或る皇国将校の回想録 前日譚 監察課の月例報告書
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六月 野心なき謀略(四)
前書き
馬堂豊久大尉 五将家の雄、駒州公駒城家の重臣である馬堂家嫡流
長瀬門前憲兵分隊に設置された監察課分室の長として広報室の情報漏洩の監察を担当している。
岡田少尉 皇州都護憲兵隊 長瀬門前分隊の高等掛掛附き将校 分室の次席
平川利一中尉 陸軍局文書課広報室の主任 馬堂豊久の同期
津島大尉 陸軍局兵務部文書課係長
小森中尉 陸軍局兵務部文書課広報室主任
佃曹長 長瀬門前憲兵分隊高等掛の曹長
皇紀五百六十四年 六月二十一日 午前第八刻 兵部省陸軍局人務部監察課執務室
監察指導主査 馬堂豊久大尉
監察課に数日ぶりに顔を出した若い主査は首席監察官の執務机の前に立ち、報告書を淡々と読み上げていた。
「――以上の通り、監察対象となった案件についてはほぼ実態の解明が出来ました。
ですが、確証を得る為には幾つか私の権限を超えた情報を知る必要があります」
堂賀静成首席監察官は報告を聞き終えると部下に座るように手で示す。
「成程、そろそろ頃合いだろうな。長引かせるのも広報室の者達にも辛かろう」
「はい、おそらくこれ以上、真相の分からぬままだと広報室の信用が失墜します
最悪、官房が動きかねません」
主査の予測に首席監察官も首肯する。
「どう動くにせよ公になるだろうから、そうなったら事後処理の件で泥沼の権限争いだな。
多くの将校が異動になる。好ましい状況とは言えんな。
ふむ――ここまで筋道をつけたのだ、貴様も十分よくやった。
そろそろ私も美味しいところを攫っていくとするか」
「ありがとうございます」
「悪いが、ありがとうございます、とは言えないだろうな。
幕引きは、そうとう荒っぽいやり方になるかもしれない」
「――といいますと?」
と首を傾げた青年大尉に堂賀は片手をあげて押しとどめるように言った。
「まぁまて、それは情報が手に入ってからだ。貴様は分室に戻って為すべきことを為せ。明日になったら私が明朝に直接、分室に向かおう」
「はい、首席監察官殿。お待ちしております」
六月二十二日 午前第七刻半 皇州都護憲兵隊 長瀬門前分隊本部庁舎内監察課分室
監察課長瀬門前分室 分室長 馬堂豊久大尉
分室の面々は早朝から緊張を露わに畏まって席に座っている。
それもそのはずである、分室長の席には大佐の階級章をつけた壮年の男が座っており、その上、彼らの日常では最上位の位置に居る大路分隊長まで居るのだから。
「こちらは監察課首席監察官の堂賀静成大佐殿である。
この度の監察に強い関心を持ち、協力を行ってくださる、一同!敬礼!」
大路少佐の激に分室員達は私服であるが、〈皇国〉陸軍式の敬礼を奉げる。
「うむ、活きが良くて大変結構。
私も若いころはここで高等掛長を務めたことがあるから感慨も一入だ。
まぁ余計な事はさておき、本題にはいろう――分室長!」
「はっ!」
弾かれたように馬堂大尉は背筋を伸ばして立ち上がる。
「貴様の齎した情報に対してだが、小森中尉に対する斡旋は本当に手配されていた。
内務省との予算折衝で退役将校の受け入れ枠の増加が受け入れる代わりに一部譲歩を行う事になっていた。
この案件を文書課内で解決できたら小森中尉をこの枠に推薦をするつもりだったらしい」
「御教授ありがとうございます、首席監察官殿」
「かまわんさ、折角だからここからは、見学させてもらうつもりだ。
どうやら最後の詰めも近いようだしな」
「――緊張を煽らないで下さいな。
まぁ、それでは首席監察官殿もいらっしゃる事だし、一度、情報を整理してみましょう」
と馬堂が目で合図すると岡田少尉が頷いて立ち上がる。
「はい、それでは自分から。
まず、我々の監察対象は広報室、或いは文書課における報道機関に対する情報の漏洩です。
我々が以前から内偵していましたが、陸軍局内のより詳細な調査が必要だったこともあり、監察課と協同して調査を行う事になりました。
そして、この情報流出は六月の中旬に入ってからほぼ完全に停止しており、
これは、おそらく広報室が監察課に接触したことが原因と思われます」
ちら、と視線を資料に落とし、再び報告を行う。
「第二に、その容疑者は高等掛の事前調査とそれを引き継いだ分室の調査によって三名に絞られました。
文書課の渉外交渉係長である津島大尉、広報室の主任である小森中尉、平川中尉です
