ファルスタッフ
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第一幕その一
第一幕その一
ファルスタッフ
第一幕 図々しいラブレター
ウィンザーにガーター亭という安い宿屋がある。ここは非常に有名な宿屋だ。何故有名かというとそこを宿ではなく家にしているある老騎士のせいだ。この騎士の名をサー=ジョン=ファルスタッフという。一応は卿と尊称を付けて呼ばれる身分にある。だがとんでもない人物だ。
殆ど白くなってしまった薄い、ほぼ禿と言ってもいい頭にやけに大きな黒い目、顎鬚はまばらで口髭も多くはない。大柄だがそれ以上にやたらと太っていてまるでビール樽だ。この老の名前を聞くとロンドン市民達は口々にこう言う。
「あっ、あの人ですか」
「また何かやったんですか!?」
こんな有様だ。とかく話題の人物だ。いつもブラウンのズボンにごつい革靴に白いシャツとズボンと同じ色のチョッキを着ている。身だしなみはわりかし気を使っている。ただし他人には気を使わない。
今日も宿屋のロビーの大きな肘掛け椅子に座っている。向かい側には長椅子がある。それを挟んだテーブルの上にはワインの空瓶にインクスタンドにペンや紙、キャンドルが雑多に置かれている。彼はその前で二つの手紙に封をしていた。それが終わった時に一人の中年男が入って来た。
「ファルスタッフ卿!」
「誰じゃ」
男の方を振り向こうともしない。
「この前のことです!」
「借金取りならお断りじゃぞ」
平然として言葉だけ返す。
「とっとと帰れ」
「借金ではありません」
「女のことなら弁護士を連れて来い」
「女のことでもありません」
「じゃあ何じゃ」
「私はフランス人です」
「何っ、フランス人」
フランス人と聞くとその大きな目をさらに大きくさせて立ち上がった。そして誰かを呼んだ。
「親父、海軍大臣を連れて来い」
「どうされたのですか?」
蜂蜜色の髪にいささか白いものを混ぜた初老の男が出て来た。その棲み付いているファルスタッフのおかげで名前が知られてしまったガーター亭の親父ではなく彼の従者の一人バルドルフォだ。親父は奥で寝ているようだ。
「フランス人だ。スパイだ」
「この方はお医者様のカイウスさんですが」
「カイウス。何処かで聞いたな」
「そのせつはどうも」
にこりともせずファルスタッフに声をかけてきた。
「この前私の屋敷にお招きした時」
「何時だったかな」
とぼけてみせてきた。
「覚えておらんな」
「私の召使を殴って雌馬を使いものにならなくして」
「おい、親父」
そのカイウスが怒っているのを気にせずにバルドルフォに声をかける。
「何でしょうか」
「シェリーと一瓶だ」
「シェリーですか」
「そうだ、それをくれ」
「わかりました」
「しかも家を滅茶苦茶に破壊してくれましたな」
「何だ、そんなことか」
カイウスの抗議を耳糞をほじりながら聞いていた。
「そんなこと!?」
「あんたのところの女中には何もせんかったぞ。それは感謝せよ」
「それはまた御親切なことで」
怒ってはいるが嫌味は隠さない。
「あんな目やにの出たお婆さんにはね。全く寛大なお話で」
「だから感謝せよと言っているのだ」
「それで貴方が騎士なら答えてほしいのですが」
「答えか」
「左様で」
「では答えよう」
カイウスの言葉を受けて本当に答える。
「わしはあんたの言う通りのことをやった」
「はい。それで?」
「やりたいからやった。それだけだ」
「王室評議会に訴えてやる!」
あまりにもふざけた答えなので遂に怒りを爆発させた。
「お好きなように。だが一つ忠告しておこう」
「何ですかな」
「あまり怒ると健康によくないぞ。それだけだ」
「どうも御親切に」
さらに怒りに油を注いで楽しんでいるのは明らかだった。
「御忠告痛み入ります。しかも」
「今度は何じゃ」
「昨日私にお酒を御馳走して下さいましたね」
「上等のラム酒だ。満足しただろう」
安酒だ。それを振舞ったと自慢しているのだ。
「ええ。おかげで二日酔いで。最後の方はもう意識がなくて」
「まだ鼻が赤いな」
「その鼻が赤くなるまで飲ませてあんたは」
「わしが何をしたというのだ?」
「財布がなくなってるんですよ。ほら、そこの」
ロビーの端で酒を飲んでいる痩せた男を指差す。帽子に白い羽根をつけて黒尽くめで変に洒落た格好をしている。その男を指差したのだ。
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