『ピース』
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『ピース』
前書き
震災の年に書いたもの。
テーブルの上にピースとハイライトを置いて考えにふけっている父さんが、学校が終わり帰宅した僕にこう聞いた。
「セブンスターはピース寄りか?」
「そうだね」と僕が答えると、父さんは無精ひげをなでて黙っている。震災があってからタバコの生産が乱れて、父さんのセブンスターが手に入らない。昔、「ピースの両切り」を忘れていった父さんの友達がいた。親に隠れて吸おうと思ったが、やめて火をつける前の香りだけ嗅いだことがある。その匂いと父さんの吐き出す煙の匂いは別物だったな。火をつける前の「ピースの両切り」はいい香りがする。
「飯はもう出来ているから、鍋の中見てみて」父さんはそう言って「三千円くれるか?」と、言い足した。
僕が学校から帰る前に、父さんは飯を作り、待っている。今晩は大根と鶏肉の煮物だった。地味な色をしている。大根は飴色になって透き通っていた。千円札三枚を財布から出して、父さんに渡した。父さんは黙ってそれを受け取った。その行き先を尋ねるわけじゃないけど、風俗じゃないよな。
「たんぱく質」と父さんが言った。口癖のようなものだ。父さんは体が小さい。骨格が細くて男としては華奢だ。しかしながら中年の性でアーモンドのような形で太っている。小さいころから「たくさん食べなさい」といわれて、僕は大きくなった。馬鹿にされないほどに大きくなったことは感謝すべきかもしれない。
「去年の六月は暑かったか」と、父さんは聞いた。
僕は首をかしげて宙を見た。去年の体育大会を思い出す。
「風は涼しかったな」そう答えると、父さんは「うん」と頷いた。
制服を着替えているとき、父さんが部屋に入ってきて原稿用紙を渡してきた。
一つ二つ悪魔を退けるうち
三つ四つは善人に見えてくる
私は鼻をきかせて
その悪の心がどこに逃げ込んだのか
捜している
あのとき会った善人に火をつけて
うたう悪魔の居所を
見つけてみようと
こころみる
彼らは善人の痛みが好みですから
少し血を流します
そのとき出来た傷跡は
いずれ本当の詩となり
あなたの助けになるでしょう
僕は、その原稿に斜めに光を当てて、そのわずかな凹凸を見た。破り捨てた詩の名残だ。
おれのモノじゃ足りないというのか
スナッッポン スナッポン スナッポン
大きなチンチン見ていると
おれがどんどん小さくなる
世界の罪を背負うよな
残酷な試験を受けるよな
そんな気持ちになってくる
父さんはこんな詩を書く。
この数年間、僕はその落ちぶれていく様を見ていた。それは、知識を詰め込むことで、世界の空が低く落ちてゆくように、僕の世界も狭くしていった。それは形而上の狭さなどではなく、読字障害となって僕に降りかかってきた。
高校に入ってしばらくして、母さんが家を出て行った。
「三十万」と母さんが言った。「それだけあれば十分でしょ?」
その頃には、もう父さんは仕事を辞めてしまい、家計は母さんの収入で支えられていた。父さんは警備会社の管制の仕事をしていたが、いつの日か現場の警備員になり、またいつの日か仕事に行かなくなってしまっていた。そのことについて、僕はなんとも思わなかった。他人事だったかもしれない。父さんの心の有様になんともアクセスが出来なかった。まだ、その頃には父さんも張りがあったし、日焼けのためか精悍さもあった。でもそれはかなりつらいことだったんだな。今はそう思える。衰えるものへの慈愛なんてものだろうか。
因果関係は分らないが、そんな、かなり大きな出来事の後に、僕に読字障害が出てしまった。だからさ、父さん。父さんの詩、読めないんだよ。明日は追試なんだよ。
何度も赤点の答案を見直し、追試の準備をする。文字は大まかに了解の範囲に入ってくるものの、油断するとそれは意味をはがされ、単なる白と黒の抽象画のように見えてくる。焦点がずれて、文字の向こう側の世界に行ってしまう。その世界に何があるのかと言われれば、無我の境地と言っておこう。何度も同じ文章を読み、歩きなれない街を目的地までたどり着くような疲弊を感じる。
この「障害」の利点を挙げておこう。だるい感じで授業を受けていた中学時代のお馬鹿さんの気持ちが少しわかる。そして己を儚むワビサビの心が生まれる。おじいちゃんだな。つまりは。
携帯に着信。母さんからだった。柔らかな声の裏にとげがあった。
追試なんでしょ? 大丈夫なの? 今度、様子見に行くからね。 家事を押し付けられてない?
心配なのかな。母親だから当然なのかもしれないが、その声は僕の心を遠くの景色に追いやって、何も染み入ってはこなかった。むしろその声の向こう側に、父さんの凋落を責める心があるのではと、勘ぐる。胸が悪くなり電話を切るタイミングを計っていた。
「追試、受かったら電話する」母さんが会社の上司の話をしているとき、そう切り出して電話を切った。その上司は上昇志向が強くて、そういう人間が人を引っぱって行くのだとか。
母さんの家を出て行ったときのあの顔。父さんを恫喝した時のつりあがった目。たるんだ頬肉の奥で引きつる筋肉。母さんはこう言ったんだ。
「堕ちてゆくのはいいけど、そばに居て癒してあげようとは思えないから。そんな若い夢にひたれるほど、世の中は甘くないこと知っているでしょ? あなたの意識の真ん中から、大事な物が抜け落ちて、私を引きずり込もうとしているのを感じるのよ。渦を巻いてね。渦を巻いてねっ!」
『大事な物が抜け落ちて』
大事な物は僕の中からも抜け落ちているじゃないか。
僕は母さんが置いていった姿見に体を映している。一枚一枚、服をはいでその姿を見る。天井の白い蛍光灯を消し、オレンジのスタンドをつけて、体に陰影をつける。その光の中で少しだけ太陽の下にさらされる厳しさから逃れる。僕は少し味付けをしないと、ちょっと醜い。
ある喫茶店のトイレの照明は秀逸だった。手洗いの鏡を見ると、間接照明に照らされた僕の顔から疲れた影が消えて見えた。世の中すべてが間接照明ならいいね。
父さんが食事を促した。定時の六時である。定時に食事を取らないといけなくなったのは、母さんが居なくなってからである。母さんは仕事が遅くまでかかることが多く、みんな食事の時間がばらばらだった。まだ母さんが居た頃は、父さんの仕事の件もあってそれぞれに、お互いをけん制するような心持があったと思う。
恐らく三人ともそのトゲトゲを意識して磁石の同じ極のように一定の間隔を持って動き、会話した。それは、クラスのイジメられっ子に対する態度に似ていた。
それが、父さんと二人暮らしになってから、父さんが持ち直したのである。父さんの作る夕食には力があり、恐らくはプライドが混じっていた。僕はそれを、口に運んだときに感じたのではなく、テーブルの向こうで何も話さず、黙して食事を平らげる、その父さんの姿に感じたのである。僕はそれに応じるように、また何かをはね退けるように夕食をかきこむ。そして僕は夕食に関して父さんに従うようになった。「読字障害」の事は話さなかった。それは僕の問題だ。
翌朝、蝦夷梅雨の中を走るバス。緑のワインディングロードを抜けて、郊外を走り、地下鉄に連絡する。僕の使う停留所が始発のバス。雨のバスにそれぞれの湿気を持ち込みながら、人が乗り込む。僕はバスの最後部に乗り、前の席に座る人々、乗降口、窓の外のすれ違う車、車内のミラーをチラチラと見ている。
美しい人が乗り込む。目線は胸のふくらみに導かれて、足首に落とされ、窓外の風景へと移る。僕は昨晩三度マスをかいた。忘れなければならない。昨晩、人気のミュージシャンが東北の被災地に復興ライブに行くと、ニュースが流れていた。彼らもエロい女にケツ穴に指を入れられ、前立腺マッサージをしてもらったことを忘れるのだろう。
昔の北海道の初夏は本当に気持ちが良かったのにねぇ。そういう人が多い。僕の記憶の中に初夏の気持ちがなんたらというものはない。本当に昔は気持ちが良かったのだろうか? 僕ときたらため息の出るような雨の日でも傘がさせるから、すれ違う人達と目線を合わせなくて済むから都合が良い。そんな気持ちがある。傘の下で孤独になれるから好きなひと時である。
今日が人々の好む爽やかな晴天だったら、僕の気持ちは劣等感で満たされる。卑屈なのだろうか? 太陽が僕の醜さを、ちょっとした後ろめたさを照らすのである。
「太陽」それは誰かの笑い声の喩えかもしれない。そしてそれは同時に「雨」である。
沢山の人間が一つの場所に集まることで、縄張りが侵されている。何の関係もないと思われる人々が、体が触れ合うほど箱に詰め込まれる。ポーカーフェイスで乗り切る人々。その労力でどれほど疲弊しているの。僕の隣に野球部員らしい坊主頭のイカツい男子が座った。その男子が座るまで、僕の隣は空いていた。どんなに混んでいても僕の隣に座る女性はいない。胸をえぐる雨。しかし、綺麗な女性が座ったところで、僕の唾液腺が活発に働いて気味悪がられるのがオチなのだけけれど。そして、隣に座った男子の腕の太さに気分が萎える。それもまた雨。
