エリクサー
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1部分:第一章
第一章
エリクサー
東ドイツライプチヒ近郊の森。今ここに二人の東洋人の男がいた。
一人は黒い髪を短く切った精悍な顔立ちに筋肉質の長身の男であり見るからに強そうな印象を受ける。だがやや童顔でそれがやけに可愛い印象も与える。黒いジャケットの下に赤いシャツと黒いズボンと靴というラフな出で立ちである。その背中に何か皮の袋に包んだ細長いものを持っている。
彼の横には彼より少し低い程度の背の男がいる。茶色がかった髪をセンターで分けており細長い顔に細い目をしている。全体的に血の気の薄い印象を受ける顔だ。濃紺の背広の上にクリーム色の丈の長いコートを羽織っている。二人は森の中を見回しながら先に進んでいた。
「何か思ったよりおどろおどろしくないですね」
若い男がコートの男に声をかけてきた。
「おどろおどろしい?」
「だってドイツの森ですよ」
彼はここでドイツの森を出した。
「童話とかそんなのだと。何時何処から魔物だの妖精だのがいるかわからないじゃないですか」
「童話ではそうだな」
コートの男は若い男のその言葉に頷いた。
「よくあるな」
「赤ずきんちゃんじゃ狼ですし他には熊とか」
「もう狼も熊もいない」
コートの男は静かな口調でこう若い男に告げた。
「野生の狼も熊も欧州では絶滅してしまった」
「そうなんですか」
「そうだ。家畜を襲うからな」
それが最大の理由であった。欧州で狼が恐れられるのは家畜を襲うからだ。狼は人を襲うことはないが家畜を襲うことがイメージとなりそうした悪の獣となったのである。それが為に狩られ今では野生の狼は欧州では絶滅してしまったのだ。かろうじてエストニアに生息する程度である。
「それで狩られたのだ」
「何か可哀想ですね」
若い男はその話を聞いて呟くようにして述べた。
「狼が」
「絶滅して豊かになった時代だから言える言葉だな」
コートの男はそう若い男に言葉を返した。二人が歩くこの森はそれ程鬱蒼としてはおらず木の下にある植物も少ない。見晴らしが比較的よく緑の木々の間から明るい日差しも入る。森林浴には絶好の森であった。
若い男の名は本郷忠、コートの男の名を役清明という。日本の京都で探偵業を営んでいる。今は仕事を休んでドイツに旅行に来ているのである。
「そういうことも」
「そうですかね。何かあまりそうは思えないですけれど」
「そうなのか」
「俺が日本人だからですかね」
本郷は何気ない様子でそう言うのだった。
「結局のところ。まあ日本人も明治に狼を絶滅させていますけれどね」
「そうだ。ニホンオオカミをな」
「やっぱり豚とか羊とか飼うようになったら狼は敵になっちゃうんですね」
「そういうことだ。仕方ないと言えば仕方ない」
役はそう述べて特に西洋人達を責めないのであった。
「彼等も生きていかなくてはならなかったからな。狼もそうだが」
「生きるか死ぬかですか」
「当時の欧州は貧しかった」
こうも言う。
「それこそ壊血病や飢餓が常に隣り合わせだった」
「壊血病ですか」
本郷は壊血病の病名を聞いて思わず顔を顰めさせた。その病気については彼も知っていた。
「そんなものまであったんですね」
「日本ではなかったな」
「ないですね」
首を傾げて述べる。
「流石にそれは」
「餓えも欧州に比べればずっとましだった」
「そうなんですよね、確か」
「天明の飢饉でもフランスの豊作の時より餓死者は少なかった」
「フランスっていうと確か」
本郷はここで己の記憶を辿る。何時の間にか森もそこに差し込む光も見なくなっていた。そうして己の記憶を見るのであった。
「欧州で一番豊かな国でしたよね、農業だと」
「そうだ。そのフランスでだ」
役は語る。
「豊作でも日本の凶作より餓死者が多かった。あの時代でもだ」
「それを考えると凄いですね」
本郷は役の話を聞いてあらためて思うのだった。
「欧州の貧しさっていうのは」
「最初は豊かだと思っていただろう」
「子供の頃はそうですね」
本郷もそれを認める。
「童話とかを見て。あんな贅沢なお城に住んでいて奇麗な服を着ているものだと」
「王侯貴族はそうだった」
あえて限定してみせる。
「しかもだ」
「しかも?」
「あの城もそう住み心地のいいものではなかったし服もな。そう何着もあるものではなかった」
「本当に豊かになるのはやっぱり近代以降ですか」
「ジャガイモが入ってからだな」
新大陸から渡ってきた食物が話に出た。
「あれは痩せた土地でも寒冷な土地でも採れるからな」
「まずは食べ物ですからね」
「特にこのドイツはそうだ」
ここまで話して今二人がいるこの国についてようやくといった感じで言及された。
「ジャガイモが入ってようやく飢餓とも貧困とも離れることができた」
「ジャガイモでですか」
「壊血病もなくなった」
先程出た病気についても言及された。
「そうして発展できるようになった。ドイツもジャガイモがなくてはただの貧しい国でしかなかった。神聖ローマ帝国と名前だけは立派でもな」
「ですね。もっともあの国って殆どあってないようなものでしたけれど」
神聖ローマ帝国は不思議な国であった。皇帝はいたがその力は弱く各領邦国家に分かれており互いに争い続けていた。ハプスブルク家が主になってもそれは変わらず長い間争い続けてきており三十年戦争で国はほぼ瓦解した。そうしてナポレオンによりその名前も完全に消されたのである。
「本当の意味で強くはなかったんですね」
「それどころか統一国家でさえなかったからな」
「この辺りもそうですよね」
今二人がいるチューリンゲンについて本郷は言う。
「確かここは」
「タンホイザーの舞台だったな」
「ワーグナーのオペラですよね、確か」
本郷もワーグナーは知っている。だから今この名前を出したのである。
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