三名とも外部との接触を行う事が多い事、そして退役が近い――津島大尉殿も年齢的には配属先次第ではそろそろでしょう――事が主な要因として挙げられます」
「彼らについても調査を行ったのだな?」
大路分隊長もいつの間にか面白そうに資料を読んでいる。
「はい、分隊長殿。そして、これらの内偵調査の中で判明した事実の中で目新しいものとしては津島大尉が桜契社の互助基金から受けていた融資状況の実態把握が行われました」
「父親が経営している読本屋の支店だったな?火災にあった分追加で出資を行ったのだったな」
堂賀首席監察官の確認に岡田少尉は首肯する。
「はい、これに関しては分室長殿が得た情報を元に裏取りを行いました。
投資先の読本屋は経営状況も良好であり、返済の遅滞もなく津島大尉の証言通りとなっております」
「そしてもう一つ――津島大尉と平川中尉の諍いについてですが
こちらは分室長殿の聞き取りである程度把握されました。
原因は連絡課員の失敗で既に和解済み、親しくはありませんが、軍務に支障をきたす事もありません」
「自身を危険にさらしてまで復讐するようなものでもないという事だな」
と大路分隊長が顎を掻きながら云った。
「――だといいですね」
ぼそり、と呟く豊久はどこか物憂げであった。
「概略は以上です。詳細は書面にて皆様のお手元に配布してあります」
「ご苦労だったな、少尉。
ふむ、それでは諸君らの意見を聞こうと思うが、どうかな?」
堂賀は面々を見回す。
「ざっと概略を撫でただけですが、幾つかの要素を結べば図面が浮かび上がりそうですな」
と大路分隊長は顎を掻きながら云った。
「あくまで消去法ですが見えてきた気がしますね。ただ確証がないのが気に入りません」
岡田少尉はどう見る?」
と馬堂は片腕として働いてくれている男に視線を飛ばす。
「私ですか?えぇ、そうですね。確かに全貌をほぼ見えていますが、あくまで確率が高いものを結んだだけで、決定的な確証がないとしかいいようがないかと」
他の分室員達もそれらの意見に頷いている。
それを眺めていた悪巧みの達人である壮年の大佐は愉しそうに笑みを浮かべて言った。
「――成程、ここで意見が一致したというのも面白い。ならば一つ博打を打ってみてはどうかな?」
六月二十三日 午前第九刻 兵部省陸軍局文書課広報室
広報室主任 平川利一中尉
登庁した広報室の者達は文字通り凍りついたように立ち竦むことになった。
「悪いな、特別監察だ。全員この執務室から出ないでくれ」
堂賀静成首席監察官が入るやいなや、開口一番にこの言葉を発したからである。
ましてや、彼が合図するのと同時に戎衣を纏った憲兵達が次々と資料や私物を持ち出し始めたのだから当然である。
「どうなっているんだ!貴様が対応を行うと言ったのだろうが!」
室長を務めている中佐が顔を真っ赤にして平川を怒鳴りつけている。
「そう申されましても、権限は監察課の方が上位です。閲覧権限に関しましても人務部から圧力がかかっているようでして、兵務部長閣下から許可が下りています。自分からとめる事はできません」
「そんなことは分かっている!書類を持ち出すのはいい!人務部から我々の考課表を持ち出して嗅ぎ回るのも!だが何故あの若造は憲兵なぞをこの広報室に!庁舎に入れているんだ!」
「・・・・・・」
平川も口を引き結び、黙して立っている。
その背後では特別監察が続いている。課員の将校達が広報室員達が指示を飛ばし、憲兵達が動き回っている。
――ありえない。
それが平川の――否、全ての広報室員達の脳裏を過ぎった言葉であろう。
無論、分室の面々を見れば分かる通り、陸軍局長の許可が下りれば監察課員は憲兵に対する指揮権を得ることが出来る。機密漏洩の調査と言う名分もある。
だが、それでも陸軍の中枢を自負する陸軍局庁舎に士官ですらない憲兵達が我が物顔で入り込むという事は有り得ない事であった。その為の監察課だったのだから。
そう故にこそ、それはある意味広報室そのものを打ち据えた決定打であった。
孤立――瓦解――そうした言葉が遂に現実のものとなって広報室を襲いかかったのである。
――焦ったか、馬堂。
平川の脳裏にそんな言葉がよぎった。もはや広報室は組織として崩壊しつつある。外部からの疑いと機能不全のレッテルを貼りつけた監察課と憲兵の直接捜査は、広報室の最後の箍を破壊してしまうだろう。