雨の中で僕は夢想にふけった。バッティングセンターの球速計で140㌔をたたき出す僕は、三十路も終わらんとする男。高校時代の友達と共に若さの残り香を楽しみながら肉体を誇示し合っている。それを見止めたのは地元球団のスカウトである。
「君、野球やってたの?」「年いくつ?」
僕は野球は素人だし、もう三十も後半。外れそうになっている利き腕の肩をぼんやり意識して答える。
「子供は?」「いない?」「予定は?」「甥とかいない?」
しびれている指先を脇の下に隠して腕を組み、スカウトマンの顔を見れば、深い隈が刻まれている。宿命。愛を求める宿命。
僕の中に誰かを満たす潤いなどあるだろうか? 僕の心の深い森の中、宝の輝きを放っている『それ』は、僕自身が輝くことをもう諦めたことで、より深みのある魂を求めて次の世代を探しにゆく。その確かに心を揺さぶる魂は天からの雨を受け、樹木のように枝葉を広げ、世界に新鮮な空気を送り届ける。『潤い』何故か遠い。
僕は昔のことを思い出す。父さん、母さん。何故僕の才能を伸ばそうとしなかったの。今の僕なら子供の才能を伸ばすことがどれほど大事か知っているのだけど。
そんな想いをめぐらしているうちにバスは地下鉄の駅に着いた。ここ数年にしては珍しく霧雨である。
お互いのいかついところを擦りあわせながら、削れて磨き込まれた丸っこい人々の魂の集まりが、皮下に差し込まれる注射針のようなチューブで街の地下にもぐりこみ、世の中の薬として運ばれてゆく。悲しいことではないんだ。全然悲しいことではないんだ。それは膿んだ患部を道ずれに、夕刻には這いずり回ることになろうとも、その朝すれ違った好みの異性に一輪の花をささげるような、健気な人間の営みであるから。いっそのこと揺さぶられて忘れてしまいたい事も、そこにある、色とりどりの魂の、それぞれの正当性を認めながら混沌の中に身を浸せば、小さき迷いに見えてくるかも。
「飛ぶべき鳥が飛べないとなると、その鳥は輝くだろうか? 鳥が飛ぶのは、人間が歩くことのように容易いか? いや、鳥が空を舞うということは、人間がバイオリンを巧みに操り、その音色聴く者の心、異次元にいざなうような超人技と等価なり」
そんな金言を思いついて校舎に入る。小便がしたい。トイレに向かうと、そのドアの向こうからチャラついた笑い声が聞こえた。
「法律の網の目をくぐってでも?」そう言って笑っているのだ。僕はグイィと顎を引いてキイィと扉を開けた。ペニスが一番見えにくい位置の便器に向かって小便をする。僕が事を済ませる間、二人は黙っていた。進学校には珍しい、でも一昔前のヤンキーのにおいがする二人。強い高校の本物の前でどういう気持ちになるのだろう? 小便の切れが悪い。弱い尿意、やわな前立腺。パンツを上げた後、残りがしみてくるのがわかった。
「ちょっと臭すぎない?」笑い声が聞こえる。僕がトイレの扉を閉めた後のことだ。思春期の集団生活は難儀である。用を足すにも気持ちを揺らす。いっそ、誰も触れたがらないイカれ野郎になろうかしら。
廊下の向こうからアハアハ笑いながら、「何センチ?」と挨拶が聞こえる。「17センチ!」と答える。あかるい女子である。二人は崩れるような笑顔で喜びがはじけている。数日前、クラスのイジメられっ子が手足を持たれて、「ワッショイ!」と振り回されていたのだけれど、イジメっ子たちはそれに飽き足らず、彼のパンツを下ろした。そのあらわになったペニスが豆粒のように小さい事に驚嘆したクラスメイトは、同情など知らない風で、挨拶代わりに「何センチ?」と口にするようになった。なかなかひどいものである。僕は友人に挨拶を求められたから、「18センチ」と答えておいた。なるべく彼に対する侮蔑を含まないように、軽やかな発音で。でもそれ、黒人並みじゃない。戦々恐々。どんなに賢く見えても「何センチ?」で地に落ちるのであるからさ。
甲高い熱帯の鳥のような笑い声で、喧騒に満ちる教室。はしゃいでいるのはごく一部であるが、彼らは主人公になれるから、ほとんどの人が騒いでいるように見える。愛想笑いのもの、目の死んだ冷笑、「いや、でもさ」と笑いながら正論を言うもの、何にも触れまいとする沈黙の無表情。その喧騒はペニスの話題で熱を帯びた心があふれ出してさまざまな話題に波及している。その話がどれほど卑劣なものでも、この明るさと、はじけるような笑顔の前だと、お咎めなど無意味に感じる僕である。そして僕はその話題からはわりと遠い場所にいる。銀河系で言う太陽系みたいなもんだ。
実際、その話題の元であるイジメられっこは、さすがにイタい存在として話題の中心になることはなかったが、『彼』のふてぶてしさと鈍い性格のせいで同情のまなざしが向けられることはなかった。むしろ人生の終わりを想像していたクラスメイトもいたのじゃないだろうか?
「知り合いが言ってたけど、あれって相性らしいよ」僕の後ろの席で男子が言う。坊主頭の勝島君。野球部で毎日十五キロのママチャリ通学の勝島君。童貞は中学二年で捨てたらしい。その「相性」の話は雨のように降り続けるセックスへの興味に傘をさす一言。大人やな。これだけセックスの話が盛り上がるということは、すなわち未経験者が多いということなのだけど、それにしてもその話題が飽きもせず数日も続くのは何故だろう。僕は少し麻痺してきているのだけれど。
「相性ってなんスか?」僕は勝島君に訊いた。
「キコウだよ」
「え?」と僕は問い直した。
「中国の気功。接して漏らさずの。あれって男が感じすぎると負けるのな。感じすぎるってのは五感がビンビンになってるってことなんだよ。でもそこには秘密があってさ…。なんていうかな、アレやってるときさ、目に見えない鈍い塊みたいなもんがよってくるんだよ。それに取り憑かれると鈍くなってさ、こっちが鈍くなっているときは相手がビンビンなんだよ。こう、つまり、シーソーみたいなもんなんだよ」
教室の中は澄んだ色の混沌だった。コーヒーフィルターを通り抜けた褐色の飲み物みたいに、色々な味の声色が混じり合い、意識を刺激し続けている。腹の中にエナジーが沸々と沸いている。大きな人が教室に入ってきて、「素晴らしいヤル気がみなぎっているじゃないですか!」と、賞賛の言葉を漏らすほどそれは清潔だった。その向こう側で誰かが湿った空気を吸い込んでじっと耐え忍んでいることは誰の目にも明らかだったけど。
僕はこの混沌の中で、自分が幸せになれる立ち位置が見えない。幸せというもの自体何であるか分らないし。それを見つけるのは天空の城を見つけるように難しい事の様に思えた。顔で、運動能力で、賢さで、肌の色で、そしてペニスで、そんなもので立ち位置が変わり続けるこの塊の中でどうやり通すのか。混沌。
「夢というものはですね、コロコロとあらゆるところに落ちているものなのです。それをつかむにはね、手を伸ばさなきゃいけない。目一杯手を伸ばすんです。たとえその手に取ったものが、泥で汚れていても、クシャクシャに丸められた駄作であろうとも、浮浪者が捨てていったゴミのような物でも、想像力を鍛えることでピカピカに磨き上げる事が出来るんです。それには、この教科書を読み解くことなんか朝飯前に出来てしまう強さが必要なんです。手を伸ばして、ピカピカに」
そう言って教師は授業を始めた。僕の胸はもう悪くなり始めている。この高校の教師は、概して僕の胸を悪くする。それは声や、話の出来不出来ではなくて、なんと言ったらいいだろうか、中学で言う番長が教室に入ってきた感じ。緊張と、見せかけの怠惰が入り混じっただるい笑いの、フニャちんの僕なのである。「いえ、僕は女ヤりませんから」という雰囲気を体にまとわす。いつから僕はそんなものを演じるようになったのだろう? もしかすると僕は正攻法で負ける事に怖気ついているのかもしれない。ホントは幸せの中でオッパイ揉みたいのに。
実は、本当に僕の中学に、そんな番長がいて、そいつは、いい女をどれだけ囲えるかで強さを誇示していたんだ。あるとき彼が僕に「お前、女好きなら俺と勝負しろよ」ドスのきいた声でそう言ったのである。僕ときたら「それは無いっスよ」と、ぎこちなく顔を崩して笑った。番長は生えたての薄いあごひげを指でなでて、僕を見おろしていた。
この高校の教師は何故か、彼と同じ雰囲気を持っていたんだ。「私の方は負ける気がいたしませんよ」そんな空気。高みを目指す生徒たちは何とかその教師に喰らいつく。もちろん彼らは予備校や塾の復習として授業を受けているのだけれど、教室でも、ちゃんとファイティングポーズをとるのである。僕ときたら、クラスの生徒にまで心の内で「だるく笑っている」様なものだ。
僕にとっての進学校の授業はそのようなものだから、僕は小さくなっていった。中学の時点で、お前は運動能力に劣る、と体育教師に叩き込まれたから高校の運動部には入らなかった。文化部は独特の雰囲気で他者を拒んでいたから、僕の友人は少ない。その少ない友人の一人、町君が古文を朗読している。彼はぎこちなく、麗しいはずの言の葉を発音している。彼は吃音である。
