後宮からの逃走
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第三幕その五
第三幕その五
「私はこの御恩を忘れたら喜んで縛り首になりましょう」
「私もです」
ブロンデも言う。
「その時は」
「愛の喜びに浸りながら感謝の心の命じることは忘れません」
コンスタンツェもまたセリムに対して告げた。
「愛に捧げられた私の心は感謝に対しても」
「この御恩と特に報いましょう」
ベルモンテはこのことをセリムに誓った。
「そして貴方の御高名を天下に」
「そうしてくれれば何よりだ」
セリムは四人の感謝の言葉を静かに聞いて述べた。
「私は。それだけでいい」
「何という素晴らしい方だ」
「全くだ」
宮殿の者達もセリムの徳に感激していた。あらためて自分達の主の徳を知って。
「この様な徳を持たれているとは」
「我々が今まで思っていたよりもさらにだった」
元々徳の人物だとは思われていたのである。だがそれは彼等の想像以上だったというわけだったのだ。セリムの徳はそこまで達していたのである。
しかしであった。オスミンだけは違った。何とも苦々しい顔をして言うのであった。
「どういうことだ。悪党共が助かるとは」
地団駄を踏んでの言葉である。
「この忌々しい奴等に何を以ってするべきか」
「だからオスミンさん、それは」
「もう言っても」
周りの者達が言っても彼の癇癪は収まらず。またこんなことを言い出すのであった。
「まずは首を刎ねお次は縛り首にし」
「またはじまったよ」
「この人も飽きないねえ」
「それから焼けた棒で串刺しにして火炙りに金責め」
さらに言葉を続ける。
「それから水責めにして最後は皮を剥いでやる」
そこまで言って黙ってしまった。そしてここで言うのであった。
「まあもっともだ」
「もっとも?」
「どうしたんですか?」
「太守様が決められたことだ」
とりあえず一通り騒いでからの言葉である。
「わしが言ってもはじまらない」
「そうそう」
「可愛い女の子なら幾らでもいますし」
「この世の喜びもまた」
「後でバッカスだ」
覚えた酒について述べた。
「忌々しいがアッラーよ御赦しを。また飲みます」
「酒でも飲んで嫌なことは忘れましょう」
「そして次の幸せを」
「復讐程忌まわしいものはない」
セリムは後ろのこうした喧騒をよそにまた言ってきた。
「それよりも相手から学びそれで私心を捨てて人を赦すことだ」
「はい、その通りです」
「ですが口で言うのは容易くとも」
「行うことは難しい」
セリムの従者達が口々に言う。
「それをできるからこそ太守様は素晴らしいのです」
「偉大な心を持たれているからこそ」
「アッラーの御名において命じる」
セリムはあらためて四人に対して告げた。
「租国に帰り。このことを全て語るがいい」
「はい、それでは」
「そのように」
四人も晴れやかな顔でその言葉に応える。そこには誠意のみがあった。
「以上で今宵の騒ぎは終わりとする。では行くがいい」
晴れやかな顔で港に向かう四人を見送りつつ宮殿の者達の自身を讃える声を聞くセリムであった。四人も感謝の言葉を忘れずそれは彼等の心そのものでもあった。このセリムの徳の話は今でも伝わっている。イスラムの高徳の太守として。言うまでもなくベルモンテ達四人が広く伝えた話である。それはモーツァルトの音楽を通じ遠く日本にまで届き今こうして書き残されることになった次第である。
後宮からの逃走 完
2008・12・7
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