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『ステーキ』

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マシモの話

 
前書き
ヤクザの話。 

 
「この人の波がステーキに見えないか」 俺が言うと

君は、「そんなに美味くはない」と言うじゃないか

「食べたことがあるのか」俺が言うと

そ知らぬ顔の君のスーツが風になびく

「そのスーツどこのだ」俺が言うと

「君には発音できない」と君は言った

俺は鼻から強く息を吐き なるほどと思った

 少しだけ昔、東京の話だ。


「声が小さい!」増藻の声が響く。
 
 増藻は、大きな男の眉間に指を立ててこう言う。

「ここから声出せ。念じるんだよ。ボイスだ。そんなことじゃ負けるだろう」
 
 この部屋にいる五人の男たちは、声をそろえる。

「何か入用なことはございませんか」

「声に深みが無い! ケツで息吸え!」増藻の声は高く刺さるように。

「何か入用なことはございませんか」

「私がどうにかいたしましょうか」

「そんな心配はご無用です」

「天地がひっくり返ってもそんなことは起こりません」

「ビタミン剤のようなものです」

「タバコより安全です」

 増藻はゆっくりと五人の顔を見た。五人。

「一人多くないか?」

「私の友達なんで」と、大きな男が言った。

 増藻はじっと、増えた男を見ている。目の淵があいまいにゆがんでいるからこう言った。

「お前、殴り合いしたことあるか?」

 新しい男は「いえ」と答えた。「自分はそういうのじゃないんで」

「そういうのはだめだ」増藻はそう言い、痩せた男に「グローブ持って来い」と言う。


「俺が二発殴る。ガードの上から。そしたら三発返せ」増藻は、目の淵があいまいな男にそう言う

と、右のフェイントを入れて、左ボディーフックと、右ストレートを打ち込んだ。男は厳しい顔に

なる。


「良い目になるじゃないか。男はビンと立ってなきゃいけない」そう言う増藻のガードの上から男

は三発パンチを打ち込んだ。「意地あるじゃないか」「悪くないスピードだよ」「急所めがけて打

つんだよ」「無我の境地だな」そんなやり取りが繰り返され、増藻は壁の時計の針を見た。そして

最後に増藻は強烈な左ボディーフックをまともに叩き込んだ。男はキュウゥと小さくなった。増藻

は小さく顔を横に振って「いいだろうか?」と大きな男に聞いた。

「いいと思います。はい!」


増藻はグローブを脱いで、あいまいな目の男に握手を求めた。「とても強く握れ」そう言うと、増

藻は強烈に男の手を握り締めた。「握力70!」男は顔をしかめながら、必死に握り返している。

「弱えな」と、増藻が言い、手を離した。

「自分、人指し指と中指だめなもんで」

「駄目なのか? 駄目って何だ。手、握ってみろよ」

男は増藻の手を握った。

「ホント駄目かもな」そう言って、増藻は「お前、裏ピッチャー」と言った。「裏ピッチャー。面

白いな。ピッチャーってのは、あの指先に込めた力でバッターの骨折るからな。おい、もう一回握

ってみろ。おお、駄目だな。裏ピッチャーだな」

時計は昼の十時を少し回っている。彼ら五人はこれから商売をしに行く。

「行って来い」増藻はそう言うと、一人ひとりの臀部に竹刀を打ちつけ、激励した。

 増藻は、まぶたの薄い男に言う。

「いつものネックレスどうした?」

「…忘れたんです」

 まぶたの薄い男は押し殺した。昨日女に笑われたのだ。


狭いこの部屋は、札幌の中心地にある古いコンクリート製の三十数年もの。リノリウムは冷たく、

外の冬の寒さをたっぷりと吸い込んでいる。風は強く、古いサッシをカタカタ震わす。窓には二枚

のポスターが貼り付けられている。

「頼むよ叔父」そう言うと、増藻は目を閉じた。そこには行くはずの無い同窓会の風景が広がって

いた。

灰色のスーツに細い靴を履いた増藻はホテルの広い部屋に入る手前、喫煙スペースでタバコを吸い

ながら、片手にシャンパングラスを揺らしている。古い友達に、喫煙者は肩身が狭いね、などと笑

いかけながらグラスをピタリと唇にあてる。「追求」と思う。口当たりを追い求めるとこんな具合

のグラスができるんだね。女も同じだね。そんなことを話して会場に入ると、知らない女のイブニ

ングドレスの下で盛り上がるヒップが目に止まる。「時は人を変える」そんな文句が頭に浮かん

だ。この女にネックレスの事を聞かれたらなんと答えよう?

「これは、着けたとたん身体になじむんだ。なんというか人肌にマッチするようにすごくデンドウ

リツがいい。伝導率。わかる?」エロを含んでいるのだが解るだろうか?