「どもりというのはですね」教師は言った。「本当のことを話そうと苦心しているのです。おかしくはないですよ。嘘を立て板に水のようにつらつらと、というのはですね、よくないですね。ありがとう」教室には嘲笑が起こっていたのだ。町君の頬が赤い。
僕の頭はじわじわと熱い。栄養ドリンクを、ふざけて飲みすぎたときに似ている。むかつく胸を深呼吸でなだめようとして、何度もため息が出た。五十分の戦い。どんなに学問の道筋を理解しようとしても、それは冬の吹雪の白い世界にぼんやりと浮かぶ枯れた木立。その姿は、白い、密度の濃い、無意味な回り道の言葉たちの向こう側に隠れている。過去の偉人たちが残した、人間の神経のように隅々まで張り巡らされた、世界を知るための道は、僕にとってふざけているのかと思われるほどの、おびただしい数のパズルみたいな混沌に見える。
以前、町君を『白痴だ』と笑った女子がいる。僕の読字障害は、町君に隠れるように彼女の目から姿を消している。その女は戸下という名前だ。彼女はその名前の通り『棘』のある女に育ったのだろう。それを誰かの心に差し込もうと標的を見つける。その視線はボクサーのように急所を狙う人殺しのもの。弱さを見つけるとよろこび勇んで『棘』を差し込む。その標的が町君、僕の友達。
昼休み、町君から着信があった。
「ケツ穴からもれいずる悪魔の吐息よ」そう話し始めた町君は、前庭の花壇の端っこに座って、昼食を買いに行く生徒たちを眺めている。僕は校舎の二階からその姿を眺めていた。
「鬼畜の宴は恐ろしく寒いよ」僕はそう返した。「体中の穴からいけない物を分泌しちまった」
「腋汗った?」
「滝のようだ」
校門の向こうまで、イジメられっ子の『彼』が走ってゆく。パシリである。『彼』は自分のセンスでみんなの昼食を選ばなければならない。そのセンスを笑うのが『彼』を取り巻く人々の日々の喜びである。
「屁こいたの? 毎朝、浣腸すれば?」と、僕が言う。
「ううん」と、町君は返事している。
「溜まると癌になるぜ。俺も旅行の時出なくなるから、持ってくよ」
振り向いて教室を眺めると、戸下さんがまどろむ様に友達を見つめている。幸せな生活が彼女の前に広がっていないことを望むよ。この女のせいで町君は、前庭で一人、昼休みを過ごすことになった。町君はそこで今、パンをかじっている。ある日、町君と目が合った彼女は、お化けでも見た時のように「ひやぁ」と、声を上げて友達のところに駆け寄ったのである。そこで耳打ちしていた言葉は分らなかったけど、その後、町君のことを侮蔑するような噂が広まっていった。町君も町君で、それ以来、彼女と頻繁に目を合わせるようになった。その度に彼女は顔をゆがめて、友達と秘密を話し合うように顔を寄せて笑った。僕は「見なけりゃいいじゃん」と、忠告したけど、町君は「無意識なんだ」と、答えていた。
僕の知っている噂がある。「この札幌に住む、ある人物が、超能力を使って人を犯す」という噂だった。その人物に好かれると、不幸に見舞われるという噂。実際、僕はその人物に出会ったことはないが、目が合うと体中に悪寒が走るほど醜い意識の持ち主なのだという。第三の目を使って人に話しかけるらしい。その声が気味悪く背筋を凍らせるのだとか。強い意思を持って、その声に逆らわなければ、一生まがまがしい声に獲り憑かれてしまうから、その声を聞いた人は走ってその男から逃げなければならないらしい。その人物は自分の能力で世界の支配を目論むほど愚かで、間抜けな顔をしているという。その男、童貞で、あふれ出す醜い性欲は、想像力とあいまって、強い腐臭にも似た、心を歪める力を発しているという。そして、その人物は、僕らの高校の先輩らしい。
彼女から広まった噂は、町君がその人物に似ていると言うものだった。戸下さんはその男に会った事があるのだろうか? そして彼女はその男に好かれたのだろうか? 彼女、可愛いのだ。
「頭のほうはどう?」と、町君が訊いた。読字障害のことを言っている。
僕は「脳みそ、プリンみたいだ」と、言おうと思って、
「ミルクを入れすぎたコーヒーみたいなもんだ」と言った。
「うん。それ、どういう意味?」
「いや、コーヒーフィルターみたいになってる」
「うん。で、それどういう意味?」
「いらないもの、全部、俺の中みたいなこと」と、僕は答えた。「カスとか雑味とかな」
僕の頭は文字を読みにくい代わりに、インスピレーションが働くようになっている。町君にとって少し面白いようだった。しかしながら、僕にとって今日のそれは、意識の混濁の結果で、誰かが僕の意識を木ベラか何かで掻き回しているような感触だった。
「ヘリコプターの羽、スーパーのひき肉機、ポルノ女優のあえぎ声。そんなもんを全部味方に着けているよ」
「何が? 勉強?」
「うん」
「俺もカス溜まってるぜ」
「そいつはパイプオルガンみたいな音を鳴らす奴のことだな」
「うん」
そんなやり取りが、僕らの中をやわらかくしている。僕の昼メシ、自分で握ったおにぎり二つ。中身はタラコ。以前、父さんがイクラのおにぎりを持たせてくれたが、それを食べるときにイクラが飛び散り、唇からはみだし、流れ出るのを見て、戸下さんが笑った。笑い上戸だな。それ以来、自分で握っている。紅茶のペットボトルを傾ける。鼻を突く香りを感じながら、この紅茶はホント香水みたいな香りがするね。そう思う。僕の目からはよく分らなかったが、町君は甘いデニッシュみたいなパンをかじっている。
「そのパン美味い?」
「避難場所みたいに美味いよ」
外は霧雨が日差しの中で乾いている。笑いながら校舎に入ってゆくハイティーン。体が若いと、その体温は日差しのように雨を乾かす。僕は雨について考えている。降っている。確かに雨がね。僕の体温で蒸発しないだろうか?
午後の授業はまどろむような空気。誰も怒らず、誰も泣かず、坂を下るようにダルダルと進む。夕陽を眺めながら、その意味も知らない阿呆の、境目のない明日への達観がここにあるようです。
「意思のない未来に咲く花を思い描いて」だな。
耳に届く音は風に揺れる木々の葉音のよう。あまりの平和に生きていることを忘れそうになる。自分と世界の境目が曖昧になり、僕を僕たらしめている物事は海綿の中に吸い込まれてゆく。すべての海綿は幸せそうに膨らんでいる。ある種の諦観はこんなときに降ってくる。
「本当の安寧というのは、満足によりもたらされるものではない。たいていの満足とは、醜さをはらんでいるからである」
思いついたは良いが、その本意は自分でさえ分らなかった。そこでもう一つ。
「世の中の間違いの、ある一部が正されるか否かは、胃薬を飲む人々の事を上手く理解できるかにかかっている」
来た来た。これは今晩、町君に電話しよう。僕はこの手のインスピレーションをとても楽しんでいる。他人に言ってもそれほど喜ばれる事は無いけど、これがあるだけで、何故か自分を許せるようになれる。誰かより優れていると思うこともある。メインストリートを外れた、宗教家のようなインテリ崩れとも思う。仮に、僕の格言らしきものが世の中のツボを突くものであったとしても、それは若造の乗る不似合いな高級セダンみたいに鼻を突くだろうな。町君はいつもこの手の格言らしきものを喜んで聞いてくれる。友達だ。
授業というものが進んでゆく。それは、京都の寺社仏閣のように尊いものとして守られている。「このルールを守っていれば社会でやっていけるのですよ」と語りかけている。遠い日に人が生み出した「数字」が黒板に羅列されていく。今の僕はそんなもの渡されてもどこにも行ける気がしない。むしろ僕が学びたいのは「数字」を最初に発見した人間の喜びの声はどんなものだったのかだと、かりそめに思う。大昔、火を手に入れた人間のように興奮したのだろうか? 数学が一番新しかった時代。それは見てみたい。
勉強というものは不思議だ。罪を洗い流してくれるような働きがある。幾分、責任放棄の匂いを放っている。僕はそれが不満である。あの悪い奴が「頭が良い」というだけで何らかの、背負わなければならない不幸から逃れている、ということに腹を立てている。それと同時に、勉強を「お経」のように叩き込むことで、心が平穏を得ることも高校受験の猛勉強で知った。
地方の進学校で一握りの全国区の優等生。彼らは文字の読めない僕を尻目にコツコツと難解な文字列を吸い込んでゆく。彼らの中でそれは真実になり、つまりは世の中の真実になる。彼らは少数派なのに何故だか多数派の雰囲気を醸し出す。人間は数が多ければ良いのではなく、その中に何を蓄えているかで重みを増すことが出来る。僕の心、息苦しい。彼らは沢山空気を吸う。勉強だけじゃ何にもなれないんだぜ? 正論。しかしながらこの胸苦しさ。
頑張る前はその苦しみを知らないから人はヒマワリの様に咲く。放埓な夢を見る。学校。混沌の中、失うものは多い。人は知らぬ間にヒマワリから揺れて消えそうな星の瞬きになる。「強く愛されるはず」と思っていたパーソナリティは自虐や諦めで輝き方を変えてゆく。その過程でうち捨てられる夢はいかばかりか。
僕の夢、誰か拾いましたか?