責任者である馬堂主査が確信をもってこの捜査に踏み切っているとは平川にはとても思えなかった。 先日の焦燥を露わにした様子を見たのだから無理もない。
縋るような気持ちで何か確証をつかんだのでは――という考えもあったが、平川の理性は悲観的な予想をがなり立てている。
「――平川主任」
聞きなれた――だが、これまでと違い朗らかさが完全に消えた声が聞こえた。
「小森先輩」
振り返って平川は目を見開いた。その先に居る男は一瞬、自分の知らぬ人間ではないかと錯覚する程に変わり果てていた。
「いよいよ、連中が乗り込んで来たようだ。俺は記者を締め出すから貴様は連中の相手を頼む、すぐに戻る!」
言葉を紡ぐ唇は引き結ばれ、顔は蒼褪めて汗が滲み、目だけが異様に光を湛えている
「勘付かせるな、締め出すんだ。何としても内々で済ませなくてはならない。
――まだだ。まだどうにかなる筈、だ」
速足で歩きながらぶつぶつと呟く姿は平川の知るそれとはあまりに違う。
「・・・・・・先輩」
何かに縋りついているのだろう。おそらくは噂になっていた退役後の栄達に。
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小森中尉は広報室を出ると、中央省庁特有の一際厚い壁越し隣室に陸軍局に常駐している記者の部屋の扉の前に立った
「――なんのつもりだ」
「なんのつもりもなにも――我が社を代表して親愛なる友人にお見舞いを申し上げたくて」
私服の青年がにたりと笑って見せた。
「友人?笑わせるな、貴様が――」
軋むような声を上げる小森をその青年は遮った。
「始めたのは貴方だ。それは逆恨みでしょうが。なぁに、約束通り上は推薦状を出すそうですよ。
なに、ほんの数年ほとぼりをさませばいいでしょう。我らも良き出会いを台無しにはしたくない」
野良犬に餌を放るかのような身振りをして記者は半歩、眼前の将校から離れた。
「・・・・・・」
「まぁ残念と言えば残念ですがね。貴方が警察に移れば――それはそれで美味しい話だったけど」
無言でただ立っているだけの小森に気圧されたのか、青年は徐々に声を弱くし、尻すぼみにそろそろと部屋に戻ろうと扉に手をかけようとした――が、それを待ち構えていたかのような。タイミングで玄関広間から、闖入者が登場した。
「――おはようございます、小森主任。そちらの御方と御一緒に、少々御時間よろしいでしょうな?」
陸軍局の衛兵を連れた馬堂豊久監察課分室長はにこやかに微笑んだ。
「あ、そちらの民間の方には拒否権がありますよ?高等掛は別ですけど
そちらの方が良い待遇かもしれませんから試してみるのも面白いかもしれませんね」
同日 午後第六刻 皇州都護憲兵隊 長瀬門前分隊本部庁舎内監察課分室
監察課長瀬門前分室 分室長 馬堂豊久大尉
分室の解散式は大路分隊長と堂賀首席監察官が大量の料理を店屋から持ってこさせており、不相応に豪勢な者であった。分室員達はそれぞれ苦労をねぎらい、酒がない事をぐちりながらも――未だ勤務中なので仕方ない事であるが――上機嫌に健啖さをそれぞれ示していた。
二人の将校は部屋の隅でのんびりと料理をつついている。
「こうして全てが分かると単純極まりない案件だったな。
探るのが面倒すぎただけだ」
馬堂大尉はぼんやりと宙を見つめながら云った。精神的な重圧から解放された所為か、気が抜けているのが良く分かる。
小半刻もせずに憲兵達は広報室から立ち退き、騒ぎは拡散する前に収束した。記者達も軍上層部から直々に圧力を受けた本社によって箝口令が敷かれ、広報室と記者室の並んだ二つの部屋はくしくも夏季に互いに人務が一新され、新たな住人を迎える事になるだろう。
小森中尉は最低、二年間は地方勤務に回されてから辞任する事になった。記録には残るが公表されずに済む事になるだろう、と堂賀首席監察官は言った。
また、斡旋を餌に不正を行っていた記者達も同様であった、少なくとも中央官庁では働けないだろうが、それ以上は軍が感知する事でもない。そうした取り決めである。
「そうですね。まぁ大半はそのようなものです。
あぁそう言えば気になっていたのですが、分室長殿は何時から気づいていました?」
「ん?あぁ最後に決定的なところを見るまで確信は持てなかったな。
だが、利害関係を追えば概ね小森中尉が疑わしかったのは分かっていた。
まず、津島大尉は利害関係を持っていない。もし仮に資産状況に問題があるのならば、互助基金にもっと融資を受ける筈がない。