タバコを捨てた増藻の左手の指は脂で黄色くなって、その指でポケットの鍵をもてあそんでいる。

ジャガー。彼は汚いものできれいなものをもてあそぶのが好きみたいだ。「運転? いるから大丈

夫。運転手」佐古という男は神経質な男で、キーが汗で濡れていると、丁寧に布で拭きやがる。戦

う男に汗はつき物だろう。この手汗のせいでどれほど損したかわからない。それをまたこの男は丁

寧に非難しやがるんだな。

「日焼けしてるね」と話しかけられると、「南国に行く余裕なんて無いよ。でも、前世は南国の人

だけどね」この街に嫌気が差してんだ。

 叔父さんが演説している。高校の先輩。

「叔父さんは俺のこと誇りに思ってくれたよね。俺がこの世界に入ったときにかけてくれた言葉、

覚えている。『この世の中には穴が開いている。神様が空けた穴だ。そこに落ちるものは、運命に

導かれて落ちるのだ。決して己の仕事を恥じてはいけないよ』そんな叔父にいくら資金を援助して

やっただろう」

叔父さんは冬の札幌の街中でポスターになって笑っている。雪が降っている。東京の人には分らな

いだろうが、この街の冬は雪が降ったほうが道は歩きやすい。なるべく低い気温で音がなるような

雪道がいい。中途半端に雪が降って、その後に晴れて昼間に気温が上がると、その夜には歩道が氷

の道になってしまうのだ。さっき出て行った男たちは郊外へ。街中は彼らの範疇ではない。この街

では増藻のグループは端っこのほうに隠れている。

 薄汚い部屋で増藻は指先をピンとして宙に揺らした。世界に開く穴をなぞったつもりだ。そして

部屋を出る。下では運転手とジャガーが待っている。

 近郊の体育館に向かうまで、増藻はホンダとアウディーの数を数えている。雪の張り付くサイド

ガラスを開け閉めして、雪を払ってまで数えている。若い男がアウディーのクーペに女の子を乗せ

て笑顔で通り過ぎた。車って素敵だね。

 体育館に着くと、増藻はトランクからスポーツバッグを出してボクシング室に向かった。そこに

は殴り心地の良いサンドバッグが吊るしてある。スーツを脱ぎナイロンのトレーニングウェアに着

替える。このナイロンのウェアはシャドウボクシングをしているとき良い音がする。

ロープスキッピング3ラウンド、シャドウボクシング4ラウンド、サンドバッグ5ラウンド。パン

チングボール1ラウンド。二日に一度ここにくる。午前中のこの部屋は誰も人がいない。心を盛り

上げるにはもってこいの場所。たまにいるんだ。ひどくあからさまな敵愾心をもってしてサンドバ

ッグを叩く奴が。そう言う奴にふれたくない。「どうだ? 俺のパンチ。なかなかいい音たてるだ

ろう?」そう言いたげな人がいるから。

 昔、東京のボクシングジムに一人の若者と刺青の入った二人連れの男がいた。二人はまじめな先

輩ボクサーの戦績を笑った。若者もつられて笑った。心地よい風が吹いた。その風は花粉を運ぶよ

うに一つの運命を新たな世界に連れて行った。だから彼は今ここにいる。「マッシモなら勝てるん

じゃない?」そう笑う二人は増藻の股間に目をくれていた。四勝六敗。四勝六敗、シロ。色の白い

ボクサーだった。

 シャワーを浴びた増藻はデニムとダウンジャケットに着替えた。スーツはやさしくジャガーの後

部座席に置いた。郊外のマンションまで二十分。時計は十二時を少し回るだろう。そこには温かな

食事が待っている。そんな女がいて、増藻はたまにその女に乗っかったりする。彼女は東京でアダ

ルトな仕事をしていた。今は札幌で第二の人生を送っている。今まで数人の顧客を紹介した。肉体

の奉仕だ。その女は言うことをよく聴いた。東京でちやほやされてゆるんだはずの心はこの寒い街

で再び引き締まったのかもしれない。世界の底に堕ちても、その場所で独特なプライドを築き上げ

て這い上がる女。増藻はそれを尊重する、それと同時に彼女に疑いを持っていたりする。東京の大

きな人たちのスパイかも。増藻は東京を追い出された。この街で、新しいルートで仕事をしている

から、あまり探られたくない。ジャガーに乗っていると知れたら「どこから流れた金なんだ」と目

をつけられる。増藻は大きくなりすぎないように仕事をした。その女の前ではお金の匂いを消して

おいたほうがいい。

後部座席の中、光に包まれたような疲労感を感じて増藻は思う、上半身のスタミナが素晴らしい。

下半身は、サンドバッグに三度思い切り蹴りを叩き込めば意識が遠のくほどだ。女のデコルテを思

い浮かべる。少しだけペニスが膨らむ。勃起はいい。身体にいいんだ。心が太くなる。目を開けて

通りを眺めたが歩いている女の子たちの胸の谷間は拝めない。今は冬なのだし。増藻のそのナニは

日本人としてはかなり太めにできている。増藻は勃起をするたびに男としての勝ちを悟る。