肩が触れるほど人を世界に詰め込んでも、景色はだだっ広い。鎖から放たれればどこにでも行けるというような楽観は、同時にここに留まる事を意味しているかも。鎖につながれているからこそ、人間は明日を求めるのだし、第一僕は何につながれているのだろうか? 鼻にツンと来る希望は、知らずに溜め込んだ負の記憶により悲哀を含んで足踏みをさせる。まろやかな空気で自由を与えられた午後の僕は、それと引き換えに不幸を甘んじて受けなければならない罪人。風の無い世界でゆるりと堕ちてゆく綿のよう。「ここに留まる?」ここはとはどこなのか、僕にはわかりません。
「どうした。格好良い男と付き合えなくて恥ずかしいか」そんな言葉が頭に浮かんだ。その言葉は僕のいる場所を指している。スイィと吸い込んだ空気に憂いを含ませてため息。喫煙者の吐き息を思い出している。まだ僕は腐臭などしないはずだ。僕はじっと教科書の文字を見つめた。
「俺はAV男優一美しいと言われた男だぞ!」町君が寝言を言った。教室は笑い声に包まれている。この前の寝言は「マグネシウムに決まっているだろ」次世代エネルギーの話だ。その前は「今日は疲れているから巨乳がいいや」だった。この町君の寝言のおかげで教室は親しさを共有する。イジメられっこの『彼』も笑っている。素晴らしいな、町君。しかし、その昔「醜い男が正しさを持っているのは可笑しいかな」と寝言を言った。そのときは空気が引き締まった。
やわらかい所、弱い所は悪辣な人間の心を熱くする。それを持つ良き人間は、瞬く間に血を奪われ蒼白な青春を送ることになる。
心のひだをそのままに、やわらかく保って過ごすには愛がいる。それは草原のススキを風に揺らす、人々の目には見えない神の吐息。人々は良き人間の吹かすその風を思う存分楽しんでいる。そして一部の悪辣な人間達は、自らの心の動くさまを良心と取り違えている。
僕は教室の隅っこにいる女子を見る。ショートヘアーの彼女は教室に吹く風をなんと捉えているだろうか。彼女は町君に好意を持っている。胸が痛いな。
彼女は「頑張ってくださいね」と言って教室を出て行った。彼女は大きいガラス球のような瞳をしていて、肌は浅黒く、東南アジアの少女のようです。彼女は僕が唯一話すことの出来る女子で、きっかけは町君のことだった。彼女は密かにというでもなく町君のことを気にかけ、その友人の僕にも話しかけることが出来る。話すといっても挨拶や激励だ。その声は抑え気味で、何かと戦う人の心持を伝えている。彼女の後ろ姿を見ていると本当に色々な人間がいるのだと思える。淫らなことを思わせない貞操感。走り出すと速い、性能の良い自転車のような体つき。色々な人間がいるというのは、彼女の輪郭がいかにも凛として、他者と明確な境目を持っているからだ。彼女の周りの空気は、彼女の意思と同じ匂いがする。
追試を受ける僕は、教室で勝島君と二人になった。勝島君は日に焼けた坊主頭。目の細い野球部。
教室には爽やかな風が吹いている。それまであった人いきれ、声が運ぶ意識の内側に入り込むようなその肉感、様々な威力を持った視線の数々。そんなものが消えうせ、今は静かな湖畔。遠く響く壊れたバイオリンにも似た笑い声はカモメの鳴き声。『彼』は今日の苦役を終えて家路につく。今日は金曜日。週末は安息。
追試は本試験と同じような問題だから、復習していればまず引っかかることは無い。密度の薄くなった教室は空気が幾分濃くなった気がする。
僕と勝島君、積極的に仲は良いとはいえない。二人きりになると薄いガラスのような隔たりがあった。
英文法の先生が入ってきた。
「二人、離れて座ってね。どこでもいいよ」
勝島君は前の方、教壇のすぐそばに座り、僕は廊下側の真ん中辺りに座った。僕の席は廊下からのぞけない所だ。まだプライドがあるのかな。先生は問題をふせて僕らに渡した。時計をチラチラと見ている。窓を端から閉めていって、外の声を聴こえにくくした。黒板に数字を書いた。試験終了時間。僕は、それらのことを賢いアザラシのように首を左右に動かして見ていた。勝島君は両手を組んで股間の上に置いている。勝島君の腕が長い。
人数の少ない教室は緊張感が少なく、僕の劣等感もわずか。競争しないことがこれほど安楽であることを落ちこぼれてから知った。
試験は始まり、そつなくこなしてゆく。そこには少々の自戒がある。勉強以外取柄がなかった僕が、勉強を否定するようにすねてしまう、この逃げの心。勝てない相手にひねくれた文句を言う心。逃げる僕を追ってくる優しい学校。将来を見るなら勉強しなきゃいけないんだろ? でも手触りのない未来。怖いな。触れることの出来ない自分の限界。読字障害があっても出来るような二度目の試験。脳天を突き抜けるような全力感など味わえない。これでいいのだろうか。
試験の途中、不確かな知識のせいで、夢の中で車を運転するような浮遊感があったがどうにか切り抜けた。知らない世界に放り出されるような、あの心もとなさだった。脇の下には汗をかいている。シャツを黄色く染めるあのいやな汗だ。それが足の裏から、手のひらからにじみ出ていた。それでも、教室の静けさは救いだ。誰からも見られていない。手のひらをズボンの腿の辺りで拭いた。僕にまとわりつくいやな空気は立小便のように、そこかしこに流れていって放埓な気分。所詮、世界は汚れているんですよ。そんな気分。
濡れタオルを絞るように試験は終わる。それとともに僕の汗は止まる。この時間、誰かが僕から生気を奪い取っていった。干し柿のように僕は少し大人になる。「experience」その単語が頭に残っていた。
答案用紙を採点する間、勝島君は窓を開けてグラウンドを眺めていた。そこにはチームメイトがいて、声を上げて練習に励んでいる。居場所がそこにあるのかな。僕は勝島君の足元を見ていた。長い足。柔道の着替えのとき、その足に目が留まった。ぎゅううと、自分には無いものに意識を持っていかれた。その足は膝下が長く、膝の裏っかわに小さく盛り上がったふくらはぎがあり、アキレス腱は黒人のように長かった。ふくらはぎは、よく鍛えられ筋が浮いてキレがあった。この足を見たら、女子は悲鳴を上げるだろう。心奪われるような体の一部。そんなものを持っている勝島君に、「足長いね」という代わりに「足速い?」と訊いてみた。
「競争するの?」と答えたから、僕は笑ってしまった。勝島君の声が明るかったから、僕との距離はそんなに遠くないのかもしれない。
「野球部、どうなの?」
「弱いっスよ」その声は少し硬かった。「でも、アツいよ」そう加えた勝島君は笑いながら続けた。「プロ…プロとか言ってるんだよ。いや、隣の高校からプロ出たから…」
「冗談だよね」
「冗談だよ」勝島君は少しまじめな顔になって「シニアやってたからさ、どれだけすげぇやつが世の中にいっぱいいるか知ってるからさ」と言った。
「シニアリーグ?」と僕は訊いた。
「うん、友達は結構、有力校に行ったね」何か高級なものを吟味するような目で勝島君は言う「喜び方が違うんだよ」斜め前、宙に指を伸ばしている。「怒り方も違う」
僕は黙って「喜び方?」 と首をかしげた。
「運を当たり前のように使えるんだよね」
「運を使う?」と僕返した。
「あきらかに一線を越えるときがあるんだよね。いつもは九割。常に九割。ベストパフォーマンスの九割出せって、コーチが言ってた。強い奴はここぞって時に十二割になるって。そういう奴はホント強い所行ったよ」
「運が強いと十二割?」と僕は訊いた。
「マジ、そうっスよ」勝島君はニコニコしながら答えている。「芯の強い奴マジ運強いよ」
僕は思った。十二割の時喜ぶのか。
「絶対的な強さ? 相対的な強さ? ホント奴ら絶対的強さ持ってるから」勝島君はうれしそうに語る。自分の歩いてきた道に花が咲いている、みたいに。「はたから見てて諦めを知るような強さ。それを知る前は全力のオナニー」そうつぶやいて空に視線を投げている。
「あのさ、知ってる?」と勝島君は話題を変えた。「最悪の先輩」
「最悪の先輩?」
「今から十八年前の卒業生がいなくなってから、この高校変わったって話」
僕が首を振ると、勝島君は続けた。
「それがマジ笑えんだよ。伝説だよ」
「お前ごときが好きになる男あふれたら、日本終了だろが」と言って勝島君は笑っている。「口癖、口癖」
僕は少し戸下さんを思い出した。
「リーゼントで青い顔してタバコをふかすしぐさでため息する。生臭い息で。壁のポッチ見つけたら指でコリコリ撫でまわす」
僕の前立腺は刺激されて、ちょっと勃起する。それは犬のチンチンみたく硬く小さくなっている。心はバネが開放されたように上に伸びていって脳天から笑い声が出る。
「窓からの光を気にして顔の角度を変えたりして。顔ブツブツしてるのに」
僕は口に手を当てて息を確かめた。臭わない。
「俺が物心ついた時、村上春樹が小説を書き始めた」
馬鹿に出来る人がいるという事はなんて幸せなんだろう。内臓が泡立つように喜んでいる。
恐らくすべての人がその時代にゴミを捨てていた穴ぼこの話。
「最後の日その人、卒アルしゃぶったらしいぜ」
