシャンデリアが果てしなく連なっている。広いこの宮殿においても特に装飾に工夫が施された部屋でもありこの宮殿を訪れた者は皆この部屋で感嘆の息を漏らすという。
この部屋はブルボン王朝、それ以降の多くの者達と共にフランス、いや欧州の歴史を見てきたがその絢爛さからか歴史の主舞台となったこともある。
第一次大戦終結後この宮殿に参加国の者が集まった。そしてこの部屋において勝者の連合国側は敗者のドイツとベルサイユ条約を結んだのである。ドイツに対し極めて過酷な要求を突きつけたこの条約はドイツとドイツ国民を苦しめその怨恨を宿らせることになる。それがナチスを産み出すもととなったのは歴史の皮肉であった。
その部屋に六人は入った。みらびやかな部屋は静寂によって支配されていた。
細く長い部屋は窓から月の光が差し込めている。鏡にはその光で部屋を照らす月が映し出されている。
「相変わらず胸の悪くなる色の月だな」
鏡に映る鮮血の様な色の月を見て本郷は言った。見ればその月が部屋の多くの鏡に映っている。
「最後の舞台の観客がこの月だけとは。いささか寂しくはありますが」
警部が洒落た言葉を出す。
「まあ美しき女神ですけどね」
役がそれに言葉を続ける。
「女神・・・アルテミスか」
カレーがふと気付いたかのような顔をした。
「狩りの女神でしたね。我々を守護してくれればいいですけれど」
中尉が笑みを浮かべて言った。
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