「なぁ、佐古」と増藻は話しかけた。「サッカーやったことあるか?」

「インフロントキック」と佐古が返した。「昔ね、私が小学生の頃、ある先生がいまして。それが

まだサッカーが今みたいにメジャーじゃなかった頃の話なんですけどね。話していいですか?」い

いよ、と増藻が言う。「その…あの、サッカーではインフロントキックっていうのが重要なんでし

ょ? いやよく知らないけれど、それをですね、やたら教えたがる先生がいて、私たちにインフロ

ント、インフロントって教えるんですよ。そのやり方なんですけどもね、つま先を伸ばせって言う

んですよ。つま先を目いっぱい伸ばして足の甲で打てって言うんですよ。ところがですよ、つま先

を目いっぱい伸ばしてボール蹴ったら全然ボールが飛ばないのですよ。ゴルフでいうダフるって感

じで、なんか違うな、どこか違うなと思いながら練習してたんです。そしたらその先生、対外試合

しようって、隣の小学校に申し込んだんですよ。かなり自信があったんでしょうね。そしたらその

隣の小学校にサッカーの上手い先生がいて、その教え子、キックがめっぽう上手いでして、インサ

イドキック、アウトサイドキック、ヒールキックそれからインフロントね。彼らのインフロントっ

て足の親指の付け根でボールの下を擦るように蹴るんですよ。そしたらみんな、影でこそこそしだ

したんです。うちの先生駄目じゃない? みたいな感じでだんだん嘲笑がおきてきたんです。味方

から敵から『なんちゅうキック教えとるんだ?』って。でも、私、いまさらながら思ったんです。

あれ『未熟なインステップキック』だったんじゃないかって。で、まぁその後なんですけどね、先

生、身体鍛え始めちゃったんです。何を思ったかボディービルディング初めて、だんだん身体と顔

の釣り合いが変になっていって、それがおかしくて。その先生、元は骨格が細かったものですか

ら、首は細いまんま肩がいかってきて、首を境に二人の人間が合わさってしまったみたいでして。

これはかなり笑えましたけど。たぶんあれはかなりプロテインを飲んだはずですよ」佐古がミラー

で増藻を確認した。目を閉じていた。その後、言葉は続けなかった。

増藻は思っていた。人間はニワトリじゃない。一度突かれても、また違う方法で突き返そうとす

る。人間らしい話じゃないか。でも、俺が求めていたのは、佐古の醜い青春時代の話だったのだ。

期待はずれだな。

 間々あって佐古が話した。「中学の頃ね、サッカーボールがみぞおちに当たって、あれ、本当に

苦しいもんですよね。その時 私、変な声出したから、みんなうれしがっちゃって、しばらくその

ネタで滑らなかったですよ」

「どんな声?」と増藻が訊いた。

「ぇぁふん。とかです」増藻はクスクス笑っていた。思いの外うけたようだ。

自宅から歩いて十分のところで車を降りた。雪の張り付いた車が通りすぎてゆく。洗車はしないほ

うがよいだろうか? 佐古はうまく車線変更して流れに乗った。

 地下鉄を一駅ほど離れたところに貸しガレージがある。佐古はそこに車を入れた。佐古は雪の中

をコンビニまで走って、その入り口でタバコに火をつけた。「成仏 成仏」そう心で唱えながら深

く煙を吸い込み、吐き出した。

昔、タクシーをしていたとき不思議な客を乗せた。最初はテレパシーかと思った。しかしそれはあ

まりにも本人とはかけ離れていたから、しだいに別の何か、霊体かもしれないと思った。その発見

はあまりにも自然だったから、素直に信じてしまった。寒気もしない純粋な声だった。「おじさん

チンポでかい?」そう聞いてきたから、「まぁまぁだねと答えた」佐古は自分で自分を馬鹿だから

と思う。馬鹿だからこんな声が聴こえてくるんだな。「クスクス」と声が聴こえた。その後、柔ら

かな声で「商売を変えたほうがいい」といわれた。

 増藻さんはいい。一緒にいるとプライドをいじられない気がする。気に障るところが無くて、し

かも私を見下してくれる。それが私には心地よいのです、増藻さん。

 タバコの煙は風に吹かれて、怖い男の怒声に吹き飛ばされる魂のように消える。佐古の前を高校

生が笑いながら歩いてゆく。佐古の魂の一部は彼らに持っていかれる。

 北から風が吹いている。乾いた雪を導いて。西に東にある山を、すり抜けるよにこの街に。なぜ

にそれは吹くのですか。教科書の外にあるその訳は、いまだ誰も知るに至らず。それは心の薄い膜

を、震わすように吹いていて、腹の底までさらすことに恥じらいを与え、たまにそれを打ち破るよ

うにつき刺さる。ここを歩く人々に北から風が吹いている。
 
 

 
後書き
まだまだ続くよ。 
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