頭の中に今日の地下鉄が思い出される。ブレーキにあわせて腰をOLにあてがうやんちゃな高校生。
「それがさ、超能力だったんだよ。そいつがこの高校入れたの。そいつ人の幸運吸い取るらしいぜ。そいつの周り、いつも空気が薄くて、そいつにかかわる奴みんな落ちていくんだよ。人から幸運吸い取って、馬鹿なのに高校入れた。そいつが卒業してからこの高校やたら良くなったんだよ。空気が濃くなったちゅうのかな」
空気が薄い? 僕がいつも感じていることじゃないか。
「そいつ、隣に座った女に念で『俺のチンポしゃぶらねが』って、念送るらしいっスよ」辟易と怒り交じりで勝島君が言う。
「ねぇ、それ。町が似てるって言われた奴?」
「なに?」
「いや、町君がさ、へんな奴に似てるって影で言われてるんだけどさ…」
「それ」勝島君が簡潔に答えた。「そいつ以外いないよ」
遠くで咳払いが聞こえた。先生が採点を終えたようだった。先生は手招きで僕らを呼んだ。点数は、僕「七十八点」勝島君「七十六点」
「時間というのは、限られているものであります。人生に負荷がかかっている時が、一番重要な時間であります。それを逃れて成長しても意味を成さないということがあります。他者と一緒に走れないと思うなら、人生を諦めなければなりません。それだけが人生ではありませんが、学校にいる間は皆と一緒に走りなさい。あなたたちは少しゆるいですよ。以上」そう言って先生は教室を出て行った。
ちょっとした興奮の後の静けさは、僕を正気にさせる。多分イジメっ子達はこの静寂、感じているだろうな。
勝島君は白球を追いに行く。先生は生徒の知らないところに行く。僕は世界を眺めている。世界の中心には恋人がいる。二人はたわ言を言い合いながらお互いの心を愛撫する。体の末端まで生気に満ち溢れる。戸下さんが隣の教室にいた。彼女は隣の教室で乳繰り合ってた。僕らが追試を受けていた時に。相手は背の高い、バスケ部を引退した男子。膝を悪くしたそうだ。彼はちょっと跳んだだけでバスケのリングから手首が出るらしい。ちょっと優れている男子の、この年で武勇伝を語る可愛さは、彼女の目をくらませるのだろうか。僕は聞いてて恥ずかしい。中学の時「選抜選手」だったんだね。僕にはそこが行き止まりに見えるけど。何せ相手が「棘さん」だからさ。
玄関から体育館の様子が見えた。バレーボール部が跳ねている。床を蹴り、舞い上がる彼らは誰よりも高みに届こうと思うのだろうか。もしかするとそうでもなく、白い球という責任を転嫁し続けているだけかもしれない。僕は思う、彼らは高い圧力の中で生まれた湖底の泡粒。膨らみながら水面を目指す。平和を声高に叫ぶ貧しい人々。その姿がおぼろげに、しかしエネルギッシュに意識に浮かんだ。僕はおびえる。足に来る。高いところが怖くてしょうがない。そこには平和ありますか。湖の上ではじける泡粒。こんな考えだからスポーツに嫌われちまうはずだ。靴を履き替えた後振り返ると、彼らはあらゆる現実のしがらみを払拭するように空に舞い上がっていた。
札幌駅前の家電量販店にいると物欲が心をくすぐる。母さんが居なくなって、仕送りが三十万。父さんと男二人暮らしは金が余る。「大きな買い物する時はこのカードを使って」と渡されたクレジットカードはまだ一度も使っていない。お金の使い道は母さんに知られたくないから。時計売り場に足を止めて、じっと値札を見る。こんな高級な時計してたら腕切り落とされるぜ。物欲と自意識が合い混じって複雑な汗をかく。手のひらを制服にそっと置いて汗を拭く。手の匂いを嗅いでみると少し生臭かった。
美麗なデザインの時計は好きになれる。ロレックスは嫌い。前に聞いたことがある。いろんな時計を試した後、時計好きはロレックスに行き着くのだそうだ。僕はロレックスが嫌いなことと、童貞であることをイメージで混ぜる。
パソコン売り場で寒天のような感触のキーボードを叩く。ワープロソフトが立ち上がっていたので適当に文字を入力する。「てろてろりん」と残していった。可愛い感じでね。そこには何列にもなってパソコンが並ぶ。こんなに競争しなきゃいけないのかな。同じような外見はマニアックな知識を要求する缶コーヒーの類。
「お客さんここが違うんですよ!」と。
僕は叩き応えのある、イカ刺しのようなキーボードを使っている。筆圧の強い感じでキーボードを叩いている。ちょっとのこだわり。
店を出る時、残していった「てろてろりん」が気になった。平仮名の読める欧米人は「テロテロりん?」と眉をひそめるかもしれない。
「テロ」
東北の地震は人工地震でテロの可能性があると、ネットで読んだ。本当かどうかは頭のいい奴が考えるだろう。僕はぼんやり経済のために人を殺すことを考えている。もちろんそんな実感は想像力をめぐらせても触れることは出来ない。知識とお勉強が命を記号に変えるという事。彼らは仏の論理を説くように学問で人をひれ伏させ、自らを手の届かないところに置く。誰の手も触れることの出来ない場所は正しいか否かは別にして、安息の地だ。彼らは怖いのである。何が怖いって? そら、血の通った世の中の真実だろう。そんなことを思う。彼らの紡ぎだす真実らしい姿をしたこの世の事々は、誰かがうまく善の血を通わせて弱い人間に忠誠を求める。僕らはどうあがこうと良きことに従わざるをえない。何か間違いがあった時、重荷はグルグル回りながら弱い人間に集まってゆく。彼らは「私たち知識人がいなければ、あなた達は幸せな暮らしなど出来ないのですよ」そう言って高いところから見下ろしている。命を記号に変える。それは自らの心を乱されないため。間違いはあると思いながらふてぶてしく生きるため。頭のいい奴が優しく手を差し伸べる。頭のいい奴が人から何かを奪ってゆく。どちらも同じ意味になる。そこに同情などはあるべくもない。同情は下層に住む人間だけのものかもしれない。優秀な人間の血の通ったところがみて見たいな。頭のいい奴に意地悪をされたわけでもないのに、この卑屈。進学校の落ちこぼれ。プライドと劣等感の狭間で揺れる。爆発的に考えた僕の頭は風に吹かれて冷えてゆく。頭のいい奴は必要ないか? 必要だよな。そこなんだよな。僕の頭の中に浮かぶのは、コンビニエンスストアのフランチャイズ契約の事。手を差し伸べ、奪ってゆく。僕の足はすぐそこにある大型書店に向かった。
僕は平積みになった本のページをぱらぱらめくり、気まぐれに拾い読みする。文章をよく理解できないから、本は買わない。麻痺した頭に、奇跡的に吸い込まれるセンテンスを探す。手に汗を、脇に汗をかきながら、障害に抗う。二階の専門書に手を伸ばす。「乾きかけたタオルを絞るような真似はしたくない。熟れた柑橘類のように意欲をあふれさせて歩いた時代だった」
タイトルは『僕の知っている権力闘争』
「スーツの黒人よ、母なる故郷を覚えているか。今もそこでは兄弟が飢えているぞ」
「タバコを小道具にする時代は終わったのだ。それはかつて紫外線が魅力的であったように」
「すべてが分らないから優しい嘘つきにだまされるのだ」
「かつて僕の愛したものは学問のように刺々しい人々の手に渡って、今は触れることすら出来ない。そして平然として街を歩いている」
僕の意識は鉛のようになる。これらの言葉をしみこませて、表紙についた汗を拭って棚に戻した。「石油だってこんなに形を変える。人間の心はもっと変わる」そんな言葉を浮かべてみた。これが僕のルーティンワーク。
札幌駅から大通りまで、地下歩行空間というものが出来た。単純に地下道。そこは綺麗な空間でほとんど商売をやっていない。歩くことに集中できる。これが出来たのは、震災の直後だった。だから僕はこの地下道に思い出がある。地元のサッカーチームの有名選手が、募金活動していたのだ。僕は高校生の身でありながら、三千円を募金した。お金はあるのよ。でも高校生は五千円も出さないのよ。僕は経験的に知っている。有名人に近づくと僕の頭は白く混乱すること。だから彼らを見つけたとき、まだ遠いうちに財布を手に取り、三千円をヒラヒラさせてそこまで行った。白い混乱の中じゃ、万札を間違って入れかねない。それから数日後、競輪選手が募金活動をしていた。そのときは募金しなかった。何故か金の匂いがきつすぎて。
遠くで苦しんでいる人に同情できる人はすごい。この頃のラジオから流れる歌は『みんなつながっているんだ』って歌っている。でも共感できない。
僕の手は短いゆえ。
獣の前にステーキを置いてむさぼる姿を眺める人々。平和。でもいつだって人はステーキになる。精神的にむさぼられ、おいしいステーキになる。何かのはずみでイジメにあうように。『彼』『町君』
僕の手は短く、力が弱いゆえ。自らの体を抱きしめて己の温かさに喜ぶぐらいしか出来ないのです。募金しているみんな。そんなに腕長いのですか? 自己満足なのですか? 僕が知りたいのは心のことなんだけどな。お金を出す時に勘定をして、手元からお金がすり落ちてゆく時の心。背中越しに遠ざかるお金に、「出しすぎちまった」と後悔する心。人のためになったと自尊を肥やす心。そこに人の顔がありますか。僕にはその心、一つ一つが気になってしょうがない。大きな現実に飲み込まれる瑣末な感情のゆれ、どうしても気になって。僕の中にすべてあるのです。その小さな心の罪。震災みたいに大きな流れの中にあれば消えてしまうような心の小波。身近でむさぼられる柔らかいステーキには知らん振りしできる心。