桜契社の互助基金は、将家の給金も預かっているから基金の運用は極めて慎重だ。その上、桜契社は退役将校を管轄しているから陸軍局とも深く結びついている。将校相手なら、そこらの両替商以上の信用調査力を持っているよ」
「それは当然ですね」
「あぁ、だから動機の面では金銭に対する執着が薄く。その上、そこらの貴族将校よりも矜持が高い――悪く言えば権威主義的だ。昇進や、軍中枢に配属される為ならまだしも、自身の部署にまで危険が及ぶ情報漏洩など埒の外だ。真っ先に除外される」
「成程、そちらにまでは考えが及びませんでした」
だんだん声に張りが戻っていくのをに気づいた岡田は面白そうに話に耳を傾けている。
「――そして平川だが、これも似たようなものだ。まぁ俺の私情込みで見ていたのもあるだろうが、同様に金銭面での問題はない。
また、退役後の問題も宛は既に持っている以上ないと言っていい。
強いて言えば津島大尉との確執がある程度だが、動機はきわめて貧弱だ」
興が乗ったのか、馬堂豊久大尉殿は、人差し指を振り楽しそうに
「さて――」と言った。
「以上の二人と比較すると小森中尉の動機は極めて強い、第一に彼は苦学をして市の推薦を受けて幼年学校に入学した。つまり、退役後の生活には困っていた。
そして退役後の当てもなく周囲へ相談をしていた。
この二つを併せると二人よりも動機が強かったことが分かる――そして当然だが記者対策をしていたのだからほかの二人と比べても記者と接触する機会が多い」
「この辺りは分かりやすかったでしょうな」
「あぁ、この通り小森中尉は極めて強い動機と多くの機会を持っていた事で三名の容疑者の中でも重視する必要があった。そしてそれだけではなく、騒ぎになってからの動向にも説明をつける事ができた。
――君は平川が監察課を訪れたのが切欠だったと言ったがそれだけじゃない。むしろ小森中尉の実績作りの為だったという方が大きい筈だ。警察への斡旋と言う餌は報道屋共にも有効だからな」
「あぁ!そういう見方もできたわけだ!」
岡田少尉がぴしゃり、と膝を打つとのを嬉しそうに馬堂はうなずいた。
「そう、だから内々で済ませる為に文書課長が推薦を餌に出した時には小森中尉は喜んだろうな。一番厄介な連中を黙らせる餌になるのだから。それこそ、光帯を腰に巻いて産まれたと言われても信じたろう。何しろ警察に移った後も彼は似たような方法で小銭稼ぎ――或いは、先の話ぶりだとこっちらもあったようだが脅迫に応える事もできただろう。
斡旋を確実にするまでは記者側も黙る。今度は警察で確実な伝手を得られるからな」
「成程、双方ともに利益があったわけですな」
「あぁ、単純だが必死の謀略だったのだろう。
今まで得ていた安泰を守るための、野心のかけらもない」
「そして後に残るものは何もなかった――」
岡田少尉の呟きに、敢えて答えず豊久はため息をついた。
「それにしても首席監察官殿のやり口には驚いたよ」
「あぁ、あの特別監察ですね。まったく、やってるこちらも肝を冷やしましたよ」
「同感だな。俺もばれやしないか冷や汗ものだった。
“単純な相手には単純な方法が効くものだ”というのは良いけど――なぁ?」
早急に対応が必要な事態を作り出し、記者の下に動いた相手を確保する。
分かりやすい事は分かりやすいが――
「事前に記者が勘付いていたら俺が火消しに回る羽目になっていたからな。
出待ちならまだしも、下手したら記者相手の即興の会見を開く羽目にあっていたと思うとぞっとするよ」
記者室のすぐ近くにある玄関ホールで彼は待機していたのである。
将校がたむろしている場だからこそできた芸当であった。
岡田は声を出さずに笑い、体を伸ばしながら欠伸をした。
「そうならないで幸いでしたな。――ようやく、これで一仕事終えられた
と言ってもまだいくつか仕事は残っているのですがね」
「それはどこも同じだろうな。
俺もこの後は、高等掛から管轄を移した小森中尉の事後処理も済ませなくてはな。
それでその後は――」
豊久は天井を仰ぎ、再び溜息をついた。
――せめて俺個人にも良い出会いになればいいのだが。あの中尉と記者とは違って。
後書き
たびたびの遅刻、誠に申し訳ありません、実に難産でした。
完結させることの難しさをひしひしと感じます。
本編の方は定期更新が難しい状況ですのでしばしお待ちを
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