僕の好きなアーティストは震災で体調を悪くしたらしい。あなたはつながっていたんですね。さすがです。
大通りのレンタルビデオ店。
父さんが「カイル・マクラクランと赤井英和」と注文を出した。この前は「スコセッシ」だった。父さん、僕の障害知らないよな。タイトル文字が並ぶこの場所に、また冷や汗を流す。
父さんが毎週、借りて来いというものを僕も観ている。父さんは東京で暮らしていた時代に映画を見倒していた。全国ロードショーにならない単館上映の映画。
「映画の本質を知るには、金のかかってない映画を観ることだ。金があると人間必要以上に大きくなるから」父さんが言ってた。でも、カイル・マクラクランはメジャーだろと思う。
中学生の時、男2・女2で映画を観に行ったことがあった。僕の友達が女子の誘いを受けた。その女子は僕の事が気になっていたらしくて、遠まわりして僕の友達を誘った。正直、恋なんて感じじゃなかったから、ぼやけた頭で映画を観ていた。この女子の何を好きになればいいんだ。そんな失敬な言葉を浮かべながら、逃げ出したい思いと、男らしくあるべきだとの思いが交錯してストーリーどころじゃなかった。
映画を観終わった後のことをよく覚えている。映画に関する感想を言い合って、共有する喜びで笑っていた時。心ここにあらずの僕に「感性ないでしょ」と言ったんだ。その女子は少し怒っていた。実は僕は二人のうちどちらが僕に気があったのかは知らなかった。だから、その怒りみたいなものがどんな心持から生まれたのかはわからなかった。それでも僕のプライドが痛く傷ついたことを今でも覚えている。好きでもない女の子にでも「鈍い」といわれれば繊細な心が傷つく。なんだか複雑な心の絡み方。
父さんの映画好きは僕にとってありがたかった。映画を観れば何かを感じ、何かを感じれば僕はここにある。学校で消え去りそうな存在感が少し輪郭を取り戻す。僕が感じていること、誰も知らないよな。
湿った風は、夏のクーラーより冷ややかに、体と制服の隙間から皮膚をなでる。目が充血している。この体調だと肌は青白いだろう。手の甲を見るとクモの巣のような紋様が浮き出ている。こめかみに残るアダルトビデオのパッケージの女。体の一部を除いてすべてが萎えている。太陽が照る季節は近くまで来てはいるが、経験的に、その光が心の奥、一番大事なところまで暖めてはくれないことを知っている。胸の奥に心がある。それが体の隅々までいきわたるなら、納得しよう。でも、僕の心の入れ物、どこかに穴、開いていませんか。クラスの中ではじけた笑い声を出す人々。内から湧き出すエナジー。膨らむところは膨らんで幸せそう。漏れることのないそれは彼らを健康的に見せている。内側にあるそれが正しいか否かは問う者がいない。
バス停からの帰り道に、カラスの鳴き声が心を癒してくれる。その鳥は現実をたっぷりと体に染み込ませて黒く光り、美しさと醜さを同時にまとう。数年前まで下水道が無かった僕の家は、かつて父さんの稼ぎが悪かったことの証。今は母さんのお金で新しい家に変わっている。その家に母さんが居ない事に何も感じない僕。もらったものはもらいっぱなし。だらしないのか不感症なのか。
夕食の後、僕は食器を洗っている。その洗っているガラスのコップが手より滑り落ちる時に、髄を走る悪い電気よ。幸せが手をすり抜けていく時もこんな感じがすればすぐに取り戻せるのに。そう思う心の手触りに、少し『敏感』な心のひだを確認する。まだ若い僕の体。不幸はこびりつくことなく、何処からか光が差している。
このコップ、フランス製なんだよね。
ブランド物でないそれは厚い造りで、口当たりが良いとはいえない。僕は自分の少し輪郭の淡い唇を想う。誰も特別な思いを寄せないこの唇。フランス製の名前のないグラス。
名前を呼ぶときの緊張感。ただそれだけなのに薄い膜を破って向こう側に取り込まれるような感触。すべてを曖昧な言葉で済ませたい。名前に込められた魂、名前に刻まれた心の記憶。それを声にするたび跳ね返ってくる自責。これといった答えが心の奥に在るのなら、何も臆することもなく、名前のある向こう側に行けるだろうな。物事の力というのは、その確かさにある。僕のコンプレックスはその確かな答えにたどり着けないことに始まることを知る。もしかしたら、誰もそんな確信に満ちた答えなど持ち合わせていないのかもしれない。しかし名前ある人々は僕の心を吸い取るように世界に在る。誰も知らない心を持って、密やかなプライドを持って。
町君のことを気にかける女の子。僕は彼女の名前を呼んだことがない。名前を呼んでしまえば、この醜い心が彼女に届いてしまいそうです。僕の劣等感。名前のない唇。僕に一番近いオッパイ。
夜が深くならなくなったのはいつからだろうか。日が沈んで闇が訪れれば、自然と心が澄んで、見えないながら未来を信じる力が感じられた。ベッドに体を横たえると、体の芯が自分以上に重い。それが疲れというのなら疲れているのかもしれない。僕は地球に吸い寄せられている。体の内側から重みがすり抜けて、地球の真ん中まで行ってしまえばいいのに。こんな疲れを押し付けられたら地球も怒るんじゃないか。でも、それほど忌み嫌う疲れには感じなかった。疲れの周りに柔らかな優しさがあったから。明日の朝はコーヒーを淹れよう。舌の肥えないうちは湯のように思えるまろやかなコーヒー。冷凍庫にあるその粉はまだ新鮮だろうか。それは湯をかけると丸く膨らむ。湖底から湧き出る泡粒みたいに。
世界の上の方。アメンボが水面を揺らす。それは大事な使命を帯びていて、感じやすい人々にイメージを与える。それをバカな妄想と笑うもの、神の啓示と胸に刻むもの。
風は気ままに吹いているようで、それは渦を巻く。台風は生まれ続け、その目に入って晴天と喜ぶもの、荒れる世界を楽しむもの。
治りそうもないその根を深く張るニキビは、ここから遠いドアを開けて日の差す窓から顔を出すか出さないかのところで立ちすくみ光に照らされている。繊細な心と諦観をはらんだその顔に、いつか観た映画俳優のナイフの傷より醜く刻まれる紫色。
素敵な男にまたがって、膨らんでゆく女の幾人かが、縮みやすいナマコみたいな少年を薄ら笑いで見ている。世の中のふくらみが限度を知るならば、いつか女はしぼみ、少年は膨らむはずだ。
畏れから生まれた堅い美意識が、深みを嫌って水面に漂い、湖面を旅する人々にかりそめの平和を与えている。それは眉頭と目頭、鼻梁を強く集めて『勝ちました』と宣言し、顔を世界に突き出す。
善なのか悪なのか判らない濃い色をした声。強く人を惹きつけ、『嘘でもいいから』と、魂の拠り所となる。嘘に飲み込まれた人は天に唾を吐き、己の体の嘘の部分を秘部に隠した。
外見が心の内を飾ることへのアンチテーゼ。心の内に美しい言葉が浮かぶことを得意とする傲慢さ。すべてを包括するような優しさの罪。自然な心を売り物としても、風に吹かれて吹き溜まり。
噴水が吹き上がれば、歓声が沸く。それには力が必要なのだ。
携帯が鳴り、メールが届いた。僕は浅く眠っていたらしい。町君だ。
「巨乳発見!」行かねばならない。「いつものところね。待ってる」ハンバーガーのチェーン店。新しい子が入ったのかな? 頭が深々と痛んだ。夜が浅いせいだ。
僕が階段を降りると、父さんが厳しい顔で立っていた。
「おい、問題は解決しようと立ち上がった時、すでに解決されているものだ」
「何言ってるの?」と僕は返して飛び出し、ガレージの自転車まで走った。目の前には無邪気にもオッパイが見えている。
夕暮れは惜しげもなく西に消え、僕は湿度のある冷えた空気を鼻先で切る。町君まで十分。つぶれたガススタンドがさみしく右に見えて、母さんの存在に震える。そのスタンドで母さんとガスを入れて塾に向かう中学生の僕。今より膨らんでいた僕は怖くなかったな。その膨らみは今ではどこかに吸い込まれて、何かを大きく膨らませている。フランチャイズのラーメン店を左に坂を下る。そこの匂いは動物の物。もうちょっと進化しないと消えちまうぜ。道端に止めてあるポルシェから大きな声が聴こえてきた。
「欲しいもの、全部欲しいだろうが! 何がいけない!」
ガラス越しの声はなんだかテレパシーみたい。男がステアリングを強く叩いている。ナンバーが『9・11』テロか?
冷たい風を切って走るうち、体が温かいのを知る。父さんの飯のおかげだ。たっぷりと味を吸い込んだ肉じゃが。明日の朝も肉じゃがだ。何故だか未来が見える。意識は鍛えた筋肉のように硬く膨らんで、耳に届く雑な音たちは、心の柔らかいところに届く前に砕けて消える。
僕はあなたを迎えに行く
意識の深い所から
天より突き刺す雷を
迎えに行くように
それが隅々まで満たされて
悲しみをたたえていないように願う♪
『9・11』はポルシェの型番だったっけ?
町君はカウンターを背にじっと前を見ていた。その向かいに座る僕が言う。
「素性知らないほうがいいよね?」
「それじゃ売春だって?」
「そこまでいくの?」
「手、スベスベ?」
「湿ってるほうが吸い付くんじゃない?」
「離れているほうがいい? 前向きがいい?」
「釣鐘っぽい」
「唇と同じ色かな」
「頂上に縄張って、綱渡りしてぇ」
僕の体は首から上が笑っている。体は何かを感じて震えるように緊張している。顔はなんだかとってつけたようなもんだ。僕は自分の鎖骨をなでたり、目を寄せたりして町君に話しかけていた。頬肉が目を細めるように盛り上がっていた。
「なんか買ってきなよ」とうながされて、カウンターに向かった。
外に大きな嬌声が響いた。
「いい女見つけるぞぉぉぉっ!」
そう叫ぶ年のころ同じくしたやんちゃな集団。数人が原チャリにまたがっている。僕の浮ついた想いは米神をピリリと刺激されて吹っ飛んだ。
「ナゲット」と僕は言う。
「ソースはどういたしますか?」
「お飲み物はいかがですか?」
「ありがとうございます」答える彼女は、いつか爆発しそうな火種を、うまいことなだめすかすように笑った。僕の心に触れないように。彼女は外の様子を緊張感のある目でチラリと見た。そこには固い不感症も感じ取れた。下乳は制服を強く押し出している。
窓の外を気にしながら席に戻ると、神妙な顔をした町君が携帯を眺めている。ナゲットをかじりながら「随分大事そうな写真だね」と、僕が言うと携帯を裏返して見せてくれた。女の子が写っている。ブラ姿だ。次の写真を見せてくれたとき、何かが脊髄のどこかしらを突いて、膝がテーブルの下を打った。その女の子、町君の頬にキスをしているんだ。それを見つめながら僕はしばらく呆けていた。頭に「したの?」という言葉が降りてくるまでしばらく時間がかかった。「すごいね」といった後また、しばらく黙った。言葉にならない刺激が、僕の脳みそをチクチク突き刺す。びっくりは言語障害をもたらす。
それから町君は彼女が中学時代の友達であることを教えてくれた。町君が中学時代、秀才であったことに惹かれたんだとか。彼女はかるい私立高校に通っているらしい。
「愛とは自分より深きものに感謝するものなり」
「それ何?」と僕は訊いた。
「彼女の教え」
「キリスト教とか?」
「念を通す」
僕は何も思いつかなかったから黙っていた。
「他人の意識を神として、そこに念を突き通せば、己の魂の真の味つまびらかになり、放埓な夢消え去るだろう」
「何のこと?」僕のストライクゾーンを外した話だ。
「それが、『する』ってこと」町君は熱い息を吐いた。
「教えだからしたの?」
「違うよ。多分違う」
町君は窓の外を見ている。そこにはヤンキーはもういなくなっている。彼らは彼らで何か荷物を背負ってどこかに行くのだろう。
「俺のこと『愛の税』って言うんだ」
「また、とっぴな事言うね」
「俺が今、学校で少し損してるだろ? そのことつぶやいたら、食いついてきて、それは『愛の税』だよって言うんだ」
その話はこういう内容だった。人間生まれながらに愛の量が不平等に割り当てられている。愛を多く持つ人間は、自らの魂を持って愛少なき人を喜ばせなければならない。愛を多く持つものは苦しい人生を送りながら自分を信じ続けなければならない。最後、自分の器量で幸せに出来る最大人数の心を満たした時、神は汝に幸せを与えるだろう。なかなか苦しい話だ。
「それ、信じてるの?」
「宗教には入らないよ」町君が薄く笑っている。
大きなおっぱいは幸せの象徴なのに、何故だか色があせている。それは、男がいつも勃起してはいない事と同じことなのかもしれない。
帰りの道、風は冷たく心を冷やす。しかしながらの清々しさ。童貞であることを認識する。
「現実は向こうからやってくるもんだなぁ」
冷や汗をかきながら読字傷害と戦う事。世界から逃避行するように、不意に現れるインスピレーション。現実にそぐわない性欲。いつかこれらが上手くかみ合って、人並みの幸せを手に入れることが出来るのだろうか。
「本当の安寧というのは、満足によりもたらされるものではない。たいていの満足とは、醜さをはらんでいるからである」
そういえば、そんなことを思いついたのだ。「満足が醜さをはらんでいる?」諦めろというメッセージかな。
僕は町君の顔を思い出している。仲の良い僕は見慣れているけど、みんなにはどう映っているのだろう。その顔に勝者の光を見出せるだろうか。少なくとも僕にはそう見えなかった。人に先んじたという自負も見えなかった。それは内側にそっと秘められ、だれも傷つけてなんかいない。「その満足は醜さをはらんでいない、稀有な物だった」と言いたいな。写真の彼女、少し胸が小さいけど、鎖骨が綺麗な大人の女の体だった。僕はなぜ、町君がすでに経験したという事に驚いたのだろう。友達として恥ずかしいじゃないか。
夜の闇に差し込む寂しい商店の灯り。闇に目を向けると、中学時代の『セックス番長』の姿が浮かんでいた。その威圧感は少しずつ薄れつつある。いつの日か見た、剥けすぎたペニスへの驚嘆のように。
僕は見たこともない、手触りもない自尊心を蓄えている。何がそうしたかはわからない。
僕は『闇』と思った。
翌日の午前の教室。僕は一人で数学の追試を終えていた。季節の変わり目を告げる、日差しの元気。窓から見えるグラウンドに球児達が網を張る。登校時に見たのは、私立校のバス。練習試合らしいな。人のいない教室をぼんやり眺める。この静けさは、なんだか卒業生になっちまったみたい。
「帰るときは窓を閉めていってください」そう先生が言う。
柔らかい心にグラウンドからの掛け声が響く。彼らは生きている。血の通った声は僕の心の琴線に少し触れる。白球が遠くに飛んでゆき、綺麗に捕球される。その姿は僕に問いかける。あの日打球が僕のグローブからこぼれた事。何故それが出来ないのですか? 僕は球が飛んでくると意識が揺れる。もともと乱視ということもあるけど、あのとき世界が醜く、けばけばしく見えた。何度もフラッシュをたかれたときのような緊張と興奮。心の弱い人だと思われていた。僕の心が水なら、彼らの心は蜂蜜だな。彼らは多少のことでは波を立てたりしない。
高校受験の後、長い春休みに、僕は本を読んだ。高校が進学校だから、僕の友達は少し距離を置いていた。もしくは彼らは僕を軽んじていたのかもしれない。一人で過ごす休みに、父さんの本棚からいくつかを選んで読んでいた。『かえる君 東京を救う』僕はその中の主人公に自分を重ねた。うだつのあがらない男が、深い闇の中でかえる君とともに、怒りを蓄えたみみず君と戦い、東京を大地震から救うという短編だった。僕には主人公のような心の力があると信じていた。何か大きな闇と戦う力だ。しかし、僕は今みみず君のように怒りを蓄えて、それをいかばかりかのプライドとして生きているんじゃないかと思えている。怒りは鈍いところには現れない。繊細な心の中にゆっくりと蓄えられ、何がしかの啓示を与えるのではないか。僕は昨日観た映画の監督に想いを馳せる。あなたは大いなる怒りを持ってはいませんか? 現実、リアリティーといった味気ない世界に怒りを覚えて、おいしい物語を立ち上げているのではないですか?
「ここのところ、リアルじゃないですよ」と、助監督が言う。
「リアルなんて要らん。俺たちはリアルの向こう側に行こうとしているんだよ」監督は現実に怒る。僕は不意に思う『可能性は怒りなのではないか』
ひときわ大きな歓声が上がった。
「ナイスプレー!」
僕は見ていたはずの景色を思い出す。注文どおりのダブルプレー。6・4・3のダブルプレー。歯車がピタリと噛み合ったダブルプレー。僕はちょっと嫉妬する。心が蜂蜜のようにトロトロなのは僕のほうじゃないだろうか? 僕は自分に腹を立てる。
帰りの道、地下鉄駅に近い中華料理屋で僕はチャーハンを食べていた。店主は何に怒っているのか普通のチャーハンが大盛りの様に盛り上がっている。たくさん考えた後は、何も考えずに飯をかき込む。後ろの席でジャージを着た中年の男二人がしゃべっていた。ビールを飲んでいる。店に入った時、すでに二人がいたから、視線を合わせないように、窓のほうを向いて座った。誰もいない中華料理屋も興ざめだけれど、これはこれで落ち着かないものがあった。『女』という言葉が僕の心をキュウゥとひきつけた。
「あの人、男と別れたらしいでしょ」
「何でわかる」
「匂いが違うから」
「香水か?」
「いや」
「体臭か?」
「いや、男がいるときの女、背筋がしゃんとする空気持ってるでしょ」
「お前、その辺のことに鼻利くな。男の固いものが入ってないとやわな女になるのか。面白いじゃないか。で、その後どうなる?」
「あの女、兄貴ねらってるでしょ。別の女あてがうでしょ」
「諦めたところねらうのか」
「諦めませんよ、あの女。めちゃくちゃに我、強いですから」
「それでどうなる」
「兄貴に近いところいるでしょ。相談に乗るでしょ。兄貴の弱い所突きますでしょ。尻拭いてるのはいつも自分らでしょ。借り作るでしょ。自分ら一コ上行きますでしょ」
「あの女、諦めろ言うのか」
「将来とあの女どちらが重いの」
「話にならんわ」
僕、その女見てみたい。そして僕を見てなんと言うかな。汚物のように見下すだろうか。僕はちょっと『M』家に帰ったら、じっくり自分の体を鏡で吟味しよう。
店を出た僕は地下鉄に乗り「すすきの」で降りる。近くの喫茶店で豆を挽いてもらわなければならない。待ち合わせに使われる改札前で、笑いながら手を振る薄い髪の色をした女子高生を見る。胸が詰まるような思い。卒業した後は、夜の世界か芸能界かも。この手の胸を刺激する女の子を相手に出来る男はきっと不感症に違いない。おかしくなるよな、頭。
そこにある喫茶店はおじさん、おばさんが多い。僕みたいな高校生が入る店じゃない。僕の後ろには中年の一歩手前の男がタバコをふかしていた。ウェイトレスの女の子に「スペシャルブレンド200g、中挽きで」とお願いする。「あと、ブレンド」
店には新聞が置いてあったが、暇つぶしにわざわざ読字障害と戦う気にはなれないからぼんやり夢想していた。蜂の巣について。
綺麗に整えられた学問に、噛み合ったチームプレー、相思相愛の恋人たち、気分の悪い時に逃げ込む行きつけの店、独占禁止法。それらの作り出すものが蜂の巣みたいに正確な六角形をして、世の中をうまく崩れないように支えあっているのではないか。学問、スポーツ、独占禁止法? 何故。焦点を絞ろう。天才の才能は蜂の巣を造るように世の中と噛み合う。才能は蜂の巣。世界の天井は天才同士のコネクションで正しい形に整えられ、そこから漏れてくる天からの雨は芸術の味がする。その雨を楽しめる者は幸せを享受し、それを理解できないものはひねくれて世の中の端っこで生きなければならない。混沌の雨の中でもがき苦しむ。なんだか僕の想像する世界はむごいな。
才能とは蜂のように正確に
六角形を造りながら
次の世代を造り上げる
奉仕の心
かわいい
放埓に見えても
何故か入れ物に
収まることが心地よい
かわいい
逃れられぬ本能は
今日も正しく
六角形を刻む
かわいい
『かわいい?』
意識の奥に声があった。かわいいという言葉がリズム良く入ってきたから分らなかった。その『かわいい』は言葉ではなかった。まろやかな意識の種だった。コーヒーをまろやかにするクリームみたいな意識。僕はいつもピリピリしているし、頭の中が混乱していることが多いから、雑念として収めてしまうところだった。
『かわいい』また聴こえた。誰かが言葉を発しているのだ。『ひでぇな』その言葉の後、あきらかに違った声で『同情するなよ』と聴こえた。ドスのきいた声だった。『同情するとうつるぞ』僕は体を半身にして横目で後ろの男を見ていた。ガラスの向こうに若い女の子が通るたび吟味する声がした。声質はしだいに渇いてゆき、しばらくして声は聴こえなくなった。僕は怖いので考えることを止めた。じっとコーヒーを飲み、豆が挽き終わるのを待った。
家につく間、意識を覗かれているような感覚があった。僕はその間ずっと何も考えなかった。今まで考えすぎるほど考えてきたからそれはちょっとした意識革命だった。それは想像が漏れ出ることの恐怖をはらんでいる。「日が当たっている」それだけを考えている。自分の中にあるあやふやな部分を、柔らかくしたまま茫洋と景色を眺める。そこに色は無く、感情は失われている。友人の罪を隠すような心持。右に行こうか左に行こうか迷っている。しかしどちらにも行かない。踏み外すと転がり落ちそうな谷底が見える。
バス停から長い坂道を登ると、家のガレージが開いている。母さんが来ているのだろうか? 家族の中で車に乗るのは母さんしかいない。しかし、そこにあったのは、父さんと一本のサンドバッグだった。僕は感情を失ったまま驚いた。
僕はベッドに寝そべり、あの男は「最悪の先輩」であったのか憶測をめぐらしている。想像はおいしい鉱脈をたどり心の栄養に。
胸の中にうずく、裏社会の異物と出会ったような喜び。
「ねぇ、あの人見たことある?」と友人に言いたい気持ち。脊髄を走るアツい興奮。「超能力で女を吟味する男! アァ!」
瞬間、脳みそが天まで突き抜けるような感覚。大きな吐息とともに、意識が収れんしていくのがわかった。急にサンドバッグが魅力的に見えている。激しく体を動かす想像をした。雨を払うようなエネルギー。ネットの動画で「サンドバッグ打ち」を検索する。「ボクサーたいした事ないじゃないか」
僕は机の上の原稿用紙に目を留めた。
よく知らないけれど
近くにいた男が童貞を
捨てたらしい
そこには少しも悲しみがなくて
こころよく涙が滲む
傘は閉じ続ける
傘は閉じ続ける
「父さん!」
深い森の奥深くに足を踏み入れ、誰も知らない果実を摘んで、獣を恐れながら仲間の元に帰り、それを振舞いたかった。私の昔からの夢だ。スイッチを換えれば広がる世界は触れたことはなくともこの手触り。行ける。行ける。堕ちたと思った空ですが、実は身長が伸びていた。夢のある世界が私を否定するたび、私の頭は雲を突き抜ける。
好きと言われた後
自分のふがいない所に目を向けるから
もう少し背が伸びたらと言い訳して
君より高いところに行きたいと
失礼な事想いました
それはガラスの浮き玉の心
圧のある現実に
溺れまいとする
気高く 臆病な
青い春のものです
森の奥で怖い人に会ったら、三千円で許してもらおう。例えて言うなら、深い因果の法則。奪うもの必ず奪われる。いくらでも持って行くがいい。誰かが私にもぐりこんでこの言葉を盗み取るなら、血の結末は避けられまい。
世界が雨で燃える
みんなの体温でゆげを立てている
タバコの煙に混ざって
ゆげは筒の中に消える
煙を吐き出す男が言う
『燃え尽きるまですべてが勘違いさ』
ゆげに混じる煙は
年老いたあきらめ
すえたにおい
鎮痛剤として世界にただよう
若い美しさは失うことを恐れていては輝くことはない。けなせ。年老いた臭い。その分、世界は深みを増し、いずれこの手に堕ちるだろう。
イキがって
殴り狂うは
サンドバッグ
手応えはあれど
それはただの砂袋
若気の至りの
世渡りのようです
輪郭を保ち、凛とした姿は未来あるからこそ。結末が訪れると知るやぼやけて、世界とのつながりを絶つ。心の奥を見せるなら無罪の輝きを放ってみせる。
アレは固い殻の中にあるから
思い切り行った方がいい
アレは長い年月ねむっているから
どう変わっちまったかな
アレは最近だれかが触れちまったから
古い手は通用しないぜ
アレはこれから見たこともない形になって
俺たちを明日に運ぶらしい
アレはたまにオッパイにかわるぜ
私は果実を探している。森の奥に分け入って、舌を喜ばす果実を。その味わい、いずれ世界に本当の国境の線を引くだろう。サンドバッグ。サンドバッグ。それが甘い果実に見えてくる。夢をたっぷり吸い込んだ、グラマラスな黒い肌。肉を味わえ。黒く輝く甲虫のような魅力。肉の痛みが花を咲かす。果実を求めるこの身なら、味わい深く世界に響くだろう。
教室の端っこで『彼』が蹴りを何発も喰らいながら、泣いている。嗚咽と悲鳴が耳に響く。その声に肝を冷やしながら傍観をしているうちに、怒りが爆発したような一撃が『彼』の柔らかい腹部に。『彼』の体から声にもならない悲痛。僕の胸には嫌悪の手触り。『彼』の顔は溶けるようにゆがんでいる。形ある物が壊れてゆく時の軋む音。魂が肉体の我慢を支えきれなくなって崩壊してゆく音。ミミズの中身が出てしまったような衝撃。もろとも消え去るがいい。狭い産道から世界に飛び出すように、僕の魂が出口を求めた。僕の左フックは誰かの顔にめり込んで前歯のでっぱりが拳に当たった。僕の体に響く肉のさざなみ。殺すぞ。そう叫んで夢から醒めた日は、『彼』が誇りを取り戻しつつある、ある初夏の日だった。拳に痛みがあった。机を殴ったのだろう。サンドバッグを叩き始めてから半月が経った。夢の中でもボクシング。そんな男になりました。
『彼』は昨日、中学生のカツアゲを見事に退散させたらしい。自慢の右ストレートを披露している。その事で教室は健康的な明るさを含んで輝いていた。
町君に想いを寄せる女子に「好きだって言ってあげなよ」と言った。何故そんなことを言ったのだろう? 廊下のロッカーの前で僕たちは話す。彼女は困惑とてらいを含ませて笑っていた。幼い、柔らかい笑顔。「好き」の向こうに何があるんだろう。
午前中の授業、もう汗なんてかかない。相変わらずの読字障害は、軽い肌荒れを気にする程度のもの。空気は薄くない。当たり前だ。ここは宇宙じゃないのだし。そう、僕はみんなと同じ山を登ることをやめ、下りていったのかも知れない。空気、薄くない。
昼休み前に買い食いに行く。途中、町君が僕の顔を見て「頬、こけたんじゃない?」と訊いてきた。「後で教えるよ」そう返した。誰にも触れられることもなく自尊心を太らせている僕は、実を言うと、自分だけの山に登りたいのかも。そこで一人で雄たけびをあげる。一人で歩いた道で作り上げられる心は、誰も推し量れない。いいじゃない。
この数週間、顔の造作が変わってゆくのが気持ちよかった。眼の奥の脂肪がなくなったせいか、眼窩の輪郭がくっきりして、目の玉が落ち窪んだ。僕は自分が繊細であることを知っているから、その真反対の粗野な力を手に入れるのがなんともいえない快感だった。繊細かつ豪胆。うれしくなる。「なぁ町、近いうち二人目出来るよ」
窓の外を眺めている。窓下の景色に町君はもういない。町君はクラスの仲間と笑いあっている。『棘』のある視線は、静かな湖面を一時揺らした鳥の旅立ち。時が経って凪。僕は夏が恋しい。はじめてのことかもしれない。色の白い僕は、夏を嫌悪していたのに。
母さんがこの前、家に来た。口座から結構な大金が引き出されていたから。ガレージの中を見て、ため息を漏らしながら、目をつり上げていたな。僕は男の秘密を感じた。ゆっくり皮がめくれてゆくような秘密。「母さん、男の事知らないんだな」と。
鼻先をなでる風に、自尊心が波立つ。艶をもった肌に照らす光がうれしい。
「誰か、僕に惚れてないだろうか?」
そう思い、振り返ってみたが、クラスの誰も僕のことを見ていなかった。僕の恋心は切なく胸を痛めながらほのかに甘く、ここにはいない誰かの所へ向かって漂う。
「三十秒、マックスでやってみな。マジ、脳みそ白くなるぜ。肉体があること憎むほどだから」
「サンドバッグは押すんじゃなくて、打ち抜くんだよ」
「拳 当たるとき跳ね返されてんじゃん」
町君をガレージに招いた。僕らは喜んでいる。
「臭うね」町君はグローブの臭いを嗅いでいる。僕は顔をゆがめて「青臭いか?」と笑った。
「拳ダコ出来ないんだよね」
「どれ?」と言って町君は僕の拳を見た。「拳ダコ出来る人、下手だって誰か言ってたな」
「俺、支えてるから。撃ちなよ。左ジャブ・右ストレート・左ボディフック・右ストレート・左フック」
「何?」
「適当でいいよ」
僕はサンドバッグを支えながら「セックスパンチ。セックスパンチ」とつぶやいた。「柔らかいほうが好きか」
「女も頭は固いんだぜ」
「そりゃ、発見だな」
その道を極めるのがセックスなら、僕はサンドバッグを殴ることで世界とキスをした。僕の肉体はトンネルを通って世界と通じる。感じることで僕らは強くなれる。感じることが唯一この世に存在する理由なんだ。町君の右ストレートは結構強い。僕は膨らんだり縮んだりしながら明日に向かう。
後書き
もう昔のことで分らないです。
読んでくれたらありがとう。
文学界に送りました。
一次落ちです。
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